第26話 噂話
「その森はまだ手つかずで、数多くの精霊が住んでいるんだけど、人間がそこを開拓したいと言い出したのがそもそもの始まりで――」
ハミルの話によれば、その森は良質な木々が育つ精霊の森だという。
草花が生い茂り、森の動物と精霊によって深く静かに広がっている神秘の森で、それに目をつけた近くのフォッサ小国が、開拓を交渉しに向かった。
しかし精霊たちの答えは「否」だった。すでにフォッサ小国は建国当時、この精霊の森の一部を譲渡してもらっていた。これ以上の面積の譲渡はできないという精霊と、小国を大国にしたい人間との間に摩擦が起きた。
「その国には、精霊と交渉できる人間はいないの?」
「
ニケの質問に、ハミルはちらりとニケを見やってから、湯気の立つお茶に目を戻す。
「もちろんいるさ。その調律師がフォッサ小国の王族にそれを伝えたそうだが、王族連中には精霊が見えないそうだ。まあ、つまりは、調律師の進言を聞き入れずに強硬手段に移しているという噂だ」
ハミルは口の端を皮肉に持ち上げた。
調律師は精霊と人との間をとりもち、双方の意見をまとめる役目の職業で、彼らを介しても聞き入れないとなると、はなから小国は精霊側の意見を聞き入れる気がなかったのだ。
「俺にだって見えないけどさ、だからって、存在を否定するなんてのは馬鹿げている。しかし、魔導士も居ない、森の奥深い土地で暮らす力なき小国の王侯貴族には、精霊よりも大事な政治的な何かがあるようだ」
それにシオンはハミルを見て眉を上げた。
「というと?」
「魔導士や薬師や祈祷師のような精霊が見える連中の弾かれ者たちを、金を積んでかき集めているって噂だ」
ニケが思わず身を乗り出した。
「最初は、ただの噂だったんだけどな。仲間が探りを入れた所、本当だった。見ろよ、これがその宣伝書き」
胸の内ポケットからがさごそと紙きれを取り出すと、それをシオンに渡す。受け取ったシオンが広げたのを、ニケも身を寄せて見た。
周りに聞こえないように低い声でハミルが二人を見つめた。
「始まるぞ、人間と精霊の争いが。もう、時間の問題だ」
ハミルが宣伝書きの紙を胸ポケットにしまって、大きくため息をつく。伝聞師たちは基本的には平和主義者が多い。というのも、世界が安定していなければ、自分たちも安全に旅ができないからだった。
もちろん、どの伝聞師にだって野次馬根性が据わっているので、珍しい報せは喜ばしいにしても、すき好んで戦をする人の気が知れないと、ハミルも苦渋を顔に滲ませていた。
「人と人との戦も嫌だけどさ、人と精霊の戦いなんてもっと嫌だよ、俺は」
人と人との争いでももちろん大きな被害は常に出るものだが、人と精霊が戦うと、それこそ魔力同士のぶつかり合いになるため、甚大な被害が出ることの方が多かった。
ハミルは、それを恐れている様子だった。シオンも表情を曇らせていた。
「止められないのかな?」
ニケの小さなつぶやきに、ハミルがやっとおっとりとした笑顔を見せる。
「良い子じゃないか、シオン。不愛想なお前にはもったいないな」
「不愛想で悪かったな。ハミル、被害がもう出ているんだな?」
「そうだ。今はお偉いさん方に強い伝聞師が、この情報をひっそりと強国に伝えている。イグニスを含めた大国が止めに動き出すのももう少しだろう」
それまでの間に、いったい何人の人間と精霊が巻き込まれるのか、ニケには全く想像がつかない。
しかし、事が急を要するというのは理解できていた。
「今はまだそんなにじゃないが、これから本格化する恐れがある。もしこっちに用事があるなら近づかないほうがいいぞ。ここに留まるか、南下して行くのがいい」
「でも、もう精霊も人も、怪我人が出ているんだよね?」
ニケが不安そうな顔をして口を挟むと、そうだよとハミルは言ってから、ニケの今にも飛び出して行きそうな表情を見て苦い顔をした。
「言わなきゃよかったかな。お嬢さん、今あんたが行ったところで、争いに巻き込まれるだけだ。人も精霊も、救えない」
そのすまなそうな言い方に、ニケは頭に一瞬血が上りかけた。
しかし、隣に座っていたシオンが机の下でニケの手を強く握ったのに驚いて彼を見ると、その一見冷静に見える瞳の底に強い色が浮かんでいるのを感じ取って、ニケは頭が冷えた。
怒っているのは、ニケだけではなかった。ハミルも、こんな調子だが、争うことに関しては怒っていた。
「といっても、フォッサ小国はイグニスのことを毛嫌いしているってことらしいから、イグニスが出て行ったところでどうなるか予想がつかないんだよなぁ」
ハミルは椅子にどっぷりと腰掛け直して、頭をぼりぼりと掻いた。
「まあ確かに、自分の国のお隣が、世界中に名を轟かせている強国だったらなんとも言えない気持ちにはなるわな。だからといって、精霊の森を破壊するのが正しいとは思わないが」
「その小国に、流れ者たちに積み上げる金が、一体どこから出てきてるんだ?」
シオンの疑問に、ハミルは目を輝かせた。
「そう、そこなんだよ! 村と同規模のあの小さな国に、どこにそんな潤沢な資金源があるのか、全く分からないんだ」
そこまで一気に言ってから、ハミルはまた声の調子を押さえた。
「だけどな、めっぽう人に効くっていう薬の開発に成功したとかなんとか、そんな噂が出てるんだ。それで、ぼろ儲けしているらしい。きな臭いだろ?」
「薬?」
ハミルは鞄を開けると、中から液体の入った小さな瓶を取り出した。
「これだよ」
差し出されたそれは、半透明の金色をしていて、とろみがある。
「今、伝聞師たちの間でこの液体が大量に出回っていてな、疲れも病もたちどころに治癒するって言われている。製造国も、製造方法も謎だけど、フォッサ小国が開発したんじゃないかと秘かに噂されている。これがものすごくてな、足をくじいた仲間は一日で治った」
「一日で!?」
ニケは驚いて大きな声を出してしまい、店にいた客がなんだなんだとこちらを見たので、慌てて頭を押さえつけると、シオンの陰に隠れるように縮こまった。
「これやるよ。疲れたら飲んでみろ」
ハミルはそういって小瓶をシオンに渡した。
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