マニア氏の活躍 番外編
第75話 マニア大戦 番外編 蘊蓄合戦のもたらしたもの
対談後、会食を終えたぼくら夫婦は、タクシーで自宅に戻った。そして自宅のカギを開け、リビングルームに二人で入り込んだ。
壁時計の針は、21時を少しばかり過ぎていた。
部屋の中は、当然、真っ暗。今日この家には誰もいない。
ぼくが室内の照明を点灯した、その瞬間。
たまきちゃんが、ぼくに倒れ込むように抱き着いてきた。自他ともに認める仲の良い夫婦だから、悪い話じゃないようにも思うけど、今回は、ちょっと・・・
「たろうくぅん・・・」
彼女は、これまでにないほどギュッとぼくを抱きしめ、しばらくの間、ぼくのもとを離れようとはしなかった。
「た、たまきちゃ・・・ん、苦しい・・・離してくれって」
「いや! 離しちゃだめ! 離さないでよ・・・たろうくん」
「そうはいっても、苦しくて、たまらないよ・・・」
「たまきを見捨てるつもり?」
「そんなこと、言ってないだろ! 誰が見捨てるもんか・・・」
とはいうものの、苦しくてしょうがない。
とにかく、苦しくてしょうがない。
「どうしたんだよ、たまきちゃん、急に・・・」
「今日の対談、怖すぎた・・・」
彼女の眼の周りがうるんでいる。
ぼくはそっと、彼女の髪と背中を撫でて、気持ちを落ち着かせるように努めた。
数分は続けたかな?
やっとのことで離してもらえた。
ぼくらは、ソファに並んで座った。彼女のずれた眼鏡をかけ直してあげた。少しは落ち着きを取り戻してくれたようだ。
「何がそんなに怖かったのさ?」
「太郎くん、あの2人、すさまじく孤独な世界で生きているのね。聞けば聞くほど、恐ろしくなってきたのよ。彼らみたいな生き方、したい?」
「あいつらのような生き方? 冗談じゃないよ。あんな莫大な鉄道知識で埋まった本や得体のわからない出自の車両をかたどった模型なんかより、たまきちゃんと子どもたちの方がはるかに大事に決まっているじゃないか。まあ、あいつらには、ぼくのたまきちゃんへの思い、死んでも分からないだろうな」
「そうよね・・・。なまじ頭で理解しているだけに、性質が悪い気もするわね」
「確かに、そうだな。でも、これは、どっちがいいか悪いかの問題じゃない」
「それはそうかもしれないけど・・・」
暫く、と言っても数十秒ぐらいの間だが、ソファに座り込んだぼくらの間に、沈黙の時間が生まれた。それを破ったのは、たまきちゃんだった。
「ところで、太郎君、今日の対談って、何か結論、出たの?」
もともとそんなものが出るとは思っていなかったけれども、改めて聞かれると、確かに、何だったのか、という思いが湧き上がってきた。
だが、ぼくの答えは、はっきりしている。
出るわけがないだろう、そんなもの。
最初からわかりきっていることじゃないか。
それでも、強いて言えと言うなら、趣味の世界も極めようと思えば、孤独に耐えられなければいけない、ってことだね。
もっとも、そこまでしなくたって、ぼくらのように普通に楽しめる世界だとは思うけど。でも、あいつらは、それで「よし」としていないだけだ。あいつらなりに、それぞれ孤独と向き合って、やっていくしかないものだよ。
「太郎、明日まで、子どもたちはうちで預かるから、帰ってきたらたまきちゃんとゆっくりしなさい。母さんも、その方がいいと言っているぞ」
「お言葉だけど、夜も9時には帰って来るからさ、そこまででいいよ」
「いや、待ちなさい。今日の対談の出席者、誰なんだい?」
「マニア氏に瀬野君に石本さんに・・・」
「ほら見ろ。米河君に瀬野君に加えて・・・石本君か。それは確かに救いだが、いくら石本君が頑張っても、あの二人はそうそう収まるものじゃない。米河君は、単独ならまだしも、瀬野君がいれば、間違いなく彼に向けて対抗心を持って臨む。瀬野君も、それを受けて立つ。そうしなければ、お互い、自分自身の存在が否定されるぐらいの意識をもって、相手と対抗し合う。太郎は、たまきちゃんと一緒に、そんな連中のバトルにつきあわなければいけないんだろう。半日もすればふたりとも、確実に疲れ果てる。とてもじゃないけど、子どもたちの世話どころじゃなくなるぞ・・・」
「大事をとっておいた方が、いいってことかな」
「ま、そういうことだよ」
この日の朝食時、ぼくの父はこんな調子で、子どもたち2人を少なくとも翌日まで預かると言って聞かなかった。当時、萌美はまだ1歳、陽一は6歳。陽一は、ぼくと父のやり取りを聞きながら、母であるたまきちゃんの顔を隣の椅子から覗き見るように仰いでいた。彼なりに、何かを感じていたのかもしれない。萌美はというと、おばあちゃん(ぼくの母)にスプーンで与えられた物を、おいしそうに食べていた。
ともあれ、父が、今述べたような調子でかたくなに言うので、それでは、ということで、翌朝まで子どもたちには、祖父母のところに連れて行ってもらうことにした。
それは確かに、正解だった。父の機転には、感謝の他ない。
マニア氏と瀬野氏が最初に出会った日の夜、ぼくが取材の度に書き込んでいた大学ノートを、父に読んでもらったことは先に述べた通りだ。あの日の父の感想は、間違いなく、この日を予見していたとしか言いようのないものだった。
母は、父とぼくが話している横で、たまきちゃんと話していた。
「どうも大変そうなお仕事だから、何かあったら、太郎に助けてもらいなさいね」
「ええ。いざとなったら、太郎君に抱きついてでも、守ってもらいますから」
「太郎は、米河君や瀬野君や石本さん相手に、どう立ち向かうつもりなのかしら」
「淡々と、話を整理して進めていくしかないでしょう」
「もう、いざとなったら、太郎に抱きついてやりなさい。そうすれば米河君も瀬野君も正面切って論争できなくなるし、石本さんも、何か手を打たなきゃいけなくなるわね」
「ええ。とにかく、太郎君に守ってもらいます。もし太郎君が、あんな奴らに負けるようなら・・・」
「子どもたち連れて、逃げちゃいなさい。手引きはしてあげるから・・・」
だって。参ったなぁ・・・。
そんな、買い被られてもねえ、とは思うが、ぼくとしては、ちょっとばかり(実は、とっても)、うれしかった。
この日の夜のたまきちゃんは、ぼくの胸を抱き枕にして、眠りについた。
逃げられなくて、よかった・・・
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