第6話

 


 台所に行くと、麻衣子が掃除をしていた。


「あら。お昼は何にしましょうか」


 俺に気付いた麻衣子が、日溜まりのような笑顔を向けた。


「うむ……任せるよ」


 椅子を引くと、煙草を出した。


「……山芋があるから、とろろ蕎麦にでもしようかしら」


 雑巾をバケツに入れた。


「あー、いいね。……トミさんは?」


「応接間の掃除」


「……ところで」


「ん?」


 雑巾を洗いながらこっちを見た。


「昨日、ホテルにはどのくらい居たの?」


「え? どうしたの急に」


「……二十分くらい?」


「ううん、そんなに居なかったわ。入って直ぐに話を切り出したから」


「一緒にホテルを出たの?」


「ううん、私が先。一緒に出るとこ誰かに見られたくなかったから時間をずらしたの」


 シンクを拭いていた。


「……どうして、帰ってきて直ぐに服を脱いだの?」


「……変なこと訊くのね。汗ばんでいたからシャワーを浴びたの」


「昨日の服は?」


「ラックに掛かってるわよ。……変な人ね。何が知りたいの? 彼とのこと、まだ疑ってるの?」


 怪訝けげんな目を向けた。


「いや……」


 俺は煙草を揉み消すと腰を上げた。男が殺されたことを話そうとも思ったが、麻衣子のつらそうな顔を見たくなかったのでやめた。



 麻衣子の部屋に入り、ハンガーラックに掛かっていた昨日の黒いカーディガンを確認したが、血痕らしきものは無かった。手にすると、鼻を近づけた。仄かな薔薇の香りがした。――



 その日、みやげを手にした親父が上機嫌でニューヨークから帰ってきた。麻衣子を抱いた後ろめたさからか、親父の顔をまともに見られなかった。……すまない。俺は心で詫びた。


 だが、その夜。突然、親父が逝った。脳梗塞のうこうそくだった。


 腹を割って話し合うことも、詫びることもできぬままに。俺に悔いだけを残して親父は逝ってしまった。――今でも、その時の麻衣子を忘れられない。




「あなたーっ!」


 麻衣子のその声は、静寂の闇を引き裂いた。俺はベッドから飛び降りると、廊下を挟んだ真向かいの親父の寝室に走った。


 麻衣子は親父の手を握り、茫然としていた。素っぴんのその横顔は愁いに沈み、妖艶な麻衣子の面影は微塵も無かった。そこで見たのは、見栄も外聞も無い内田麻衣子という一人の人間の姿だった。――



 葬式を終えると、顧問弁護士の及川がやって来た。親父の遺言状を読み上げながら、遺産の分配や、俺に対する親父の胸中を教えていた。それは、俺を後任にする主旨のものだった。


 ……大学を卒業して三年。定職にも就かず、親父のすねをかじってきた親不孝者だぜ。こんな俺を跡継ぎにしてどうするんだよ。こんなどら息子を……。俺は心で泣きながら、親父に詫びた。



 及川が帰り一段落すると、麻衣子が俺を呼んだ。台所に行くと、麻衣子とトミがテーブルを挟んで神妙な顔をしていた。そこには、主を亡くした不安定さと、よどみが漂っていた。

 


 俺がトミの横に座ると、麻衣子がおもむろに口を開いた。


「……あの人を亡くした今、ここに居ることはできません。……で、お別れをと」


 俯いたその顔は一度も動かなかった。


「嫌です、奥さま。旦那さまが亡くなった今、奥さままで居なくなるなんて嫌です」


 トミは泣いていた。


「……もう、奥さまじゃないもの。あの人をうしなった今は」


「でも、武志坊っちゃまのお母さまです」


 トミが鼻水をすすった。


「……でも」


「……居てくれよ」


 ぽつりと言った。本心からそう言った。麻衣子を失いたくなかった。


 ……あんたまで居なくなったら、俺、淋しすぎるよ。俺はそう心で呟いた。


「ほら、坊っちゃまもこうおっしゃってるんですから、ね?」


 色よい返事を期待するかのように、トミが麻衣子の顔を覗き込んだ。


「……でも」


「……俺からも頼む」


 抑揚のない俺のその言葉に、麻衣子はようやく俺を見た。


「ほらね。お坊っちゃまも同じお気持ちですよ」


 トミが煽動せんどうした。


「……はい」


 白い歯を覗かせて返事をした麻衣子に、俺は愁眉しゅうびを開いた顔を向けた。

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