第58話 或る権力者の死
ドイツ保護領ベーレン・メーレンの初夏。
プラハ郊外 パネンスケー・プジェジャニ地区の緑に包まれた屋敷では、一組のカップルが朝を迎えていた。
共に長身金髪の青い目。ヒトラーが理想とする『完璧なゲルマン的美質』を体現したような夫婦は、チェコ人メイドの給仕のもと穏やかな朝食の時間を過ごしていた。
子供たちはとっくに起きて子守り女たちに世話を焼かれている。
美しい妻リナのお腹は大きく膨らんでいた。臨月を迎えているのだ。
夫で子供たちの父親ラインハルト・ハイドリヒ保護領副総督は、食事を終えると身支度を整え、SS将校の黒い制服を着こんだ。
シューマンが歌曲集『詩人の恋』の第一曲に据えた『美しき五月』も終わりを迎え、中欧の春は駆け足で夏に交代しようとしている。
屋敷を取り囲んだボヘミアの森の木立の間から、輝く陽光が踊っている。
行ってくるよ、可愛い奥さん。
女性問題で散々妻を困らせて来た親衛隊大将は、彼女を抱き寄せ挨拶のキスをした。
子供たち…9歳の長男クラウス(名付け親は自身が粛清したSA指導者レーム)、8歳の次男ハイデル、3歳の長女ジルケの頭を撫で、彼は屋敷の玄関を出た。
公用車ベンツ・カブリオレに乗り込む直前、夫妻はもう一度抱き合った。
来月には4人目の子供が生まれるのだ。
出産の前にはフランスとベルギーの総督へと昇進移動するかもしれない。
その内示を受け、月初に夫婦で視察に行ってきたのだ。
生まれてくる赤ん坊には王侯貴族のような扱いがふさわしいだろう。
家族と共に、王家の人間のようにベルサイユ宮殿に入城するのもいい。
そして何より、フランス女は洒脱でコケットリーだと聞く。それも楽しみだ。
運転手兼ボディガードの親衛隊曹長ヨハネス・クラインがオープンカーのドアを閉め、ボヘミアの爽やかな初夏の風に吹かれながら、(ヒトラーや上官ヒムラーから再三不用心だと注意を受けていたが)オープンカーのまま ラインハルト・ハイドリヒは出発した。
5月27日。
プラハ市のフラッチャニと呼ばれる小高い丘の上にそびえるプラハ城…彼の執務室がある広大な城に向けてである。
家族とのふれあいの時間が長引き、ハイドリヒが屋敷を出る時間は常日頃の9時よりだいぶ遅れた。
いつもなら9時30分にはプラハ郊外のコビリシ地区に差し掛かるところが、10時30分を過ぎようとしている。陽も高く上り、沿道の町角で商店や露店が店を開き、にぎわい出している。
こののどかな初夏のボヘミアの時間に、じりじりしながら『誰かを』待ち受ける男たちが居る。
イギリスで首相チャーチルの保護を受けている反ナチ亡命政府の傘下で、密かに特殊訓練を受けた亡命チェコ軍人10人のうち2名である。
前の年1941年の12月28日、上空に侵入したイギリス空軍期からパラシュートで降下、プラハ市内で仲間たちと合流し潜伏していた、現在のスロバキア出身のヨーゼフ・ガブツィク曹長、チェコ出身のヤン・クビシュ軍曹が、初夏の日差しのなか物陰に身を潜めていた。
目的はただ一つ。ベーレン・メーレン保護領と名を変えられたチェコに君臨する、ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将の命の取奪である。
10時30分過ぎ、プラハ北方コビリシ地区の広い道路に、だいぶ遅れてメルセデス・ベンツオープンカーが現れた。
路面電車トラムの二本の線路が並走し、急なカーブにトラムの停留所がある道路の一点。ここが彼らの計画した襲撃地点だった。
実行者の2人に加え、国内に残った抵抗組織からさらに4名の見張りや伝令、計6人の暗殺部隊が『金髪の独裁者』の接近を待った。
プラハ中心地に入る急激なカーブに差し掛かり、ベンツがスピードを落とした時、コートの下にステンMk-II短機関銃を隠し持ったガブチクが歩道に出た。
コートをはね上げ、ステンガンを構えたガブチクは引金を引いた…はずだった。
弾が出ない。充分に吟味し良い銃弾を装填したはずなのに、弾が発射されないのだ。
運転手のクライン親衛隊曹長が彼らの存在に気付いた。
このまま突っ切って猛スピードでかわした方が良い。彼はそう考えたはずだ。
だが主人ラインハルト・ハイドリヒは車を止めさせた。襲撃者に反撃すべく彼らが取り出したのは拳銃だった。
ガブチクらが事前に調べたとおり、誰も護衛はいない。
親しみやすさを演出するためか、何度中央から注意を受けようと、ハイドリヒは無防備な通勤を続けたのだ。
今日それが裏目に出たのは明らかだ。
機関銃が不発とみると、ハイドリヒはガブチクに拳銃を向け立ち上がった。
そこにもう一人の実行者クビシュが接近し、魔法瓶のような物体を投げた。
青空に一個の対戦車擲弾が弧を描き、ベンツの右後輪付近に落ち、一瞬で火の玉となって炸裂した
爆発に巻き込まれたハイドリヒは体のあちこちから血を流して倒れた。
暗殺集団は運転手クラインとの銃撃戦の末彼のひざ下を撃ち抜き、姿をくらませた。
怪我を負ったクラインは通りかかったトラックにハイドリヒを乗せ、ブロフカ病院に搬送させた。
軍服の上からだと傷は浅く見えたが、爆発で生じた破片がいくつもの体内に刺さっている。横隔膜が断裂し内臓も損傷するという重傷であった。
ハイドリヒはチェコ人医師の手術を拒み、ドイツから医師団を派遣するよう求めたが、事態は急を要した。
急遽呼ばれたプラハに住むドイツ人医師ホルバウムが執刀し、正午過ぎに手術が行われた。
胃腔に空いた創傷から脾臓の大部分が取り除かれ、左肺と横隔膜も大きく切除された。
体内に食い込んだ破片を取り除き、手術は成功したように思われた。
実際容体は安定し、襲撃と手当から4日後の5月31日には見舞いに訪れた上司ヒムラーと病室で対面し、短い言葉を交わすことさえできた。
だがその2日後から容態が急激に悪化し、高熱と共に昏睡状態に陥った。
傷口から体内に混入した微細な欠片による感染症、との診断がドイツ本国にもたらされ、ヒトラーはプラハに武装親衛隊医師長カール・ゲープハルトを急行させた。
ハイドリヒの急変に、ヒトラーの侍医テオドール・モレルは、自身が新しく開発した抗菌薬の使用を薦めたが、ゲーブハルトはこれを拒否した。
襲撃から8日後の6月4日早朝、ベーレン・メーレン保護領副総督ラインハルト・ハイドリヒの心臓は、永遠に動きを止めた。死因は細菌感染による敗血症と言われている。
遺体は6月6日までプラハ城に安置された後、多くの群衆が集まるなか市内の目抜き通りを行列で運ばれた後、列車でベルリンへ移送された。
6月9日、家族や同僚、総統アドルフ・ヒトラーや多くの党員・軍人の参加する盛大な国葬が行なわれた。
最後に抱擁した際妻のお腹にいた、彼のまだ見ぬ赤ん坊がこの世に生を受けたのは、翌7月末のことである。
ベルリンでの葬儀において、ハーケンクロイツの党旗に覆われた棺と共に党幹部と並んで歩く、弟ハインツ・ハイドリヒの姿が映像や写真に残っている。
明るく陽気で積極的と言われた表情は消え、いかなる感情もそこに見出すことはできない。
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