Dead Town

行枝ローザ

第1話 いなくなる隣人  

石崎いしざき 良一りょういちは丸くて大きな座卓の前でしばらくぼんやりとしていたが、ふと心づくと、手元にあった茶碗に注いである煎茶を啜った。

温い、というにはもうずいぶんと温度が下がっている。

「おおーい」

「はぁい」

キッチンにいるはずの、妻の京子《きょうこ》に声をかけると、別の方角から返事が聞こえた。

「何です?どうしました?靴下はもう履いたの?」

「靴下?」

ぼぅっとその言葉の意味を考える。

はて……

「あらいやだ」

綺麗に化粧をした女が入ってきた。

誰だろうと良一は不思議そうに見つめると、その女は慌てた顔で近寄ってきた。

「あなたったら!もう一弥かずやと待ち合わせの時間になっちゃいますよ!自分で着替えるって言ったから、お手伝いしなかったのに……」

ほらほら…と促す女をもう一度見直すと、それはきちんと化粧を施した妻だった。

六十七歳の同い年の妻の栗色になった髪を見れば、もう白髪が半分ほども混じるが、やっぱり綺麗な女だ。

「着替え…そうだったな。着替え…」

「もう……しっかりしてくださいな。あと三十分しかないんですから!」

三十分──それだけあれば、着替えるには充分だろうに、京子はバタバタと良一が脱いだものをまとめて、どこかへ持って行ってしまった。

さて……何を着たらいいんだろう?

「はい、シャツ。はい、パンツ。はい、ズボン…」

京子からテキパキと手渡されるが、スピードが追いつかない。

「ちょ、ちょっと待ってくれよ……」

「待てませんよ。ほら」

ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。

静かな家の中に、ずいぶんと大きなチャイム音が鳴り響いた。

「はいはいはぁい。一弥ったら、待ち切れなかったのかしら……はいはい、ちょっと待ってねぇ……あら」

京子が壁に取り付けられたカメラ付きインタホーンのボタンを押すと、そのモニターに映し出されたのは息子の顔ではない。

「あら、あなた、ちょっと、お隣さんよ」

「お隣さん?」

お隣といえば、成田さんだろうか?嶋さんだったろうか?

「はぁい」

首を回して画像に焦点を合わせようと見つめたが、良一がその人物を認識する前に、モニターの電源は切れてしまった。

パタパタと小気味よくスリッパを鳴らして玄関へ出る京子の若々しさに、良一は思わずため息をつく。

あんなに騒々しくしなくたって、こんな静かな家だもの、玄関にまで声が届くだろうに。

「あら…まぁ……そうなんですか?」

「やあ、こんにちは」

「あ、どうも、こんにちは」

ようやく着替えが終わって、京子に続いて玄関へ顔を見せた良一に向かって、男がペコリと頭を下げた。

それはこの街で『一番若い』──今年で五十歳になる成田なりた 慶介けいすけだった。

「いや、今日これから引っ越しなんで、トラックとか入ってうるさくしてしまいますが、よろしくお願いいたします」

「え?」

「……成田さん、お引っ越しされるんですって?」

「え?」

良一にはいまいちピンとこない。

お隣の成田さんは数年前に旦那さんが亡くなって、今は奥さんが長男の慶介と一緒に暮らしている。

いったい彼はその年老いた母親を置いて、どこに行ってしまうのか?

「いやもう自分もちょうど五十になって責任ある立場になって、母も介護が無いと動けないし、あまり子供達に世話かけたくないってことで、養老施設に入ることになりまして」

「あ、ああ、そう…なんだ」

言い訳するように早口でしゃべる慶介に釈然としない気持ちではあったが、良一は話を合わせるように頷いた。

「それは本当に急に……じゃあ、君だけ残るのかね?」

「あ、いやぁ……」

罰が悪そうに慶介は頭をかいた。

「親父の残してくれた家ですし、結婚でもしていればよかったんですが……けっきょく俺の方がもらい損ねちゃって」

「あら、じゃあ慶介さんもどちらかに?」

「ええ。会社の社員寮が空いているので、いったんはそちらに入ることになりました。いずれはそこも取り壊すので、改めて会社の近くで探そうと思っているんですけどね」

「まぁまぁ…ご実家が無くなったら、妹さんも帰ってこれなくなりますねぇ」

「いやぁ」

京子の言葉に、慶介はさらに罰が悪そうになる。

「あいつんところは先々月に初孫が生まれまして……俺も母親を連れて泊まりに行くこともあるし、もうすっかりあいつんとこが『実家』ですよ。それに……」

ちょっと言いにくそうに口をつぐんではみたものの、慶介は諦めた感の強い溜め息を吐いてから続けた。

「引っ越せば、母も孫やひ孫のそばに入れるし」

「あら、じゃあお母様は妹さんのおうちの近くに?」

キョトンとした顔で京子が聞き返すと、慶介は落ち着きなく視線を外して肩をすくめ、ガシガシと頭を掻く。

「ええ、『あっち』だと、保育施設と養老施設が一緒になったホームがあるんです。ちょうど入居できることになったんで……そこの保育園に姪っ子の子供も通ってるので、いつでも孫たちと会えるって喜んでますよ」

あはは…と力なく慶介が笑ったのと同時に、トラックのエンジン音が聞こえてきた。

そろって音のする方を見れば、『特別通行許可証』と大きく印字されたパウチ紙をフロントガラスに掲げた大きなトラックが、誰もいない道をゆっくりと成田家へ向けて走行してくる。

それを見た慶介は、ソワソワと急ぐような表情をして体の向きを変えた。

「あ、もうそろそろ行かないと……どうもお邪魔しました」

「そうね…あまり長時間止めていられませんものね。うちももうすぐ出かけるので、よかったらうちの前に停めても大丈夫ですからね?」

「あ、はい。ありがとうございます」

何度も頭を下げながら、慶介は引っ越し業者の名前とイラストが描かれているトラックへと駆け寄り去った。

その後ろからもう一台五人ほどの男女を乗せた乗用車もやってきて、揃いのジャンパーを着た八人の業者が挨拶の声をかけながらさっさと成田家へと駆けこんでいく。

その人の流れを見ながら、良一はポカンとした。

いったい──何の話だったんだ?

「なあ、おい……」

「本当にねぇ……どんどん若い人がいなくなっちゃって。すっかりここらも寂しくなっちゃったわ」

「なあ、さっきの……」

「え、あら、聞こえませんでした?お隣の成田さん、お引っ越しなさるんですって」

それは聞こえていた。

「もう妹さんもお孫さんができるくらい大きくなったのねぇ……まあ、一弥は結婚も遅かったから、うちはまだまだでしょうけど」

「そ、そうだな……」

良一と京子のひとり息子である一弥は、慶介の妹 さやかと同い年の四十七歳だ。

さやかは二十二歳でできちゃった結婚をしたが、一弥はそんな甲斐性もなかったのかずっと独り身で、一生孫の顔も見られないのか──と諦めていた。

息子がやっと結婚したのは三十五歳の年。

五歳年下の可愛らしいお嬢さん──能見のうみ 真希まきとは五年も前から付き合っていたというから驚いたが、結婚が決まるまで一度も家には連れてこなかった。

大学出で頭の回転の速い嫁は家事が少し苦手だったが、その代わりに一弥では勝負にならない囲碁の相手を務めてくれたのは、とてもありがたい。

ありがたいといえば、良一夫妻には子供は一人しかできなかったが、孫は女の子と男の子が一人ずつもいる。

そう言えば──

「おお、そうだ。一弥たちは何時頃来るんだっけ?」

「いやですよ」

眉をひそめた苦笑いで、京子が良一の言葉を訂正した。

「前にも言ったじゃありませんか。この家にはあの子たちは来ないって」

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