6年越しの告白
「え? ごめんなさい、誰でしたっけ?」
女性は戸惑った顔をした後、申し訳なさそうに手を顔の前で合わせた。
「綾野先輩……ですよね?」
「はい、綾野ですけど」
「あの、小学校の時お世話になった、佐々良蒼汰です」
「ごめんね。記憶力には自信があるんだけど。ちょっと待ってね、今思い出すから」
苦しそうに右上を向いて必死に思い出そうとする姿を見て、僕はどす黒い不安が、胸の期待を塗りつぶしていくのを覚える。綾野先輩は僕のことなんか忘れてしまったのだ。僕にとって特別だった彼女も、彼女にとっては特別でもなんでもない。あまりのショックに足がふらつきそうになる。
「あ、詩帆先生。おはようございます」
僕らが問答を交わしていると、廊下から歩いてきた絵空が女性に向かって話しかけた。
「あら小茂田さん。おはよう」
「病室がわからないかもと思って、迎えにきました」
「わざわざありがとう。ごめん、ちょっとだけ待ってもらえる?」
彼女はそう言って僕の顔をまじまじと見つめる。
「先生、どうしたんですか? それに沙綾ちゃんのお兄さんも」
状況が飲み込めない絵空が、困り顔で僕らを交互に見た。するとそれを聞いた女性がひらめいたように手をたたく。
「あ、わかった! 沙綾ちゃんのお兄さんね。ごめんなさいね、忘れてて」
と軽快に言い放ったあと、叩いた両手を唇の前で合わせて
「……って、どこかで会ってましたっけ?」
と怪訝そうな瞳をむけた。
「綾野……詩帆、先生……ですか?」
ショックでふらつきそうな足をぐっと力を入れて、僕は尋ねる。
「はい。私、写真部で顧問をしています、
人違いだった。僕は先ほどまで心にあった黒い渦が、杞憂に終わったことにひとまず安堵した。綾野先輩が僕のことを忘れることなんてない。根拠がどこにもない自信が湧いてきた。
しかし同時にある疑問も沸き上がってきた。人違いにしては顔が似すぎている。端正な目鼻立ちに、大人っぽい横顔。雰囲気も綾野先輩そのものだ。僕は頭の中で最も大切な場所にしまってある、先輩と過ごしたあの夏の日を引き出す。
《「今日はお母さんも姉さんも出かけてるの」》
記憶の中で綾野先輩の言葉がヨスガに似た声で再生された。
「も、もしかして綾野夏帆さんのお姉さんですか?」
僕が恐る恐る訊くと、詩帆先生は驚いた顔をした。
「そうだけど……」
そしてもう一度、顔の前で手をたたく。
「あっ、なるほど。私と夏帆を間違えちゃったのね。そんなに似てるのかな、私たち?」
「しばらく会ってなかったので、わからなかったです」
「そっか、まあそうだよね。しかしすごい偶然ね。夏帆がお世話してた後輩の男の子の妹さんを、今は私がみてるなんて」
脇で見ていた絵空が
「そんな関係だったなんて。確かにすごい偶然ですね」
と口をはさんだ。僕は運命のいたずらを確信した。綾野先輩のお姉さんが沙綾の顧問。神様が先輩との再会を後押ししているような気がした。少し怖いが、どんな姿だったとしても先輩と会ってみたい。
「夏帆先輩には小学時代、本当にお世話になりました。先輩は今も元気ですか?」
「……」
突然、重たい空気が流れ、少しして先生の言葉に乗って僕に届いた。
「……ソウタくんだっけ? この後、少しだけ時間空いてるかな? あなたに話さなければならないことがあるの」
「僕、屋上にいるんでいつでも呼んでください」
「ごめんなさいね」
先生は少しうつむいて、絵空のほうを向いた。
「とりあえず、沙綾ちゃんを元気づけにいきますか」
☆☆☆
雲がいつもよりも速く流れていた。杞憂だと思った黒い不安は、さらに濃さを増して僕の胸に居座り始めていた。屋上テラスのベンチに横になって、日本史の教科書をペラペラと捲る。きっととんでもなく悲しい告白がこのあと詩帆先生からあるのだろう。高校生にもなった僕は、彼女の言葉と声の重さからそれを察してしまった。
あまりにも重い不安に雲の流れを止めて、僕はヨスガを呼び出していた。僕が寝ているベンチに腰掛けたヨスガが、何も言わない僕を見つめる。
「どうしたんですか?」
見るな。綾野先輩の顔で見ないでくれ。僕は持っていた日本史の教科書で顔を覆った。文字の海に潜ると、視界は次第に真っ暗になった。
「また兄妹喧嘩ですか?」
しゃべるな。もう綾野先輩の声で僕に話しかけないでくれ。しかし音のない世界でそれは不可能な要求だった。
「ソウタさん?」
ヨスガはヨスガだ。綾野先輩とは違う。そんなことはわかりきっていたが、綾野先輩への深すぎる愛がヨスガをこの姿にたらしめていると思うと、ますます悲しく不安に苛まれた。
僕が黙ったままでいると、ヨスガはもうそれ以上なにも言ってこなかった。ただ彼女の静かな息遣いが、脇にいてくれていることを証明していた。そうして、どれくらいの時間が経ったかはわからない。強く大きな風が吹いた時、ヨスガはもう姿を消していた。僕は教科書を顔に当てたまま、そのまましばらく風に吹かれていた。
砂時計は時間の速度を限りなく0に近づけるだけで、永遠に止まるわけではないのだと、僕は風に混じる秋の匂いを嗅ぎながら感じていた。
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