第47話 プリンツアルブレヒト・パレス

 僕が借りた部屋は学生街と静かな住宅街の境目にある。もの静かで丁寧な物腰の、よく手入れされた銀髪の寡婦とその嫁が暮らす家の一角だ。

 近くには日本人駐在員やその家族が多く住む地域があるが、僕はそこを避けた。

 同じメンバーで顔を突き合わせ住んで生活を送れば、自然に相互監視状態になってしまう。

 このご時世、ただでさえナチの監視がきついのだから、そこまでは御免被りたい。


 大家の主たる老婦人は、軍人の息子と嫁の結婚を喜び、家を改装して二人と同居すべく準備をしたが、息子が東の戦線に狩りだされ戻って来ない。

 そこで、長くてせいぜい数年と、短期間で明け渡してくれる上に金払いが良く、部屋を清潔に使うと評判のいい「日本人」に貸す事にしたのだ。

 僕がアルバイト先の通信社の名前で部屋募集の新聞広告を出したら、あっという間に十数件の応募があった。

 その中から適当な所を上司とその奥様が見繕ってくれたのだ。

 生活者である女性の目は鋭くて、厨房は無かったが風呂やトワレットなど水回りのチェックや隙間風、陽当たりやかび臭さなどつぶさに洗いだし、きっちり決めてくれた。

 若い(といっても僕より年上だ) の軍人の細君が大家という事で、同僚からはずいぶん冷やかされ、また真剣に忠告を受けたが、僕には無用の金言だ。

 僕は女性には全く興味がない。

 というと男性諸氏の間には、男色かと野卑な冗談を言ってくるものもあるが、人と触れ合いたい、恋をしたいという感情がまるでないのだ。

 努力すれば「家族の義務」は果たせると思う。また、同士愛といった結びつきは得られるとは思う。

 ただ、色恋という感情は僕には要求しないでほしい。

 日本に帰ったとたんに婚約者と破局したのも、この感情故だろう。

 向こうは強制送還も同然に戻った僕に


「死ぬほど心配した」

「もうどこにも行かないでほしい」

「私と身も心も一体になってほしい」


とひたすら情熱的に寄りかかって来たのだが、僕は醒めるばかりだった。

 僕が冷淡過ぎるというので、そのうちに向こうは屋敷に出入りの学生と恋愛関係に陥り、勝手に嘆き悲しみ、勝手に心中未遂をしてしまった。

『性格の不一致』という事で僕らの婚約は解消したが、そんなに自分で愁嘆場を作り上げなくても、正直に「恋しい人が別にできた」と言ってくれれば、喜んで送りだしたろう。


 ともあれ、僕は日本の通信社のベルリン支局で、事務作業や取材の助手として働き始めた。

 日本から来た所長が一人、他には数か月後に船で何人か支局員が来るという。

 僕の他にもドイツ人女性の事務員、現地で生まれ育った日本国籍の日独混血の青年が一人が働いていた。

 作業量には日々波があったが、概して忙しい。


「君、信野くん」


 支局長が僕を呼んだ。たまたま一人で手紙類の翻訳と整理をしていた時だ。一人しかいないにもかかわらず名前でよばれるとは、あまり良く無い兆候だ。


「なんでしょう」

「この記事の複写を持って、1時間後までにこの場所まで行ってくれ」


 手渡された地図には絶対に行きたくない場所、プリンツアルブレヒト通り8の、旧美術工芸学校の建物。すなわち現在ゲシュタポの本部として使われている場所が記してあった。

 思わず顔をしかめた僕に、支局長も同情するように言った。


「気が進まない場所だというのは重々承知しているよ。でもドイツ語を自在に操ることができて、向こうの係官と支障なく話が出来るのが、今君しかいないんだ。他の者は皆外に出払っていてね」


 それはこの場に居れば嫌でもわかる。


「別に僕が名指しで呼ばれたわけじゃないんですよね」


 念を押すと、支局長は苦笑した。


「この日本に送る前の記事を、ナチスの機関紙の責任者に渡してほしいだけだ。僕が行くべきなんだろうが、先方はご両親が音楽家で自身も音楽好きだから、演奏家でもある君が行くのが適任かと思ってね。運よく知り合いになっておけばこちらも有利かも知れないし」


 呆れるほどあからさまな意見だ。


「記事の内容そのものは他愛もないものだ。ゲッベルス殿下の肝いりで作った合作映画の、日本での公開状況と評判を、ドイツでの評判と絡めて描いたものさ。先方も気になるんだろう。君が怯える類のものじゃないよ」


 僕がナチや警察と友好的とは言えない人物であることは、彼もよく知っている。知っていながら職員として雇っているのだから全く喰えない人物である。


「機甲宣伝部隊の機関紙『 Die Panzerfaust』の発行責任者、ハインツ・ハイドリヒ親衛隊中尉。彼と約束を取り付けてあるから、受付にその旨伝えて行ってきてほしい。そうそう」


 支局長は浮かない顔の僕に、畳みかけた。


「君の愛用のヴァオリンを持参したまえ。ハイドリヒ殿下は大の音楽愛好家らしいから、憶えがめでたくなるかもしれないぞ」


 そんなやつの前で演奏する羽目になったら、ヅィンマン先生の教え子として大いに恥じる事態だ。

 僕は眉根を寄せたまま、それでもアパートに寄り楽器を手にして、ハゲタカどもの巣に向かった。

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