18.2

 高宮家のダイニングに置かれた固定電話が鳴ったのは、由紀子が夕食後の片付けを手伝っていた時だった。母親の手は濡れていたため、由紀子が受話器を取る。未だナンバーディスプレイも設定していないため、どうせ保険か何かの飛び込み営業電話であろうと思いながら名乗ったところ、一拍の間をおいて、少し嗄れた男の声が由紀子の名を呼ばわった。

『由紀子ちゃん、元気? 真人です、お母さんおる?』

「伯父さん……」

 相手は米原真人、住民票だけはこの家に置いたまま、実際はどこに暮らしているとも知れぬ由紀子の母親の兄だった。由紀子が生まれた頃にはとっくに家へと帰らなくなっていたので、ほとんど声しか知らぬ相手だ。小さな頃には写真を見せられた記憶もあるが、印象は薄い。

『携帯に掛けてみたんじゃけど、出てくれんけえ。ちょっと話がしたいんじゃけど……』

 その言葉に、由紀子は困惑して母親の背中を見遣った。蛇口の水を流しながら洗い物をしている母には、こちらの声は届いていない。

(どうしよう……。多分、伯父さんと話したくなくてワザと出てないよね、お母さん……)

『由紀子ちゃん?』

 電話口で逡巡していた由紀子に、真人が呼び掛ける。「あっ、えっと……」と迷いがそのまま口に出てしまい、由紀子は焦った。真人と、由紀子の母親である小枝子の関係は、お世辞にも良いとは言えない。その原因は、ほぼほぼ真人の方にある。

『はは、お母さん怒っとるんよね……なかなかそっちに帰れんせいで、親父のこと任せっきりじゃし。それは凄く申し訳ないと思うとるんよ。親父も、春の事故であんなことになってしもうて……小枝子には苦労ばっかり掛けとると思う。それは俺も凄く反省したんよ。じゃけえね、ちょっとだけでも話をしたいんじゃ』

 柔和な口調でそこまで言われては、由紀子が無碍にすることもできない。「ちょっと待っててください」と真人に伝え、受話器の口を押さえた由紀子は母の背中を呼ばわった。

「おかあさーん! 電話なんだけど……」

 振り向いた小枝子が蛇口の水を止め、手拭きタオルを掴む。「誰から?」と訊ねながら寄ってくる彼女に、由紀子は申し訳なさの交じった小声で「伯父さんから……」と告げた。途端に顔を歪めた小枝子が、渋々といった様子で受話器を受け取る。

 由紀子の祖父――つまり、小枝子と真人の父親である米原いさおは今年八十二になる。今年の初め頃まではかくしゃくとし、日々農作業をこなしていた。しかしこの春、交通事故に巻込まれたことで、彼の生活は一変した。

 用事で出掛けた巴市にて、勲は右折車と直進していた原付の接触事故に巻込まれた。事故を起こした車の真後ろで右折待ちをしていた勲の軽トラックは、事故車と直接の接触はなかった。しかし目の前で起きた事故に――もっと言えば、前の車に撥ねられて目の前に横転した原付にハンドル操作を誤り、直進・左折車線を走る大型車の前に飛び出してしまったのだ。

 不運なことに大型車は寸前まで事故に気付いておらず、結果、勲の軽トラックとその大型車も衝突事故を起こし、勲は頸椎を損傷する大怪我を負った。いくらそれまで元気に活動していたと言っても齢八十の老体である。療養期間中に手足は萎え、後遺症もあって、あっという間に寝たきりになってしまった。今年の春、その介護のために小枝子は退職したのである。

 その勲は現在、介護施設に入所している。よって介護の負担は減っているのだが、施設に入所するまでの数ヶ月、仕事を辞めて寝たきりの老父を介護し、事故に関連した事務処理に奔走し、医療保険や介護保険の手続きに明け暮れた小枝子はかなり憔悴した様子だった。

「――もうエエ加減に、ふざけたこと言わんといて!」

 その小枝子の、尖った声がダイニングに響く。電話の向こうで真人が彼女に何を言ったのか、由紀子には分からない。だが心底悲痛で忌々しげな母親の怒声に、由紀子は首を竦めた。

「一体何十年、お父さんが兄さんに仕送りした思うとるん!? そのお父さんが事故で寝たきりになって、兄さんが一体何をしてくれたん!? なんで今更、長男ヅラなんかできるんよ。ホンマはただ、お父さんが死んだ時の遺産が惜しいだけじゃろう!! 家も田んぼも、今まで誰が管理した思うとるんね!!」

 小枝子はいつも口癖のように、米原の家と田畑を世話してくれる夫の仁志を称えていた。それは「本来自分たち夫婦が負うべき義務ではない」という気持ちの裏返しだったのだろう。本来負うべき人物――すなわち兄の真人への、当てつけじみた思いも籠もっていたに違いない。

「仕送なんかもうするワケないじゃろう! エエ加減、役場に言うて兄さんの住民票も取り消してもらうけえ。いつまでも寄生虫みたいにウチにたかりんさんな、もう十分絞り尽くしたじゃろう!? 二度と掛けて来んといて!!」

 鋭く言葉を投げつけて、小枝子が勢いよく受話器を置いた。ガチャン! と派手な音が立つ。

 小枝子は俯き加減のまま手近なダイニングチェアを引き、そこへ座り込んだ。深々と溜息を吐いて片手で眉間を押さえる。

「何が就職氷河期世代よ、高校もロクすっぽ行かずに家を飛び出したクセに。非正規なせいやら国のせいやら言うて、それでも真面目に働いて生活しよる人もおるのに恥ずかしゅうないんじゃろうか……」

 忌々しげに吐き捨てる小枝子に、由紀子はそっと訊ねた。

「伯父さん、何て?」

「今更、ここへ帰って米原の家を継ぐって。できるワケないのに! 草刈機ひとつ持ったこともない、トラクター動かしたこともない、ロクに手に職もない、帰って来て何をする言うんよ……! 全部私らに押し付けといて、お父さんからの仕送りがなくなった途端に、生活が厳しいけん帰って来る言うて……!! マトモな頭しとんなら普通、相続放棄でも申し出るところじゃろう!」

 ばん! と小枝子の右手がテーブルを叩く。食卓に置かれた醤油差しやペン立てが衝撃で揺れた。

「――今、仁志おとうさんもあんなことがあって塞ぎ込んどるのに……兄さんあのひとの相手までようし切らんわ。次、あの人が電話掛けてきても、ユキちゃん相手にせんでエエけえね。まったく、真面目に働いて真面目に生きとるもんばっかり苦労して馬鹿を見る。あの人も篠原とか言うんも、真面目に働く根性が無かっただけじゃろうに!」

 小枝子の言うとおり、仁志は先日教え子だった男に襲われて以降、家では部屋に籠もりがちだった。襲撃されたショックの他に、警察での聞き取りや学校での問い合わせ対応、心ない憶測や噂話の餌食になったことなど、様々なストレスが重なっているようだ。今のところ、家にまで取材や嫌がらせが来るほどの大事には幸いなっていないが、職場では肩身の狭い思いをしているらしい。

「お母さん……」

 なんと言葉を掛けてよいか分からず、由紀子はただ小枝子を呼んだ。それに顔を上げた小枝子が、ふう、と溜息を吐いて苦笑いする。

「その点、新卒で教員採用されたユキちゃんはほんまに立派。田舎で女が男とおんなじように、ちゃんと給料貰える仕事なんて限られとるんじゃけえ。ユキちゃんの赴任先もウチから通えればエエんじゃけどねえ」

 その言葉に「うん」と頷きながら、由紀子もまた、俯き加減に苦味の交じった笑みを返す。由紀子が選んできたのは、だ。その裏で、由紀子が自身の「憧れ」を握りつぶして来たことを、きっと母親は知らない。否、知ったとして、「浮ついた憧れに流されず、現実を見て正しい進路を選んだ由紀子は偉い」と褒めるのだろう。そしてきっとこう言うのだ。

『「あとは、ウチにお婿さんに入ってくれるを見付けられたら、完璧じゃねえ」』

 ――はっとなって、由紀子は顔を上げた。頭の中で想像したのと、一字一句違わぬ言葉が目の前から発せられたのに驚いたのだ。

「う、うん……。それじゃ、私も二階に上がるね」

 歪みそうになる顔を必死で誤魔化しながら頷いて、由紀子は逃げるように台所を後にする。早足に廊下を歩き、段差の大きな木製階段を上がり、自室の薄っぺらいドアを開けた。幼い頃に出掛けたイベントで作らせてもらった、可愛らしいネームプレートが大きく揺れて音を鳴らす。

 室内照明のスイッチを入れると、天井の中央に据えられたシーリングライトが白い光で室内を照らす。北側の壁面に沿うように置かれたベッドの上、たとう紙に包まれた着物が目に入った。祖父母の部屋にあった、小枝子の振袖だ。祖父の施設入所で部屋が空いたため、小枝子が片付けをしていて見付けたらしい。

 由紀子の祖母――つまり小枝子の母親は、由紀子が中学生の頃に心疾患で急逝した。しかしその嫁入り道具だった和箪笥は、夫婦の寝室に置かれたままだ。祖母が我が娘のために仕立てた振袖も、持ち主である小枝子の部屋ではなく、祖父母の部屋の和箪笥に入っていたのだ。

 艶やかで色彩のメリハリが利いた古典柄の振袖は、由紀子が幼い頃に祖母に羽織らせてもらった思い出の品でもある。

『いつか、由紀子ちゃんがエエ娘さんになったら、これを着てお見合いをするんよ』

 そう着せ掛けてもらった振袖は、真紅の地に大きく鶴の文様が描かれた友禅だった。それに当時小学生の由紀子は「神楽のお姫様みたい」と胸をときめかせたのを、今でも鮮烈に覚えている。

(お見合いは……したくないけどな。でもお母さんも「卒業式の時にお見合い写真を撮ろう」なんて言ってたっけ)

 大学の卒業式に、この振袖を着る予定だ。そのこと自体は楽しみにしている。

(でも、私は――。真っ赤な着物で、お見合いをするんじゃなくて……神楽を舞いたかった)

 紅葉狩の鬼女大王、滝夜叉姫、そして櫛名田姫。幼い頃から大好きだった神楽の、舞手として真っ赤な打掛けを羽織りたい。扇を片手にくるり、くるりと美しく舞うのだ。高校進学の時も、神楽部の活動が盛んな地元の高校に行ってみたかった。亜沙美のように「その才能」で食べる道を選ばずとも、己の「興味」や「好き」で進路を選ぶことに憧れた。だが結局、中学校の頃は学年でも上位成績だった由紀子は、担任教師にも両親にも、少し離れた私学の特進コースを勧められた。

 地元高校と私学特進では、偏差値は15程度、国公立大学への進学率は三倍程度異なる。結局、己の優秀さを無駄にするなと説き伏せられて、由紀子は父親も卒業した私学を選んだ。

(大学は、遠くの国立より近くの県立……って感じで進学したんだけどね。お父さんもお母さんも、私が県外に出るのは嫌みたいだったし……)

 ベッドの上を占拠している振袖と帯をどこに除けるか迷い、由紀子は部屋の押入れを開けた。学生アパートに持って出なかった、高校時代までの小物や書籍が中にしまってある。それらの上にひとまず着物を置いて、由紀子は目に入ったパンフレットを引っ張り出した。その表紙には、華やかに舞台上で踊るダンサーたちの写真が使われている。

 高校での進路選択の時、色々なパンフレットを取り寄せた。四年制大学だけでなく、音楽・芸能系の専門学校のものまである。だが私学の特進コースから、それらの専門学校へ進学したいと言い出す勇気は、由紀子にはなかった。

 ――人前で表現をすることが好きなら、学校の先生を目指せばいいじゃない。その方が堅実だよ。そう言ったのは、中学の担任だったか誰だったか。その説得に頷いて進路を選んだが、離れた県の大学へ初等教育を学びに進むほどの情熱も持てず、県内の公立で社会科教員の資格を取った。

(そもそも、音楽とか芸能系を目指すってキャラじゃないもんね、私……。歌うことも、お芝居も好きだったけど。でも、亜沙美ちゃんとは全然違う)

 今でも「観る」のは好きだ。だが教員免許のための講義を履修しながらでは、生の舞台を追うためアルバイトに奔走するだとか、西へ東へ足を運ぶような時間的余裕もなかった。毎日ルーチンのようにSNSアプリのアイコンをタップして、特にフォローもしていないのに流れてくる、見知らぬ誰かのダンスや演奏、歌を眺めている。

 我ながら、無難で凡庸で、面白味のない人生だ。だが、飛び抜けた才能や身を焦がす情熱もない、地味な人間である由紀子にとってそれは、大変に恵まれた環境からもたらされる恩恵なのだ。亜沙美を見ているとそう思う。彼女ほどの「特別さ」があってなお、才能の世界ではやっていけなかったのだから。由紀子などでは、伯父と同じ轍を踏んで母親を失望させるだけだ。

『普通に恵まれているだけの、つまらない人間』

 先日広瀬との会話で口にした、その言葉が全てだった。たまたま、学校教育では落ちこぼれない程度の学力と、不自由なく大学進学をさせてくれる家の経済力があったから、地味で凡庸なりに、普通でまっとうな「一般人」のひとりでいられる。

 ふう、と溜息を吐いてパンフレットを押し入れの中に戻す。ぼんやりと押し入れの中を眺めていたら、背後でスマートフォンがメッセージ着信を告げた。由紀子はもうひとつ溜息を零す。

(今日も、亜沙美ちゃんからかなあ……)

 あの日以来、毎晩亜沙美からのダイレクトメッセージが入るようになった。内容はいつも結婚生活のノロケと愚痴だが、目を覆いたくなるような明け透けな下ネタや、下品な悪口も交じっており正直なところ読んで返事をするのが苦痛だ。

(あの亜沙美ちゃんですら結婚……。そのうち私も……って、でも全然恋人ができるような生活なんてしてないし、婚、活……)

 ――ああ、嫌だ。窮屈すぎる。

 心の奥底が呻いたその悲鳴を、由紀子は心の表層に浮き上がる前に押し殺す。あさみより十分に恵まれている環境に、不平を鳴らすのは我が儘だ。「憧れ」どおりに無軌道に生きては、きっと道を踏み外して転落人生を歩んでしまう。そんな真似をして、大切な家族を悲しませたくはない。

 普通で当たり前の、「まっとう」な生き方を窮屈に感じるのは、由紀子が未熟で、浅はかで軟弱だからに違いないのだ。だから、理性で説き伏せて自身を律さねばならない。

 未練を断ち切るように、あるいは迫る未来から目を背けるように、由紀子は押入れの戸を閉じた。

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