クレッシェンド
@donuts_07
1.窓ガラスの外
台風というのは、賑やかな記念日だ。
この橋田という名前の数学教師は、俺が最も嫌悪する類の人間だった。四十過ぎで、小太り会社員の風体の男。この時期は髪に恵まれない頭皮と額に脂汗まで浮かべている。
その妙に高い、耳に粘りつく声が最も得意とするのは、人を叱りつけること。それはこの狭苦しい教室に閉じ込められた子供たちの中で、俺が最もよく知っていた。
橋田はいつも俺を叱る。ありとあらゆる些事に難癖をつけて俺を叱る。そのくせ、理由について俺を納得させたことが一度たりともない。
授業中に遊んでいけない理由も、教科書で紙飛行機を作っていけない理由も、隣の席の女子をからかっていけない理由も、説明されたことがない。悪いこと、としか聞かない。
もっと言えば橋田は、正義感とか善悪とかいう言葉を心の底から愛していた。それが不快なのだ。「話を聞いていますか」と嫌味ったらしく黒板をチョークでかつかつ数回叩くとき、白い破片がこぼれ落ちる、その音が何とも不快なのだ。一緒にどすんと足を踏み鳴らして、冷たい冷たい目で俺を責めるのも堪らなく嫌だった。
今日の教室はお誂え向きに仄暗い。天井の古ぼけた電灯が明滅する。きっと空を覆い尽くすどんよりした黒雲のお陰だろう。そういうものをスパイスにしていかないと、硬い椅子に座っているのもままならない。それだから俺は、無感情な解説文の朗読にうんざりしながら黒板の因数分解の公式から視線を外した。
窓の外で雨粒が騒いでいた。ざあざあと地面に落ちる音、それからばたばたと斜線が窓を叩く音。実に愉快な形で、本降りの雨はノックを繰り返している。
自分を取り囲む世界を濡らし尽くし、新しく魅力的な何かに作り変えて、まるで「こちらへおいで」と俺を誘うかのように。
当たり前のことだが、その非日常的な雨の世界は無機質な数学の世界なんかより遥かにカラフルだった。ああ、やはり席になど座っていられない。今日は台風の日、一年に数回の楽しい日。
確か十二日の夜に南の方の島に上陸したんだったか。特別に大きくてワクワクするその存在を、人々は何故か迷惑がっていた。
その日は朝から強風と豪雨。兄と一緒に登校した時点で、風に煽られた傘は折れてしまったし、雨に打たれた頭から爪先までがずぶ濡れになった。国語の教科書は今も、机脇のリュックサックの中でへなへなと折れ曲がっている。
どこかの地域では、木が倒れたり洪水が起きたりして被害ってやつが拡大しているらしい。三時間目の授業を受けている現在、偉い人たちは、授業を中止して下校させるか否か会議しているのだとか。
あ、今、雷が光った!
どぉぉーーん。
こんなに楽しい日が、他にあるだろうか?
俺は人々の考えることがよく分からない。
台風は、楽しいものではないのだろうか。
ぴかぴかと空が眩しく光るのが、面白くないのだろうか。
ざあざあと雨は降る。木は、心配になるくらい幹を反らして緑の葉をはためかせている。ひゅうううっと風が口笛を吹いた。それを合図にぱきっと、細い枝が折れる。持っていった!強風に引き摺られて、コンクリートの上をずるずる連行されるのである。
暫く、五分くらいだろうか。外で繰り広げられる豪雨のショーを眺めていた。すると、
「桜衣君。」
高い声が俺を呼んだ。橋田だ。
「これ、解いてください。」
乱暴にチョークで黒板を叩く。そこに書かれた白色の式は、よく見ずともよく分からないものだった。
「ほら、起立。前に出て。ここへ来て答えを書く」
最初は猫なで声、次のタイミングで怒気をはらんだ声。いつもと同じだ。
取り敢えず席に座ったまま、教科書に目を移す。やっぱり教科書の内容も分からない。橋田が繰り返し繰り返し黒板を叩くので、黒板が可哀想になってきた。
「僕の話聞いていますか?ほら、立って!立てと言っているんです」
ゆっくりと椅子から腰を浮かした。視界に生徒たちのたくさんの無表情が映る。
ああ、怒られる。慣れきっているから、いつものように黙っていた。そうすれば勝手にステージは進行する。
「あのですね、僕がいつも言っているのは、決して貴方がムカつくからとかそういうのじゃないんですよ。授業を真面目に聞けない人は、将来会社に就職してから必ず後悔します。それを阻止する為に僕は今ここで言っているのであって…」
執拗に、黒板を叩く。
「貴方はねぇ、分かってない!それは甘いんですよ。黙ってれば許されると思ってる。そうじゃない時代がいつか絶対来ますよ。こういう、みっともないだらしないのが社会を悪くする。ほら、もっとしっかり立つ!だらっとしない。注意されてるの分かってますか?自覚、ありますか」
一つ違う音がした。見るとチョークは半分ほどの長さになっていた。折れたのだ。
「いつもいつも貴方だけ。貴方だけが問題を起こす。悪事を働く。そのことについて何か考えることはありませんか?胸に手を当てて。」
教室にある全ての目が俺に向いている。三十六組、七十二は下らない、そんな数の眼球。別段、他者の視線を気にする性質ではなかったが居心地のいいものではない。とりわけ自分一人が立たされている状況では。
「…俺は、申し訳ないなーと、思っています。」
「本当に?本当にそう思っているならどうして改善しないんですか。」
「……上手くできないからです。」
「貴方、馬鹿にしてるんですか?そういった姿勢をいつまでも続けるから、いつまで経っても貴方は悪童だと言われるんですよ。恥ずかしいと思わないんですか?はぁ、もういい、くだらない。放課後に職員室で話します。座って。座れって。早く!」
橋田はイラついた様子だった。右手を教卓に振り下ろして、音を立てて威嚇する。何度か、物に当たるのは悪いことだと両親に言われた気がするが、橋田については例外なのだろうか。大人しく着席する。
それから彼は問題の解説を、不機嫌そうに早口で捲し立てていった。雷の音はやけに重々しく響き、雨はますます激しさを増す。やっぱり俺は外へ駆け出したい気持ちになった。
キーンコーン、カーンコーン…。
体感時間、実に五時間。鐘の音が彼の早口の講義を強制的に終了させた。
橋田はより一層不機嫌になって毒づくと、チョークを置いたその手で頭を掻きむしった。この衝動的な、習慣づいた行為が頭髪のバーコード化を進行させる。黒い髪に付着した白い粉は不衛生な映え方をするので、いっそ禿げきってしまった方が都合が良いのかもしれないが。
ぴんぽんぱんぽーん。
続けて放送があるらしい。何かを察した生徒たちは一様に目を輝かせて静まり返る。同じく何かを察した橋田は、反対に苦々しげに頭上のスピーカーを睨みつけた。
「えー、全校の皆さんにお知らせがあります。ただいま台風十二号の接近により激しい雨が降っています。今後、夕方までにますます雨が強くなるのが予想されますので、四時間目を切り上げて下校してもらうことに決まりました。担任の先生方はご指導をお願い致します。危険な場所に近づかないように…」
そこから先はもう聞いていなかった。一斉に歓声が上がる。閉めきった窓を打ち付ける雨音以上に、篭もりきった温かい空気に響く生徒たちの声は大きかった。「静かに!」と叱責する橋田も、口に出す前からこれの効果を諦めきっているようだ。
その視線が、ガッツポーズをする俺に向く。
「…?」
視線が合った。
ふい、と逸らされた。
授業終わりの挨拶を終えると同時に、ぱたんと教科書とノートを閉じてリュックサックに押し込む。筆箱は開けてすらいなかったので、そのまま投げ入れた。ジジッとファスナーをすれば、もう帰る準備は万端だ。きっと橋田は悔しいに違いない。俺に尊大なお説教を聞かせる機会を失ったのだから。
くつくつと笑いが漏れた。楽しい気分が湧き上がってくる。
窓ガラスを透明色で潤す雨。健気に俺を呼んでいる。
いよいよ我慢ができなくなってきた。寧ろ、ここまでよく耐えた方だ。一際大きな風が吹いて、枝葉が引っ張られるのを目にした俺は衝動に突き動かされて立ち上がった。
行こう。飛び出そう!
訳もなくそう考える。
目立たないようにリュックはまだ背負わない。アルデンテだかアンダンテだか知らないが、自然な歩調で、騒ぎ立てる男子のグループをすり抜ける。引き戸に手を触れる。教室という密室に一瞬の間隙を生むのである。
「…桜衣さん?」
引き戸のすぐ近くに座っていた、大人しそうな女子が声をかけてきた。
しーっ、止めないで。触れる指と唇。あどけない少女の顔は留まったが、彼女の行動がどんな類のものであってもベージュの引き戸が次のコマで開け放たれるのは決まったことだった。
ガラガラガラ!
盛大な音を立てて開けゴマ。どろん!俺はそのまま飛び出した。
「おい、桜衣君!!」
橋田の甲高い制止が飛ぶが、それもすぐに聞こえなくなった。乱暴にリュックを背負いながら無人の廊下を駆け抜ける。気分は高揚する。一つの足音と無数の雨音だけが反響するのは、楽しい。
俺はクラスで一番足が速かった。忘れ物ばかりの軽いリュックを揺らして階段をぴょんと飛び降りてしまえば、下駄箱はすぐそこ。
人が追ってこないうちに、素早く靴を履き替える。壊れた傘は要らない。例え壊れてなかったとしても、要らない。
雨はいっそう激しく地面に降り注ぎ、屋根の上を滑り落ちて俺の肩を叩く。染み込んで濡らす。楽しさだけが心に満ちる。
そのまま足を踏み込んで、走り出した。
非日常の世界へ。
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