第9話:天田涼子

 親父と電話してからというもの、天田の様子がおかしい。


 天田は基本的に、陽気なように見えて感情の起伏はさほど大きくないタイプだ。

 少なくとも、昨日まで俺の目に映っていた天田涼子という友人はそういう奴だ。


 だが、今の天田は、そうではなかった。

 不気味なくらいに笑顔を絶やさず、鼻歌を歌いながら、俺を連れて歩いている。


 実は心底怒っていると言われても逆に納得できる。


「どした? 門倉、そんな怖い顔しちゃってさ」


 怖いのはオメーだよ。


「なあ、天田、俺は何か、お前を怒らせるようなことをしたのか」


 絞り出した俺の声は、震えていた。


「え? なんで? 怒ってるように見える?」


 満面の笑顔で問い返してくるから本気で怖い。


「不気味なのでずっと笑ってるのやめてくださいお願いします」


「……」


 すん……と、一瞬で天田の表情が戻った。もはやそれすらも怖い。


「なあ、門倉、幸せで、幸せでどうしようもないくらいに幸せで、笑いが止まらない時ってないか」


 天田の問いに、俺は数秒考えこみ、首を横に振った。


「経験はないな。一度くらい味わってみたいが」


「オレはさ、さっきまでそうだった」


 余程親父のプレゼントが楽しみだったらしい。それほどとは、親父は一体何を贈ると言ったんだ。


「水を差したか。すまん」


 頭を下げた俺に、天田は胸を張って見せる。


「そういうことだ。責任取ってくれ」


 ただでさえ同衾などという踏み越えてはいけないラインを踏み越えているというのに、天田はとんでもないことを言い出した。


「嫁入り前の女が男に言うと別の意味に聞こえるからやめれ」


「うっせえ! とにかく何か埋め合わせしろ!」


 天田にとって、先程までの楽しい気分をぶち壊されたことは俺の懇願を一撃で斬って捨てるレベルで不快だったらしい。


「……何したらいい?」


 そこまでということになれば、さすがに俺も応じないわけにはいかない。


「……そうだな……オレ的には、乙女な体験がしたいかな」


「無理難題!?」


「なんでだよ! なんかあるだろ! お姫様抱っことかキスとか!……あと……キスとかお姫様抱っことか……」


「開幕ネタ切れじゃねえかよぉ!」


 応じないわけにはいかないとは言ったが、イケメンに乙女な体験をプレゼントとか陰キャにはレベル高すぎる。

 そしてこのおっぱいのついたイケメンも乙女な体験などというものについて何か詳しいわけでもなく……。


「いいからキスしろよぉ!」


「なんでキス魔になってんだ正気に戻れ!」


 最早意味不明な押し問答である。そのうえ。


「……やだ」


 天田は、頬を膨らませてきた。

 その子供っぽい仕草に、俺は初めて天田をかわいいと思った。


「は?」


 が、このアホンダラな口が紡ぎ出すのは、ただの困惑で。


「こうなったらお前がキスしてくれるまでてこでも動かないからな」


 かわいいと思っているはずなのに、その感情は恋愛とは程遠い何かで。


「じゃあ実力行使で」


 俺は天田に足払いをかけた。


「ちょ! おま!」


 当然の抗議を上げつつ後ろに倒れる天田の体を受け止め、その背中と膝を両腕で支えつつ、俺は歩き出した。


「一応お姫様抱っこだ。……これで我慢しろ」


 普段から運動していない、人一人分の重さを支えるには貧弱な腕があげる痛みという悲鳴を噛み殺しながら、俺はそれだけを口から絞り出す。


「……お前、ほんとそういうとこだぞ」


 何かを言ったまま押し黙った天田の顔を見る余裕は、全くなかった。

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