ラシアン
〜2.ラシアン〜
日の光に瞼をくすぐられ、そっと目を覚ます。髪を整えようと、いつものように鏡台の前へ行こうとして……そこでシェーナは気がついた。
そこは、ラシアンの小さな宿屋。
広大な面積を持つラシアンは、神殿区画と、宿屋や商店の立ち並ぶ商業区画、軍部の管轄する広い陣地、住民の多くが住む住宅区画、それから……広い街の外れにある、ここ、雑居区画とに分かれている。
雑居区画には、商店や宿屋や住宅が、所狭しと並んでいた。
長くラシアンに住まない、各地を転々とする旅人や、何らかの理由で街中には居辛い者たち、様々な人々が、この区画に居を構えている。
シェーナが泊まったのは、その雑居区画にある、素朴な宿屋だった。
夜中近くにラシアンに入ったシェーナは、夜のラシアンの状況を見て回っていた。
フォーレスと異なる万全の警備体制、城壁に、四方八方に布かれた抜け目の無い陣──夜警。
なるほど、これはかなりの警戒態勢だ。
シェーナが感心していると、ぽん、と後ろから肩を叩かれる。
『お困りですか? 宿をお探しでしたら……狭く小さな所ではありますけれど……うちへいらっしゃる?』
やわわらかな、落ち着いた声が、シェーナに微笑んだ。
夜に歩く理由はないし、あるとしたら、最初に町へ入って宿を探しているこの時くらいだ。もう少し夜の状況を知っておきたかったのだが……しかし断る理由も思いつかない。それに、宿が見つかるのはありがたいことだ。
シェーナは微笑み返すと、助かりました、と安堵した表情を見せ、偶然歩いていたこの区画の……小さな宿屋へとお世話になることになったのだ。
身支度をし、階下へと下りると、美味しそうなスープの香りが鼻をくすぐる。三つほど置かれた四角い木製のテーブルでは、宿泊者がめいめいに食事をとっていた。
二つのテーブルはすでに埋まっており、残る一つへと足を進めると、食事を運んでいる昨日の女性と目が合った。
女性は軽く微笑むと、こんがりと焼けたいくつかのパンとあたたかなスープをシェーナへと手渡し、こっそりと声をかける。
「外に出るときは、
シェーナは女性の気遣いに礼を言うと、後で借りにいかせて頂きます、と言って、とりあえず目の前の美味しそうな食事に手をつけた。
噂に聞く以上に、シェーナの容姿では、今のヴァルド国内を動くのは難しそうだ。
動き回るのが許されているといったって、そのことは限られた軍部の人間しか知らない。あとは、軍部から与えられた印で、通行することができるくらいで。民衆の目を考えると、対策も練る必要がありそうだ。
とすると、今後は変装も必要か……。
次々に考えが浮かぶ頭を振って、二つ目のパンを手に取った。
「美味しいものを食べてるときは、そのことだけ考えよう……それ以外は、あとあとっ。……あ、このスープ、とってもおいしい!」
自然と、顔に笑みが浮かぶ。
あとはただ、美味しさと、味わいとが、シェーナの頭を支配していた。
ふとテーブルを見やった宿屋の女性は、幸せそうにパンを頬張るシェーナの姿を見て、くすくすと微笑んだ。
──コツン、カツン。
硬い床を遠慮がちに叩く足音が、広い廊下に木霊する。
白い柱が長く続く神殿の柱廊は、外よりもひんやりとして冷たい。体の芯にまで、冷えた空気が流れ込むかのようだ。神聖な空気と言ってしまえばそれまでだろうが、ここの空気はむしろ、凍てつくような……。
以前訪れた時は、身近なことや遠い人のこと、様々なことを想いながら、そっと祈りをささげる人が多く訪れている……どこか澄んだ空気の流れる静かな場所だと思ったけれど……。
今は、人気も少なく、静けさならぬ沈黙の静寂が、微かに身を震わせる。
淡く金に光る長い髪……本物に見えるような鬘の髪を揺らして、シェーナはラシアンの中枢の神殿区画にある、ヴァルドで広く信仰されている導きの神、アスプロ神を祀った神殿を歩いていた。
アスプロ神を祀った神殿はヴァルド内に数え切れないほど存在しているが、中でもここ、ラシアンと、ヴァルド首都アフィリメノス、それからノトスの神殿、その三つの神殿は大規模なものだ。
初めてラシアンの神殿に足を踏み入れた時は、その壮大さに驚いて目を白黒させた記憶がある。
「……はぁ」
高い天井、白く、白い空間。
シェーナは誰にも気付かれないくらいに、溜息をついた。
鬘を借りてきたのは正解だった。
瞳の色までは隠せないが、だいたいはごまかせる。
……本当に、ヴァルド人以外を排除する風潮が高まっているようだった。否、反対するものも多いのだろうが、そういった者はぞんざいに扱われてしまうからなのだろう。神殿の入り口でも、アーリア人らしき旅人が入場を拒まれており、抗議の声をあげるその旅人にやわらかく接していた一人の若い司祭が、旅人が去ったあとで別の司祭に叱責を受けていた。
「……」
シェーナは無言で歩を進めると、広い祈りの間へ足を踏み入れた。
廊下以上に天井が高く、白い壁の大きな間に、長い机が左右に何列も並び、中央を、くすんだ赤の敷布が通っている。
敷布は真っ直ぐに奥を目指して敷かれ、奥に置かれた台座の前で止まっていた。
上を見上げると、一枚の大きな絵と目が合う。
そこに描かれていたものは、しっかりと大地に両足をつき、白い衣の裾を土で微かによごしている、アスプロ神の姿だった。
ヴァルドは、広がる大地を、リリーの清い力のあたたかさを信仰する国だ。アスプロ神にしても、浮いているのや飛んでいる姿が描かれているのなんて見たことがない。
ヴァルド各地に飾られ、祀られているアスプロ神の絵は、どれも大地に密着している姿だった。
シェーナは、幼い頃から不思議に思ってきたことがある。
けれど、それを言うと、不思議がられるか、注意されるかのどちらかだった。
それは、空の存在──。
ヴァルドに限らず、セレスというこの大地にある国々は、空を、その先を願うことを禁忌としていた。
空に近づいてみたいだなんて言語道断……らしい。
空を羽ばたく鳥みたいに、遠くへ飛んでいけたらいいのにね、と村の人に言って、さんざん怒られたことがある。
『鳥はね、悪いことをした人間が死んだときに変化する姿なのよ。鳥になると、長いこと地に足をついていられなくなるの。ふわふわした空間にしか生きられない……それはとても悲しいことよ。渡り鳥を見てごらんなさい、季節ごとに行き場を求めて、飛んでいかなければならない。一所に留まっていられないなんて、酷でしょう?』
村のおばさんは、小さなシェーナにそう力説してくれた。地に足をつけて、実りを願いながら暮らすのが幸せなのだ、と、何度も何度も語ってくれた。そして、空は様々な表情を見せてくれる、遠くにあるものだからいいのよ、とも。
『祈りは大地に、アスプロ神に。悲しみは空に、そして忘れなさい』
唄の様に響く言葉を、何度教えられたかわからない。
いつしかシェーナはそれを受け入れ、空は遠くのもの、考えてはならないものと意識するようになった。
けれど、記憶にもない昔から微かに惹かれる心だけは動かせるはずもなく、禁忌と知りつつ、誰も見ていないところで空へと願ったり、手を伸ばしたりしたことは、両手の指の数では足りない。
「大地は浄で、空は不浄……か」
ほとんど口を動かさず、ほとんど声量を出さずに呟く。
「……」
空には人の悲しみが溜まって、空に祈ったり願ったりしたものは、その悲しみを身に受けてしまうと言われているけれど……。
だとしたら、あいつは、何者なのだろう……。
空から降りてきた、奇想天外だらけの人物を想って、シェーナは口許をおさえて微笑んだ。
「──きっと、まだ解らないことのほうが多いのよね」
金の髪を揺らすと、そのまま神殿の入り口へと戻っていく。
大地で微笑むアスプロ神の絵を背に、先ほどよりいくらか足音を響かせて廊下を歩いた。
静かでありながら、どこか軽やかなその響きは、石造りの長い廊下を過ぎ、入り口を出たところで小さくなっていった。
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