第5話 偶然の産物
森に囲まれ、けたたましい位に野鳥の鳴き声がこだまする中、横山の母親、初恵は、じっと夕夏の顔を見つめていた。
その手は、小刻みに震えていた。
「おふくろ、この人は小百合さんじゃないよ。もう、とっくの昔に別れたのに、またここに戻ってくるはずがないじゃないか」
「だって、この人、どうみても小百合さんじゃない?眞一郎、どこで見つけたの?」
初恵は、夕夏のことを小百合だと頑なに思い込んでいた。
「お母さん、私、原田夕夏って言います。小百合さんという方ではないですし、私自身もその人のことは存じておりません」
「うそおっしゃい!小百合さん、あなた、私の息子をさんざんもてあそんだ挙句、どこに行ってたのよ?今更、謝罪でもしにきたの?」
「だ、だから!この人は、夕夏さんっていうんだよ。小百合さんが今生きてたら、もう60歳はオーバーしているはず。こんなに若くはないって」
すると初恵は、大きなため息をつき、杖を突いたまま、夕夏に背中を向けて廊下を歩き去っていった。
「おふくろももうすぐ90歳になるんでね。ちょっと認知症入ってるんだ。ごめんね、騒がせてしまって」
「い、いや…いいけど、小百合さんって、本当に一体誰のことなの?」
「どうぞ上がって。コーヒー淹れるから、僕の部屋へどうぞ」
そういうと、横山は手招きした。
夕夏は、靴を脱いで、横山の後に続いて廊下を歩いた。
二人が廊下を歩くたびに、少しきしむような音が家中にこだました。
「ごめんな。この家、戦前に建てられたからね。あっちこっちガタがきてるんだ」
そう言いながら、横山は突き当りの小さな部屋に入っていった。
夕夏が入ると、狭い部屋中に、膨大な量の写真が隙間なく貼り付けてあった。
写真は大多数が鎌倉の風景や街並みを写したものであるが、中には、モデルらしき女性が写ったものも数枚飾られていた。
女性は、うつむいたままの姿勢だったり、時にはうつろな表情でカメラを見つめていた李、時には横向きで、無表情のまま海を眺めていたり……と、全体的に、儚げな印象があった。
「あれ?横山さん、この人って……」
「そう、この人が小百合さんだ」
「この人……確かに、私に似てる。何なのこれ、何かの偶然?」
「でしょ?おふくろも、そして私も、一目あなたを見て『小百合さん』だと思っちゃいましたから」
そういうと、横山は一冊の写真集を夕夏に手渡した。
表紙には、小百合と呼ばれた女性の全身が写し出され、タイトルは『わたしの鎌倉物語』と書いてあった。
「若い頃、僕はフリーのカメラマンでした。カメラを抱えて、生まれ育った鎌倉の風景を写し、写真集にまとめてきました。でも、全く注目されなくてね。そんなある日、僕は小百合さんに出会いました。今日あなたと出会った、稲村ケ崎でね」
「ええ?な、なんで稲村ケ崎で?」
「小百合さん、日傘をさしてずっと海を眺めていましたね。私は撮影中でしたが、彼女が海を眺めているシーンが、とても印象的でした。ほとんど笑わないのに、こんなに印象に残るモデルさんは初めてでした」
小百合が写真集をめくる傍らで、横山は温かいコーヒーを入れてくれた。
「さあ、ゆっくりコーヒーでも飲みながら、ご覧ください。いかがです?小百合さん、こんなに物憂げな顔をしているのに、それが鎌倉の景色にとけ込んでいるようでした。それが僕にとっては、衝撃的でした」
夕夏は写真集を見終えると、コーヒーを一口飲み、ホッと一息ついてから、横山の顔を覗き込むような姿勢で、写真を見ながらずっと思っていたことを尋ねた。
「この人、今はどうしてるんですか?そういえばさっき、『とっくの昔に別れた』って言ってなかったですか?」
「実は僕たち……この写真集の撮影を終えてから、付き合っていたんです。僕が彼女にほれ込みましてね、思い切って自分の気持ちを告白したら、付き合うことにOKしてくれました。彼女は東京住まいでしたが、僕に会いに鎌倉まで来てくれました。会う時は本当に楽しかったし、彼女をモデルに沢山の写真を撮りました。でもね……」
「でも……?」
「カメラマンは収入不安定だからって、親御さんにお付き合いを頑なに反対されたそうです。まあ、収入については本当のことだったし、あえて反論はしませんでしたけどね。結局彼女は、親の意見を受け入れて、僕と別れる決意をしたんだそうです」
「そうだったんだ……」
「すごくつらく、悲しかったですよ。なかでもおふくろが、小百合さんのことを気に入っててね。この家に遊びに来たら、娘みたいに可愛がってたな」
そう言いながら、横山は何冊ものアルバムを書棚から取り出し、夕夏の前に差し出した。
どのアルバムにも、「小百合」という女性が登場し、憂鬱そうな表情で写し出されていた。
「何だか悲しそう。なんでこんなに悲しく憂鬱な表情してるんだろう?」
「カメラを向けられると、とたんに表情が変わるんだよ。でも彼女、普段は明るくひょうきんで、僕の方が圧倒されていたかもね」
「というか、それ、私じゃない?この世で私くらいだよ。カメラ向けられてそんな表情するのは」
「そうだね。なかなかいないかもね。でも、僕はこの表情がすごく好きだった。」
そういうと、横山は机の引き出しから1個のリングを取り出した。
「え?それ、ひょっとして、小百合さんに……?」
「そうさ。僕はいつか、このリングをプレゼントしたいと思ってた。でも、とうとうできなかった。そして彼女は僕の元を去り、僕は結婚しないまま、還暦も過ぎてしまった。リングも年季が入って少し錆びてきたから、これからいい相手に出会えても、このままでは渡せないな」
横山は大笑いしながら、リングをしまい込んだ。
「夕夏さんは、本当に小百合さんに似ている、いや、あの時の小百合さんがタイムマシーンに乗ってやって来たんじゃないかと思った。出会えた場所も、あの時と同じ稲村ヶ崎だったからね。偶然にしては、出来すぎだと思ったけど……僕は、声を掛けずにはいられなかった」
横山は1つ1つの記憶をたどりながら訥々と話していたが、写真だらけの壁の隙間から見える壁時計に気が付くと、夕夏の方に向き直った。
「もう夜が近いようだし、帰りましょうか。これで僕があなたを引き留め、撮影に付き合わせた理由を納得いただけましたか?」
「ま、まあね。でも、こんな偶然みたいな話、あるかしら?出来すぎた話よね」
「僕は、この世の中に、思いがけない偶然ってあるんだなと思っています。だからこそ僕は小百合さんに出会えたし、あなたに出会うこともできた。あ、そうそう、僕が去来庵に行くといつもすぐ座れるのも、偶然なのかもね」
「え?そうなの。いいなあ、そういう偶然なら嬉しいかも」
夕夏は、横山の言葉の最後の部分だけ反応した。
「冗談はさておいて、鎌倉駅まで送りますね」
「ありがとう」
夕夏は、横山に連れられ、玄関の外に出た。
ちょうど初恵が庭の草花の手入れをしていたが、夕夏の姿を見ると、作業を止めて杖を突きながら夕夏の前に歩み出て、突然頭を下げた。
「小百合さん……息子を、よろしく」
「え?」
「息子を…しあわせにしてあげてください」
初恵の言葉に夕夏は思わずたじろいたが、横山は笑いながら初恵の体を制し、
「おふくろ、この人は小百合さんじゃないよ、夕夏さん、だよ。ゆ・う・か・さ・ん」
しかし、初恵はいまいち納得いかないような表情で夕夏を見つめた。
「そんなわけないでしょ?小百合さんよ、この人は!」
「だから、夕夏さんだって!もう時間が無いから、行ってくるね。ちゃんと1人で留守番していてね」
そういうと、寂しそうな表情を浮かべる初恵を背に、横山は苦笑いしながら夕夏にヘルメットを渡した。
初恵は、両手で顔を押さえながら、杖を突いて庭へと戻っていった。
「いいの?お母さん、私の事小百合さんだって頑なに信じてるわよ」
「いいんだよ。さっき言った通り、認知症でね…1人息子の僕が介護してるけど、最近は特に手におえなくて」
そういうと横山はヘルメットを夕夏に手渡し、カブのエンジンをかけると、二階堂の住宅地を通り抜ける細い道を一気に走り去っていった。
まるで、自分の中の何かを吹っ切ろうとするかのように……。
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