6.3

 安芸鷹田市の南西部、広島市と接する八千代町には土師はじダムという多目的ダムが存在する。中国山地を縦断する一級河川ごうの川を堰き止めたこのダムは、巴市や広瀬の実家がある安芸鷹田市吉田町よりも上流にあり、広瀬らの通った清荘高等学校のある北広島町と安芸鷹田市を隔てている。高校生活の三年間、広瀬は土師ダムの脇をすり抜ける曲がりくねった峠道を、毎日バスに揺られて通学した。

 鬼の襲撃を受けたその日の午後九時過ぎ、広瀬は助手席に当時の同級生宮澤を乗せて、かつての通学路に車を走らせていた。

 鬼に逃げられた後、警察からの事情聴取を受けたのが八時前で、その時に宮澤らも合流した。血相を変えて現れた宮澤は広瀬と由紀子に負傷等がないことを確認し、勢いよく頭を下げた。曰く、自分の失態だ、と。守山と怜路はそれぞれ逃亡した鬼を探しに警察署を後にし、宮澤は護衛という名目で警察署に残って事情聴取の終了を待っていた。

 聴取のメインは由紀子の父親である。広瀬と由紀子は比較的早く解放され、車のない由紀子を広瀬と宮澤で送り届ける算段をしていた時に、その一報はもたらされた。

 ――八千代町の介護医療院に不審者が侵入。侵入者は鬼の面をつけた男との通報あり。

 男は鉈のような武器を所持し、警備員を突き飛ばして院内に入ったという。緊急出動のパトカーはあっという間に広瀬らを置いて行ったものの、最低限の情報は教えてくれた。鬼の居場所が判明しているのならば、由紀子が襲われる可能性は低いだろうと、彼女のことは警察に任せて現在、広瀬は車を走らせている。

 鬼がなぜそこに現れたのか、現時点では分からない。鬼の面を被っていた男、篠原と関係する人物がいるのかもしれないが、まだ少なくとも、広瀬らがその情報を掴める状態ではなかった。高宮を襲った時の様子からして、その介護医療院――大雑把に言えば、要介護の高齢者が入る長期療養型の病院である――に入っている誰かが、篠原の怨みを買っているのだろうと広瀬は考えていた。

「おれ達が一番早く着きそうだね」

 助手席の宮澤が呟いた。

 ダム下流の江の川を横目に、平坦で緩やかなカーブを描く国道五十四号線を走る。平日、帰宅ラッシュ時間を過ぎた田舎の国道に行き交う車は少ない。安芸鷹田市の中心である吉田町の市街地を抜けてしまえば信号もぐんと減った。他の二人はそれぞれ、全く別の場所にいるらしい。

「守山さん……は、ともかく、怜路はどうやって鬼を探してたんだ? アイツ鼻もいいのか?」

 守山の「もうひとつの姿」を思い返し、その衝撃に言葉を詰まらせながらも広瀬は尋ねた。

 狐だった。それも、二本足で立てば人間と同じ背丈のある大狐だった。人間と同じサイズの狐はかなりの迫力だ。何と言っても口がデカい。だがその話を聞けば、確かに「守山狐」の伝説は広瀬も小学校の頃に地域学習か何かでやった覚えがある。無論、実在するとは夢にも思っていなかったのだ、つい数時間前まで当たり前に向かい合って調べ物をしていたと思うと笑いさえこみ上げてくる。

「怜路は御龍山の天狗から使い魔を借りてるんだ。ちっちゃい犬みたいな物の怪だよ。――見えなかったんだな」

 少し意外そうに目を瞬かせて、宮澤がちらりと広瀬を見る。

「霊感ないからな」

 自慢ではないが、特自災害配属から半年経って今日、ようやっと人生初の「怪奇」を見た。と言っても鬼面もつけていた男も実体があったし、一番非現実的だったのは味方側――己の手の中で水引から変じた白燕と、二足歩行で喋る狐の方だ。

「そっか、アレ見えないやつなんだ……暗いからよく分かんなかった」

 宮澤は怜路のように分別なく、現世の物も幽世の物ものべつまくなし視えてしまうわけではないらしいが、薄暗い中だと区別がつかない時があるそうだ。つくづく、比喩でも何でもなく「視えている世界」が違う。そのことを宮澤が特別隠すこともなくなったのが、広瀬と宮澤の関係の一番の進歩かもしれない。

「――広瀬。もしおれ達だけが最初に到着しても、中に入るのは怜路や守山さんを待ってからにしようと思う。申し訳ないけど、広瀬は車で待っててくれないかな」

 少し遠慮がちに、だがはっきりと宮澤が言った。予想はしていた言葉だが、思わず広瀬は口許を曲げる。――こういう辺りが「思ったことが顔に出る」と言われてしまうのだ、という自覚はあった。

「……相手は実体がある、つーか、生身の人間だろ? 人手はあるほうがいいんじゃないのか」

 ヘッドライトが照らす国道を睨んでハンドルを握ったまま、精一杯の反論を広瀬は捻り出した。己の口から出た「生身の人間」という言葉が脳内を上滑りしていく。――これから向かう先にいるのは、武器を持った生身の凶悪犯だ。つい、数時間前に広瀬も間近で見たのだ。だが、その異様な風体と常識の範疇を超えた身のこなしが強烈過ぎて、未だに相手も生身だと言う実感が湧かないでいる。

「それに、お前酔っ払いなんだろ?」

「それは天狗の酔い覚まし頂いたんで大丈夫です」

 連絡が付かなかった間、宮澤と怜路はどこか山の異界にいたという。しかも宮澤はその山の主に酌をされていたらしい。何から何まで現実離れしていて、いちいち驚くことも疑うことも広瀬はしなくなってきていた。

「――ほんとに、ゴメン」

「いいって、それは。お前のおかげで助かったのは変わりないんだし」

 確かに咄嗟に連絡が付かず焦りはしたが、結果的に宮澤から預かったお守りで広瀬は鬼を撃退したのだ。それに、あんな場所で襲撃に出くわすなど誰が想像しただろう。

 三叉路を右折すると、ダム沿いの峠を抜ける県道に入る。緩やかに上る坂道を少し走り、細い脇道に入ってすぐの場所に目的の病院はあった。七階建ての病棟と、同じ敷地内に高齢者向け住宅を併設した大きな施設だ。脇道に入る頃には、もう道の向こうに赤々とした回転灯の光が幾つも瞬いて見えた。

「とにかく、一応警察も俺達に知らせてくれたんだし、現場の病院まで入れるよな。……あのさ、宮澤。そりゃあ俺とお前じゃホントに見えてる世界も生きてる世界も違うのかもしれない。けど、同じ職場の同僚で、同じ部署で仕事してるんだ。専門職の前にしゃしゃり出ようとは思わないけど、俺にでもできることがあるなら妙な遠慮はしないでくれよ」

 広瀬は高校三年間、己の隣にいたこの友人のことを「にこにこと穏やかで大人しめの、ごく平凡な少年」だと思っていた。体育やスポーツで目立つわけでも、成績で目立つわけでもない、全てがそこそこ出来て人並みに不得手もある。クラスの中心にいるわけでもなく、さりとて孤立しているわけでもなく。自分と同じように、ごく当たり前の家で中産階級の両親の間に生まれ育ち、人生の悩みや憂いも、楽しみや希望も自分と大差ないと思っていた。――高校生活も最後、卒業式で顔を合わせるまでは。

「うん、ありがとう」

 高校卒業と同時に縁が切れ、巴市役所で再会してから一年半経った今でも、広瀬は結局まだ宮澤の事情を詳しく知らない。

 高三の終わり。皆が久しぶりに顔を合わせた卒業式の日の教室で、再会した友人は酷く憔悴して見えた。明らかに顔色は悪く、心なしか痩せている。驚いた広瀬は宮澤に尋ねた。『大丈夫か?』と。

 ――うん、大丈夫。何でもないよ。ありがとう。

 明らかに大丈夫でない顔色で、だが宮澤はその時、以前と寸分違わぬ笑顔を「」。

 その時、唐突に気付いてしまったのだ。

 当時、まだ広瀬は宮澤がどんな世界に生きているのか全く知らなかった。鬼だの妖怪だのが相手だなど、完全に想像の埒外だった。だが、宮澤のいつも見せていた笑顔は「拒絶」のための仮面だということに、気付いてしまった。これ以上立ち入るな、ここから先は見せない、という意思表示なのだと。

(きっと今もそういう顔してんだろうな)

 暗い車内、運転中の広瀬は隣をまじまじと見ることもできないが、今宮澤がどんな顔をしているかは大体想像できる。少し困ったような、曖昧な微笑みだ。高三の時は、拒絶にショックを受けてそれ以上踏み込めないまま、宮澤は音信不通になってしまった。宮澤は広瀬が聞いていた志望校とは違う遠い場所の大学に進学し、携帯番号もメールアドレスも全て変えてしまっていた。

 広瀬は思い知らされた。広瀬の中の宮澤は「友人」として特別な存在だったが、宮澤の中の広瀬は高校生活の背景の書き割り程度のものだったのだと。――本人に言えば否定するだろう。だが、こうして全く違う世界に立つ彼を見て、その隣に並び立ち同じ世界にいる怜路を見て実感する。やはり自分は、宮澤美郷という人物の中では「その他一般」の一人なのだ、と。

(あの時はビビッて、何も言えなかったし聞けなかった。けど、何の巡り合わせか一緒に仕事してるんだ。今度はビビらない。俺のできることをする)

 自分が踏み込まなければ、関係は変わらない。宮澤の習い性のような拒絶に怖気づいていては「その他一般」のままだ。

(同じ場所に立てるとは思ってない。けど、書き割りなんかじゃいたくないんだよ)

 望むならば、自分から手を伸ばせ。――一年前、他ならぬ宮澤が怜路に対してそうしたように。

 パトカーと警官、野次馬が異様な空気を醸し出す病院の手前、見覚えのある警官に車を止められ、広瀬はウインドウを下げて名乗った。

「鬼面の件で巴市役所から安芸鷹田に出向中の、特殊自然災害係の広瀬と宮澤です。駐車場、入れてもらえますか」

 ひと言ふた言、無線で何か確認した後、警官は広瀬らの車を病院の敷地内へ招き入れた。



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