第十一話「黄色いシュシュ」

優太を置き去りにしてハンバーガー屋さんを飛び出した次の日、私はなんだか無性に桜井くんに会いたくて、むず痒い気持ちを持て余していた。

少し緊張しながら学校に行く。昨日の雨が嘘のように今日は空が晴れ渡っている。

真夏の日差しが痛いくらいだ。


桜井くんに話を聞いてほしい。私、昨日優太に会ったよ。やり直したいと言われたけど、断ったよ。桜井くんは、きっと私を褒めてくれるだろう。


学校までの道のりを歩く。一歩一歩進むごとに、桜井くんが近づいていると思うと、緊張するし、なんだか嬉しい。心がウズウズとむず痒い。心臓が分かりやすく速い。こんな気持ちは久々だ。


学校からほど近い横断歩道で、信号待ちをしている桜井くんの後ろ姿が見えた。

桜井くん、と声をかけようとしたが、躊躇した。


桜井くんが、女の子と話していたからだ。

他の学校の制服を着ている。この近くの、私立高校の制服だ。黒いロングヘアを、黄色いシュシュでポニーテールにしている。歩く度にポニーテールが揺れて、思わず目を奪われる。


奥二重で睫毛が長く、鼻が高くて、薄めの上品な唇。矯正な顔立ちだ。

少し背が高くて、165センチくらいはあるだろうか。

スカートから白くて長い足が伸びている。誰が見ても綺麗な子だ。


二人は楽しそうに談笑している。何を話しているんだろう。そういえば、桜井くんに彼女がいるかどうか、私は聞いたことがなかった。もしかしたら、彼女なのかもしれない。

そう思いついたとき、私は目の前が真っ暗になる。なんでこんな気持ちになるんだろう。


桜井くんはバンドメンバーで、私は優太に未練タラタラだったはずだ。

それなのに、私は昨日、優太を置いてきた。

そして今日、桜井くんの元までウキウキしながらやってきた。

私の視線を感じてしまったのか、黄色いシュシュの女の子が振り返った。

しっかりと目が合う。女の子は桜井くんに耳打ちする。


「ねえ、もしかして知り合い?」


桜井くんが振り返って、私に気付く。


「あ、春!おはよう。」


私はなるべく感情を悟られないように挨拶する。


「お、おはよう。」


桜井くんが、女の子に私の紹介をする。


「俺のバンドメンバー、春って言うんだ。良い唄、歌うんだよ。」


女の子が私にニッコリ笑いかける。


「初めまして。春ちゃん。私、夏美です。同じ季節の名前だね。」


「ど、どうも…」


私がぎこちない挨拶をした瞬間、夏美のスマートフォンがピロリン、と鳴った。そして、それを見て夏美が声をあげた。


「やば、もうこんな時間なの!?遅刻確定かも。私走る。じゃあまたね〜。」


夏美が手を振って、軽やかに走り出す。黄色いシュシュで結ばれた黒髪がさらさらと靡く。スカートがひらひらと揺れて、綺麗な長い足が一層よく分かる。


桜井くんがその後ろ姿を切なそうに眺めているのを、私は見逃さなかった。

澄んだ目で、まっすぐに夏美の後ろ姿を追いかけている。

見逃せば良かった。知りたくなかった。

眩しい黄色いシュシュ。私はショートカットだから、あんな風に髪を結べない。


夏美の後ろ姿を見送った後、桜井くんはハッと思いついたように私に聞く。


「春、曲はどう?進んでる?歌詞考えれてる?」


私はギクッとする。まだ何も進んでいない。


「進んでるよ、大丈夫。チャイム鳴ったし、早く教室入ろ。先生来ちゃう。」


私は桜井くんの横にいるのが辛くて、嘘をついて教室に飛び込んだ。


あんな綺麗な人、勝ち目がないじゃないか。もう感じなくて済むと思っていた、ドス黒い嫉妬がまた、私の中を駆け巡る。

私は寝たふりをして塞ぎ込んだ。先生が起こしにきたけど、私は絶対に顔をあげなかった。

今、私が静かに泣いているのがバレたら、この気持ちも桜井くんにバレてしまうじゃないか。


私は桜井くんが好きだ。



とうとう、歌詞もメロディーも思いつかないまま、スタジオの日が来てしまった。私は夏美のことで悶々としてしまい、曲作りどころではなかった。情けない。

私はスタジオに来た三人に、素直に謝る。


「ごめんなさい。結局、思いつかなかったの。」


それを聞いて、皆落胆していた。

桜井くんが、露骨にガッカリした顔をしながら、私に言う。


「まあ、仕方ないよな。俺も無茶ぶりだった。次までに俺が考えてくるから。

春はそれを録音して覚えて。」


悔しくて、ふがいない気持ちでいっぱいだ。


「ごめん…」


中原くんが優しくフォローしてくれる。


「文化祭まで一週間だけど、練習詰めればきっと間に合うよ。とりあえず、歌とメロディー以外を、今日は進めよう」


桜井くんが考えてくれた曲を合わせる。皆アレンジが固まってきていた。

健太くんはドラムのフレーズを変えて、曲の緩急をつけていたし、中原くんはドッシリとしたビートを刻んでノッている。

桜井くんは、前はアドリブだったギターフレーズを固めてきていた。チョーキングの多いフレーズで、曲のテーマになる、太いギターの音だ。



今日も桜井くんの黒いギターにアンプのオレンジ色が映っている。

朝焼けの色。暗い夜を照らす色。


夜を掻き消してくれた桜井くんのギター。優太のギターの音を掻き消してくれた。

優太との沢山の思い出を、このギターが上書きしてくれたんだ。

そして私の感情も。

優太のギターの音なんて、もう忘れてしまった。


私は、優太のギターの音を忘れたように、

桜井くんが弾いたギターの音を忘れるのが、ただ怖い。



そう思ったとき、突然、私の頭の中で、爆音でメロディーが鳴り響いた。

言葉が溢れる。

衝動が沸き立つ。

心の中で確実に、言葉が暴れている。

とてもうるさい。そのせいで、心が痛い。


この痛みを忘れない内に、書き留めておかなくちゃ。


私は突然ギターを置いて、カバンからルーズリーフを引っ張り出した。

そして地べたに座り込み、マジックで言葉を殴り書きし始めた。


その姿を見て、中原くんが焦り出す。


「は、春ちゃん!?どうしたの?」


「なんか、頭の中で爆音が鳴ってて。で、胸が痛くて、痛い内に、書いとかなきゃいけなくて、それで…」


健太くんも心配そうに言う。


「なになに、どっか痛いの?」


桜井くんだけ、私を見て笑っていた。


「春、曲、思いついたの?」


私は、桜井くんに笑い返して、頷く。


桜井くんは嬉しそうに皆に言った。


「よし。休憩。春が書き終わるの待とう。春、書き終わったら教えて。俺らロビーで休憩してるよ。」


「ありがとう。」


三人が出て行って、私は言葉を書いて、塗り潰して、書いて、塗り潰してを繰り返した。そうして残った言葉たちを組み合わせる。


桜井くんが他の誰を好きでもいいじゃないか。

だって私は、あんなに彼の弾くギターが好きで、彼が好きだ。

そして彼は私の歌を好きだと言ってくれるなら、今はそれでいいじゃないか。

好きってだけで、こんなに言葉が暴れて止まらないんだから。

こんなにも、心の中で爆音が鳴り響くんだから。


桜井くんを好きにならなきゃ、こんな音は聴けなかった。こんな大きな音が頭の中で鳴るのは初めてだ。うるさいのに、心地いい。



1時間は経っただろうか。

私はようやく、歌詞のようなものを書き上げて、ロビーに向かった。


「書けたよ。」


談笑していた三人がピタっと話をやめた。そして桜井くんが真剣な表情で言った。


「よし。合わせよう。」


緊張する。初めて自分の言葉を自分のメロディーに乗せて歌う。

もしダサかったら?もし皆が気に入らなかったら?と考える。

でも私は、それ以上に、聞いてほしかった。私の頭の中の爆音を、聞かせたかったし、見せたかった。メンバーに、そして、桜井くんに。


曲始まり、ドラムがシンバルでカウントを派手に鳴らす。

その音と同時に、私は叫ぶように歌い始めた。

自分の今まで隠し続けていた気持ちを吐露するように、曝け出すように、喉からでもなく、腹からでもなく、心の底から声をあげた。


必死すぎて、目をつぶってしまう。皆がどんな顔をしているのか分からない。

この歌詞を、このメロディーを聴いて、皆が何を思っているか分からない。

でも構わない。今は私の頭の中の爆音と、皆の爆音を共鳴させるだけだ。

桜井くんのギターソロが響き渡る。私の鳴らすもう一本のギターと混ざり合い、爆音同士がぶつかって混ざり合う。そしてその上に私の心の爆音を重ねる。


歌い終わって、私が気疲れして、一息ついていると、皆が私をジッと見ていた。

ダメだったんだろうか。


桜井くんが笑った。


「凄いな。」



曲について、あーでもないこうでもない、と議論している内に、スタジオの終了予定時刻をとうに30分も過ぎていた。いつもはスタジオ終了5分前に矢島さんが片付けにくるのだが、寝ていて気づかなかったのだろう。

幸い、私たちの次にスタジオ予約を入れているバンドはいないようだ。


私たちはスタジオを出て、店主の矢島さんに頭を下げた。


桜井くんが代表して謝ってくれる。


「ごめんなさい!30分も長く練習して…延長料金払います!」


矢島さんは目を覚まし、ああ、と寝ぼけ眼でこう言った。


「なんか、いつになく真剣に議論してたからね。今日はこの後予約なかったから、好きにさせてやろうと思って。わざと止めなかったから、延長料金はいいよ。おっちゃんの奢り。」


矢島さんは、優しい顔で笑ってくれた。


「や、矢島さぁん…」


私たちはもう一度矢島さんに頭を下げて、スタジオを出た。

真夏の日差しがいよいよ猛威をふるって、暑い。いよいよ七月だ。

健太くんがうわーーと声をあげる。


「もう夏じゃん!海とかプールとか行きたい。デートで行きたい。ああ、彼女欲しい!今年の夏こそ彼女作るぞ…」


中原くんが笑った。


「文化祭が終わってから、皆で行こうよ。デートじゃなくてもさ。」


健太くんが恨めしそうに中原くんを見た。


「出た出た、彼女持ちの余裕ですよこれが…。彼女元気?」


中原くんがニヤニヤする。


「元気だよ。この後会う約束してるんだ〜。」


「くそ…桜井、俺らは彼女いないもの同士、仲良くやろうな。」


健太くんが桜井くんと肩を組む。私は不安な気持ちで桜井くんを見つめる。


「そうだな。彼女とか俺も長らく居ないわ。二人で海とかプール行こうな。」


桜井くんの言葉に私は耳を疑った。今朝の子は、彼女じゃないんだろうか。


健太くんは桜井くんの言葉にすっかりうなだれて言う。


「男二人で海なんて…悲しすぎる…。この夏は練習頑張るわ…。じゃ、またスタジオでな…」


中原くんと健太くんと別れて、私は桜井くんと二人きりになった。

私は拍子抜けで桜井くんを見つめた。


「桜井くん、彼女いないの?」


桜井くんも拍子抜けで私を見つめた。


「いないけど?」


「こないだ登校中に会った人、彼女なんだと思ってた…」


桜井くんが驚く。


「えぇっ?あの人は中学の先輩だよ。前話したの覚えてる?バンドやってたけど辞めちゃった一個上の先輩。あの人だよ。」


ああ、あの黄色いシュシュの女の子が、桜井くんが憧れてた先輩だったのか。

彼女じゃないのが分かったのは嬉しいけど、桜井くんが好きな人には変わりないだろう。複雑な気持ちだ。


そんな私を見て、桜井くんは怪訝な顔をした。


「で、なんで春は暗い顔してんの?」


私は焦って弁解する。


「いやっ。なんか、メンバーとして悔しいなって。あんな綺麗な人がギターボーカルしてたなんて、なんか勝ち目ないなあって。私綺麗なタイプじゃないし。」


桜井くんは呆れた顔をした。


「なーに言ってんだか。今日いきなり地べたで歌詞殴り書きしだして、一気に曲書いて、歌い始めたやつが。春、勝ち目しかないじゃん。」


私は、思わず本音を漏らした。


「でも、桜井くん、あの人のこと好きだったのかなって。そう思うとなんでか、無性に、悔しい。サラサラのロングヘアに黄色いシュシュが似合ってて。私は真逆だから。

ショートカットだし、くせ毛だし。」


私は言ってから後悔する。顔から火が出そうだ。桜井くんへの好意がバレないように、私はどうにか誤魔化そうとする。


「あ、あの、同じギターボーカルとしてね!音楽的にね、負けたくないと思ったの!」


桜井くんはそんな私を見て、しばらく悩んでから、心を決めたように、ポツポツと話し始めた。


「確かに俺、あの人に憧れてて、実は好きだったときも、あるんだけど。でもあの人はギター辞めちゃった。今日バンド始めたこと言ったら、笑われちゃったよ。青春だねーとか言われた。俺、切なかった。この人もう俺の憧れてた人じゃないんだって、興ざめしちゃったよ。」


だからあのとき、黄色いシュシュの後ろ姿を見て、あんなに切ない顔をしてたのだろうか。私は少し安堵する。桜井くんは興奮気味で話を続けた。


「それで、今日スタジオ入ったら、春が歌詞を凄い勢いで書き始めて、その場で完成させて、感情が爆発するみたいに、爆音を鳴らすみたいに歌い出して。俺、このバンドを青春なんかじゃ終わらせないって思った。春の方が、格好いいよ。そんなの当たり前じゃん。」


私は言葉の一つ一つを噛みしめる。桜井くんに、私の心の爆音は、ちゃんと鳴り響いていた。共鳴している。


それにさ、と桜井くんが立ち止まる。私も立ち止まる。


桜井くんは、私の頭をグシャグシャ、グシャグシャといつものやつをした。私の好きな、そして多分桜井くんも好きな、いつもの癖だ。


「あんなに綺麗にポニーテールして、シュシュまでつけてたらさ、グシャグシャできないじゃん!俺これするの好きなんだよ。だから春はその髪型で、良し!」


私は、急に黄色いシュシュが有難いものに思えた。桜井くんはあの人の頭をグシャグシャしないんだ。黄色いシュシュはつけない。私は私のままでいい。


私は桜井くんの髪にも触れたい気持ちをグッと抑え込んで、桜井くんのゴツゴツした手の感触に、ただ静かに浸っていた。

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