第102話 余に抱えられるのは嫌か

「クリスタ国にいくぞ!」


 そう言い放った魔王への返答は「何をおっしゃるやら」と呆れた宰相の叱咤だった。国の頂点である王の署名を必要とする書類が溜まっている。このままでは魔国サフィロスの運営に関わると、切々と語られたらイヴリースも無視できない。あれこれ言い訳したが最後は折れ、書類を片付けた後で出掛ける話にまとまった。


 大量に積まれた書類を驚くべき速さで片づけるイヴリースの膝の上で、アゼリアに出来るのは応援くらいだ。だが声をかけると邪魔になる気がして、大人しく彼にしがみついていた。メフィストも認めているし、問題ないのよね。


 機嫌よく書類を捌く上司を横目に、メフィストは手早く書類を分類した。本当に読んでいるのか不安になる速さで、次々と項目別の箱に書類を投げ入れる。その束を魔法で引き寄せ、イヴリースは斜めに読んだと思ったら署名した。


「お手伝いできなくて申し訳ないわ」


「簡単なことでよろしければ、こちらを」


 メフィストは立ち上がり近づくが、一定の距離で止まった。署名の手を休めたイヴリースが、睨みつけるように威嚇する。ここが限界の距離らしいが、説明するには遠すぎた。


「陛下、お仕事をなさってください。アゼリア姫にご説明するだけですから」


 きちんと話せば唸りながらも諦めたのか、またペンを走らせる。その間に朱肉と印章を差し出した。手が触れないぎりぎりの距離で、書類を1枚翳して下部の空欄を指差す。


「ここにその印章を押してください。上下がありますので……その窪みが上部です。多少斜めでも問題ありませんので、お願いいたしますね」


 渡された書類は数十枚なので、彼らの処理する枚数に比べたら少ない。だが任されたことが嬉しくて、アゼリアは大きく頷いた。


「わかったわ、内容は確認しなくていいの?」


「確認後の書類をお渡ししますので、押していただくだけで結構です」


 イヴリースの膝から降りようとしたら、全力で拒否された。仕事をしないと駄々を捏ねる彼に苦笑いし、座る位置をずらして机に向かう。気を遣ったイヴリースが机の端を開けてくれた。そこで1枚ずつ丁寧に押印していく。


 任された数十枚が終わる頃、思ったより体力が落ちていた事実を突きつけられ、アゼリアは反省した。確かに両手で持つ印章は重いが、以前なら何てことはない作業だったはず。


 明らかに体力不足だ。疲れるなんておかしい。それに……見下ろした身体は弛んでいる気がした。鍛えていないのだから、筋肉が落ちたのかも。だらしない身体になる前に、もう一度鍛えなくちゃ。


 ぐっと拳を握って決意するアゼリアを、イヴリースは抱き寄せた。額や頬に口づけ、抱いて立ち上がろうとする。


「まって! イヴリース、私歩くわ」


「……余に抱えられるのは嫌か?」


 なんで泣きそうな声なの。思わず首を横に振りそうになり、絆されてはいけないと気を引き締める。この甘い声に流された結果が、身体の弛みに繋がるの! 自分に言い聞かせ、アゼリアは笑顔で婚約者の説得を始めた。


「私の身体が鈍ってしまうわ。歩けなくなるだけならまだしも、腰や胸が弛んだら嫌なの……あなたの前では、いつまでも美しくいたいから」


 お願い。両手を合わせて願えば、息を飲んだ後ほわりと表情を和らげる。説得はうまく行ったらしい。靴が必要だろうと用意してくれ、膝をついて履かせてくれたのはやり過ぎだと思うけど。メフィストは何も言わなかった。諦めたのかしら。


「溜まった書類は片付けた。今度こそ出掛ける。止め立ては許さん」


 昨日の申し出を蹴飛ばした側近に、イヴリースが宣言する。今度こそ文句はあるまい。傲慢に顎を逸らした彼に、山羊の角を持つ宰相はゆったりと一礼した。


「留守をお預かりいたします。気をつけていってらっしゃいませ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る