第二話「青すぎる空」

空が白々しいほど青い。


あいつのウソくらい青い。青すぎる。

浮気がばれて真っ青になった優太の顔は、今思い出しても可哀想になるほど滑稽だった。人の震えてるとこなんか初めて見た。あれは、いいもんじゃないな。

人の嘘を見破るってもっと気持ちのいいことだと思ってた。実際に見破ってみると、ただ悲しくなるばかりだ。嘘の中で浸っている方がよほど気持ちがいい。

あんな風にくっきりと人の嘘に気づいたのは初めてだった。


「初めて」って嬉しいことばっかりだと思ってた。

初めてのおつかい、初めてのデート、初めての文化祭、初めてのキス。

心がむず痒いような、かきむしっても落ち着かない。けど、かきむしった胸が赤く染まるような緊張が、どうにも嬉しかった数々の幸せな「初めて」。

優太は沢山の「初めて」を私に教えてくれた。

そして初めての浮気、初めてのウソ、初めての別れ。心が真っ青に冷え切って固まるような、冷えた胸に触ると氷のように指に張り付き、傷跡がいつまでも疼くような。

そんな残酷な「初めて」も優太は私に教えてくれた。


知りたくなかった。私は真っ青に冷え切った心を持て余して、自堕落な日々を送っていた。


当然、優太と私は、あの後破局した。

別れた後、私は、借りていた漫画や小説を返すため、一度だけ優太と食事をした。

食事といってもハンバーガー屋だし、私は胃が重くて何も食べれなかったけど。


私はオレンジジュース、優太はコーラとフライドポテトを注文した。

優太の長い指。私の好きな優太の華奢な指。その指でフライドポテトを口に運ぶ仕草が、塩辛い口を洗い流すようにコーラを飲み干す姿が、愛しくて泣き出しそうになる。


私は必死に平静を装って、優太に尋ねた。


「愛子と付き合うの?」


すると、優太は苦虫を噛んだような顔をしながら、言わなくても良かったのに、またほんとのことを言った。


「いや、愛子ちゃん、彼氏がいるんだ。でも俺のことも好きだって。」


私が装っていた平静はガラガラと崩れ去って、思わず心の声が漏れた。


「は?」


「ごめん。こんなこと春に言って。でも俺も苦しいんだ。俺は春と別れたのに、愛子ちゃんは彼氏と別れてくれないんだ。デートも、キスも、キス以上のこともしたのに。春、俺どうしたらいいんだろう?」


本当に残酷な人だと思った。優しい嘘をついてくれれば良かったのに。

ほんとのことなんて、ほんとは知りたくなかったのに。

私は酷いことを言う優太を罵りたい衝動に駆られた。それなのに、まるで捨てられた子犬のような目をして苦しんでいる好きな人を、助けてあげたい衝動にも駆られた。

そして後者が勝ってしまった。


私は、なぜか優太の恋愛相談に乗り、適当な相槌を打った。元カレから恋愛相談をされるという異常な空間の中、私は好きな人のそばにいるという事実だけがただ嬉しかった。散々、優太の相談を聞いた後、そろそろ帰ろうか、と優太が言ったとき、涙ぐんでしまったほどだ。そんな私を尻目に優太は笑ってこう言った。


「春に全部話せてスッキリしたよ!ありがとう!じゃあ元気で!」


そりゃ優太はスッキリするだろう。一人で抱え込んでいればいいものを私に全部ブチまけて。でもそうさせたのは、私だ。

優太と別れて一人になった瞬間、私は我慢していた涙が堰を切ったように溢れ出た。


優太が私とやり直す気なんてさらさらないこと、愛子と関係を持っていること、その愛子には彼氏がいること。その全てが腹ただしくて、憎くて、悲しくて、私は泣いた。

そして、軽音楽部はもう辞めよう、と決意した。



軽音楽部の子が貼ったのであろう、バンドメンバー募集の貼り紙を横目に、私は帰宅部としての活動に精を出していた。今日も好きな漫画読んで、ゲームしなければ。

あー忙しい。軽音楽部はもういいや。ダラダラすんのが一番好き。一人きりは恋より楽しい。今日も早く帰って一人でゴロゴロしたい。今は音楽なんて聴きたくない。

ギターの音を聴くだけで、優太を思い出して辛い。初めて会った日を思い出して辛い。

暖かい「初めて」を思い出せば思い出すほど、心は急速に冷えて、目の前が真っ暗になる。


今やってるゲーム、モンスターが「ひんし」になると主人公は目の前が真っ暗になってスタート地点に戻ってしまうんだけど、私も今、いわば「ひんし」状態。

すごいきずぐすりか、やくそうをください。心に効くやつ。無いか。

無いなら私はゲームをし続けて現実から逃げる。ゲームの中の私のレベルが上がれば上がるほど、現実の私の恋愛偏差値レベルが急降下しているのが分かる。


最近制服以外はずっとジャージだな。でも私のワンピースやヒラヒラのスカートを、いつも褒めてくれた人は、もうどこにもいないから。


私が今まで浴びてきた甘い言葉の数々は、今、愛子が散々浴びているのだろう。

愛子は身長148センチほどで、丸い目、栗色の髪、肌が白くて青く血管が透けて、いじらしい女の子だ。男が放っておけないのも分かる。


でもさ、浮気はダメじゃん。いや、ダメだろ。

愛子はいつも、愛想良く、朗らかな顔して残酷なことをしてる。優太の心も私の心も踏み潰してる、か弱いフリして一番図太い女だ。

でも男の子は誰もそれに気づかない。愛子がまだ別れてないらしい彼氏も、優太も気付かない。


私は、鬱憤晴らしをするかのように、ゲームの中のライバルをボッコボコに倒したところで、自分が空腹であることに気づいて、近所の青いコンビニへと向かった。

別れて数日は自分の空腹にすら気づけず、食欲がなくなって、ご飯も味がしなかった。

だから空腹が嬉しい。私はお腹が空いている。それだけのことに涙が出そうだ。

時刻は午後六時。まだ空は夜になる前の澄んだ青色で、春の訪れを私に感じさせた。


私は高校を家の近さで選んだため、部活帰りの同級生たちとすれ違った。

皆こんな時間まで部活頑張ってるんだなあ…。私も家でゲーム頑張ったよ。ジムリーダー倒したよ…などと思いながら学校近くの横断歩道を渡ろうとしたとき、青信号の光に照らされた白い肌と栗色の髪に気付いてしまった。愛子だ。


気づいてないフリをして通りすがろうとしたら、愛子が声をかけてきた。


「春さん、お久しぶりです!」

パッと愛子の顔が笑顔になる。その笑顔にゾッとする。


「久しぶり…」

私の顔は自分でもわかるほどに強張っていた。


愛子は心底悲しくて残念である、というような切なげな上目遣いで

「…春さん、もう軽音楽部来ないんですか?」と聞いてきた。


あんたのせいで行けないんだけど…とは言えず「行かない。」とだけ答える。


愛子はまるで四月にほころぶ花のように、フワッと無垢に笑って、こう言った。


「私、春さんの歌、大好きでした。今、私もギターボーカルの練習してるんですけど難しくて…また教えてくださいね!」


心がズワズワと音を立てた。怖い、と思った。


どうして私にそんなこと言えるんだろう。私から優太を奪ったのに、どうして平然と私に声をかけられるんだろう。どうしてこの子がギターを練習するんだろう。


優太のギターに合わせて、今はこの子が私の好きなロックバンドの曲を歌うの?

歌わないでほしい。私の好きな音楽を聴かないでほしい。

私の好きな歌詞を汚さないでほしい。



私の歌を好きだというのは、自分をよく見せたいから?

誰にも嫌われたくないから?

本当に罪の意識がないから?

私のことを軽音楽部の先輩として好きだから?


悪気はないのかもしれないけど、悪気がないのが一番悪い。本当に図太い人間だ。

私はあの子とは違う。声をかけられただけで、怒りに打ち震えるような弱い人間だ。

冷え切っていたはずの心が憎しみで熱く燃え上がるような、本当に弱い人間だ。


愛子に何か言おうとした。のどがカラカラに乾いている。きっと憎しみの炎でのどが焼かれてしまったんだ。ここで何も言い返せないなんで弱い人間みたいで嫌だ。

愛子に弱い人間だとばれたくない。でも、声は出ない。出せない。


出したとしても、(優太は元気?)とか(優太って最近どんなバンド聴いてるの?)(優太は私のことなにか言ってた?)とかもう、私の頭の中は優太優太優太ばっかりで、それは私が弱い人間であることをあまりにも表わしていて、黙っていることしか出来なかった。

私の精一杯の虚勢。バレバレの虚勢。


何も言わない私を見て、愛子は困った顔をしていた。

八の字になる愛子の眉毛が、私を異常に苛立たせた。

私はそのまま何も言わずに、逃げるように家に帰った。



家に帰るとお母さんが、優しい笑顔で「おかえり〜」と出迎えてくれた。

台所から間接照明の光と、温かい料理の香りが漏れている。お母さんが私の大好きなミートスパゲティを作ってくれたようだ。

お母さんに差し出されたミートスパゲッティの湯気が、泣き崩れてしまいそうな私の顔を包み込む。暖かくて、甘酸っぱくて、美味しかった。でも、胃が重くて、苦しくて、半分以上は残してしまった。


お母さんは、私が彼氏と別れたことを知っているため、「残した分、冷蔵庫に入れとくね。お腹すいたら食べて。」と、さりげない優しさをくれた。

皆、お母さんみたいな優しさを持っていればいいのに。お母さんは何も言わない私に無理に話しかけたりしない。

愛子もせめて、すれ違ったとき、私を無視してくれたら良かったのに。愛子は優しさのつもりだったかもしれないが、私の胃の中で、愛子の言葉一つ一つがずっしりと重量を持って、胃を圧迫している。


胃が重くて、一本のスパゲティですら消化してくれないような気持ち悪さで、その日はなかなか眠れなかった。


夢の中で優太が青いギターを弾いていた。優しいアルペジオだ。それに合わせて、私が適当なメロディを口ずさんだ。幸せで涙が出た。でもギターの音が歪んで割れていく。

何事かと思って優太の方を振り返ると、ギターを弾いているのは愛子に変わっていた。愛子のヘタクソなギター。


愛子のギターの弦をよく見ると、それにはミートソースがベタベタと貼り付いていて、よく見るとパスタだ。愛子がギターを弾く度にブチブチとパスタが千切れていく。

青いギターは粉々になり赤いミートソースでベタベタだ。赤いミートソースのついた手で愛子が私の手をつかむ。「春さん、ギターを教えてください、春さん」私の手がミートソースで真っ赤に染まり叫び声をあげると同時に目が覚めた。


幽霊もゾンビも出てこない、本当の悪夢の存在を、私は初めて知った。





あまり眠れなかった私は、次の日教室で、授業が終わってからもグッスリ眠ってしまっていた。

何をしても起きない私に、担任も呆れて、眠っている私を放置した。


夢の中でまた優太がギターを弾いていた。暖かい陽だまりの中、優しいバラードをギターで弾く優太。私の優太。夢の中なら居るんだね、嬉しい。オイッ…オイッ…と優太がかけ声を入れ始めた。いや、そのかけ声はこの曲に合わないでしょ優太…優太。


「おい!」という声に、はっと目を覚ますと、クラスメイトの桜井太一が私に、おい、おい、と声をかけていたことにようやく気付いた。


桜井くんは2年で初めて同じクラスになった子だ。

ミルクティーのような、柔らかい金色の髪を、綺麗に首元で切り揃えている。前髪はパッツンだ。この学校は校則が自由だから、髪は何色にしてもいいのだけど、桜井くんほど明るい髪色の子は少ない。そんなこともあって桜井くんは少しクラスの中でも目立つ人だ。

私はクラスで隅っこにいるような、目立たない人間だから、今まで桜井くんと話したことがなかった。

目は一重でつぶらだが、鼻筋が通っていて色白なので、綺麗な顔をしているなーなんて思っていたら、つぶらな瞳の間の眉間にシワが寄った。


「おい、担任が怒ってたよ。明日まで寝てるつもりかって。俺テスト赤点だったから罰掃除しなきゃいけないんだよ。机動かさせて。」


「ああ、ごめんね。もう起きる」


机を運ぶ桜井くんの白いブラウスから、バンドTシャツが透けていた。私の好きなバンドのTシャツだ。


「ねえ、それ、バンプのTシャツだよね。バンド好きなの?」


その質問待ってましたと言わんばかりに、食い気味で桜井くんは答えた。


「うん!!めっちゃ好き!ねえ、君、彼氏と中庭ライブで演奏してたよね!」


「見てくれてたんだ…。でもあの人、彼氏じゃなくなっちゃった。」


驚きと喜びの混じった顔で、桜井くんは声を大きくして言う。


「別れたの!?やった!!俺ね、あいつのギターは全然なってないと思ったの。ピーキー言って目立ちたがって歌の邪魔して。どんな神経してるんだよって思ったね。別れて正解だわ!」


「そうだね。今あいつ、新しい女と一緒に軽音楽部で練習してるんだよ。私の代わりにあの子が歌うかも。ほんと、どんな神経してるんだろね、サイコ野郎だ…よ…うーーーー」


そんなサイコ野郎を、一年間、一生懸命愛していた自分が情けなくて、涙がボロボロ溢れた。少し愚痴を聞いてほしかっただけなのに、最低だ。今日初めて話したクラスメイトに見せる姿じゃない。

早く帰って漫画とか読みたいゴロゴロしたい。そして、一人で泣きたい。

恥ずかしくて、情けなくて、涙が止まらない。


「でも君の歌良かった。なんというか。切なかった。」


「…ははは、どうも。」


少し顔を洗いたくて、教室を出ようとしたら、桜井くんが大真面目な顔で言った。


「なあ、見返そうぜ」


「いや、ほんとそういうの勘弁して、逆に虚しくなる、ほんと大丈夫」


「なんでだよ。酷い奴らなんだろ?君の気持ちはまるっきり無視して、自分らの悦楽に酔ってるような奴らなんだろ。」


少し、言って欲しかった言葉を言ってもらえて、私は心が解けた。


「そうだけど。でも見返すって、何するつもり?上靴に水入れるとか?私、そういうみみっちいことしたくないよ。」


「俺もそんな、しょうもないことしたくないよ。あのさ、こういうときのために、世の中の理不尽を問題提起するために、心の叫びを表現するために、ロックミュージックっていうのはあるんじゃないかなーと思ってるわけよ。わかる?」


なんか言い出した。私はとりあえず黙って聞いていた。


「俺ね、バンドしたいんだ。でも軽音楽部の奴ら、軟派な奴が多そうで入部しなかったんだよ。あ、君のことを軟派だって言ってるわけじゃないよ。

君の元カレとかさ、なんかああいうチャラそうな奴と仲良くなれないんだよ。

あのタイプは心情を吐露して叫ぶような曲に合わないから。

軽音の部長も、いかにもモテそうだし。俺のしたいバンドのイメージとそぐわないんだ。」


確かに、桜井くんは顔立ちは悪くはないのに、モテなさそうだ。理屈っぽいもん。


「そんでさ、俺のしたい音楽がしたくて、軽音楽部の廊下にバンドメンバー募集の紙を貼ったんだよ。で、他のクラスの奴がベースとドラムで入ってくれたんだ。

この学校、軽音楽部に所属してなくても、有志で七月の文化祭出れるだろ?

七夕にやってるやつ。」


嫌な予感がする。


「ギターボーカルだけまだいないんだ。ねえ、君がやってくれない?」


私は返事もせす、教室を出て歩き出した。慌てて桜井くんが追いかけてくる。


「ちょっと、なんで無視すんの?怒ってる?君の歌いいなって思ったんだ。魂が叫んでる感じがして。」


私は立ち止まり、振り返って桜井くんを見た。


「そっか、ありがとう…じゃあ、今の私の魂の叫び、聞いてくれる?」


桜井くんはパッと嬉しそうな顔をした。

「…やってくれるの?」



私はまるで歌うときのように

大きな声で、今の魂を叫んだ。


「絶、対、やらなーーーい!!!!!!!」



今は音楽を聴きたくないくらい悲しいのに、歌ったりしたら心が張り裂けてしまうよ。

失恋を振り返りたくない。私は何も歌えない。

そう思いながら私は桜の絨毯ができているアスファルトの帰り道を、逃げるように走った。

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