僕にしかできないこと
最も好ましくない真実が夏休み終わりの前に横たわっていた。ヨスガがついた、たった一つの嘘。
『私の姿は観察対象である能力者にとって少しでもストレスのないように、記憶の中で一番恋しい存在の姿で見えるようになっています。大抵の場合は家族か恋人が多いですね。先輩の姿で見えるなんて珍しいです』
彼女はかつて僕にこう言った。見る者によって姿形が変わるのであれば、たとえ写真であっても沙綾にはヨスガが別の姿に見えていなければおかしい。ましてや綾野先輩の姿で見えるなんて、妹は一度も先輩に会ったことはないのだ。つまりヨスガは僕の目にだけ綾野先輩に見えているのではない。初めから綾野先輩の姿だったのだ。だから着替えたり、怪我をしたり、雨に濡れることもできた。考えられる可能性は二つ。ヨスガという存在が綾野先輩の体に乗り移っているのか。あるいは綾野先輩がヨスガそのものなのかだ。その真意を僕は確かめる必要がある。
「その人行方不明じゃなかったっけ?」
河川敷から吹きつける夏風に乗って沙綾の疑問が届く。
「うん。この写真は詩帆先生から貰ったんだ」
「なあんだ。兄貴、絶対その人のこと好きだったでしょ?」
「『だった』じゃない。今も好きだ」
僕の大胆な告白に沙綾が肩を軽く叩く。
「いつまで引きずってるのよ」
「今年の夏が終わるまでかな」
「もうすぐじゃん」
「もうすぐだよ」
午後の柔らかな日差しが彼岸花を透過する。嫌いだった父の地元もいつか懐かしく思う時が来る気がする。その時は真っ先に、この沙綾との会話を思い出すに違いない。素人めいたスマホの写真は消さないでおこう。この日を思い出すときの手助けとなるように。
☆☆☆
その日の夜、家族が寝静まったのを見計らって、僕は砂時計を手にこっそり実家を抜けだした。ミミズと蛙の大合唱を抜け、色を吸い取るかのような黒い夜空の下、彼岸花の土手を目指す。堤防に上ると、山際から漏れ出した都市の光が、そのまま夜空に流れたような天の川が広がる。草むらの影から蛍が何匹か堤防の上を飛び回っている。彼岸花の前で立ち止まり僕は砂時計を取り出した。ここまで来た意味は特になかったが、僕には気持ちを整理するために歩く時間が必要だった。黒だけの世界で茜色が溢れる。
「ヨスガ、いや綾野先輩。いるんでしょ?」
音もなく流れる時間の中で僕は呼んだ。それは一週間ぶりの再会だった。
「そっか、気づいちゃったか」
僕が振り返るとさっきまで誰もいなかった場所に少女が立っていた。白いワンピースを着て、赤いヘアピンをつけた大人びた顔立ちの少女。まるで人魂のように空中で動かない蛍たちに囲まれて、白い影が微かに浮き上がる。
「ごめんね、ソウくん」
僕を見て、彼女は頬に笑窪を作って申し訳なさそうな顔をした。
「どうして……?」
僕のどうしてには様々な感情が詰まっていた。どうして僕の前から消えたの? どうして嘘をついたの? そしてどうして先輩は時間の狭間に取り残されてしまったの? それらすべてを包み込むように先輩は語り始めた。
「私が綾野夏帆としてソウくんの前に現れてしまったら、ソウくんが私のために砂時計を使うと思ったの。だから最初はヨスガという人物になりきろうとした」
星明りに次第に目が慣れてきて、綾野先輩の大きな瞳が潤んでいるのが分かった。
「でも出来なかった。ソウくんを前につい弱音が出て、花火大会の日、ずっと黙っているつもりだった時間停止の秘密を私は喋ってしまった。どこかでソウくんなら私を助けてくれするんじゃないかって甘い考えがあったんだと思う。水族館での告白の後、ソウくんは私のためにいろんなことをしてくれた。時間の狭間に取り残されてしまった私が絶対にできないことを。本当に嬉しかった」
「じゃあなんでずっとヨスガのままだったの? もっと早く打ち明けてくれてたら僕は……」
「私を助けようとする。そうでしょ?」
僕の言葉に被せるように綾野先輩は言った。僕は静かに黙って頷くことしかできなかった。
「ソウくんがもし昔のままだったとしたら、私をこの呪われた運命から解放するために動くことくらいはわかってた。でも悲しいことに私が助かる唯一の方法は、ソウくんが犠牲になってしまうものしかなかったの。だから私はヨスガという別の存在を演じ続け、ソウくんが私を開放しようとすることなく夏休みが明けるのを待ってた。まあ結局、観覧車の中で言われてしまったのだけど」
先輩の言葉が棘を持って胸に刺さった。一か月ずっと一緒にいたはずなのに、やっと会えたかのような感覚を僕は抱いていた。そしてその感覚は嫌悪感となって胸から湧きだした。
「先輩が助かる、唯一の方法って?」
「ソウくんがルールを破って罰を受け、観察官になること。観察官は定員が1名と決まっていて、前任者は解放されるの。あべこべになった時間の速度を戻して、元の世界に返される。もちろん砂時計のことは忘れてね。
ただし、次の観察官の任期は実験者がルールを破って罰を受けるまで。つまり永遠に解放されない可能性だってある。本当はこんなことなんて話したくはなかった。ソウくんに残酷な選択をさせることになっちゃうでしょ。私の自由か、残りの人生か。なんて」
ヨスガと名乗る前にこの話をされていたのなら、僕は綾野先輩を助けると即答したはずだ。でも今は躊躇していた。沙綾や小林たちの顔も浮かんで、本当に残酷な選択になった。心の天秤が揺れに揺れた後で、わずかに片方へと傾いた。それは詩帆先生の寂しそうな横顔に、谷川さんの助言が重なり、最後に永遠性への憧れが小さく載った皿だった。
「僕がどっちを選ぶかくらい、先輩もわかるでしょ?」
「……うん、ソウくんは私のヒーローだもんね」
硬直した天の川の下、僕らは小さく抱き合った。先輩の体は小学生の時から成長が止まってしまっており、本当に小さかった。肩まで伸びた絹のように柔らかい髪を僕はなぞるように撫でる。時は止まっているのに、どうして別れがやってくるのだろう。二人だけしかいないのに、どうして分かり合うまでにこんなにも時間がかかってしまったのだろう。沸々とわいてきた疑問は、僕らが変化を求めずに生きてきた証なのではないかと悟る。このまま二人で、死ぬまでこうして居られたら、僕はどれほど幸せなのだろうか。満点の星空と僕らを囲む蛍たちが、この日を忘れないように祝福する。世界の時間の速度がこのままあべこべになってしまえばいい。そう思う僕はわがままな人間なんだろうか――。
光が散って一人になった時、僕は膝から倒れこんで蛍の姿を目で追っていた。
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