第5話 龍の眼のひらくとき

 

 龍眼たつのめはただ真っ白に雪が積もった場所だった。

 木立に丸く取り巻かれた、ぽかんと開けた真っ白な空間。この雪が溶けて水源になるということなのだろうか。

 木立の中に残る川の痕跡を一彦と次彦が見つけ出してくれた。二人は長の息子なのだそうだ。

 「蜜月みつき、ここを禊川とするんだ。判るな?」

 主の言葉に躊躇いながらうなずく。

 いや、昨晩説明してもらったし、判るんだけど、でも。

 私に、主を依り代にして、仮の祭主の神霊を結ぶなんて、できるんだろうか。

 主が思いついたのは、みやこ夏越祓なごしのはらえに合わせてこちらでも大祓をするという方法だった。

 京で北の神気を招くのに合わせて、こちらへ南の神気を招く。北の神気を押すのは難しいなら、南の神気を招いて北の神気を南へ押し出そうというのだ。

 もちろん京で行うような効果の強い大祓はできない。それにそこまで強い力である必要もない。要は北の神気の凝りをほぐす事ができればいい、のだけど。

 それでもどう考えてもかなり大がかりな術にはなる。京の月神の役割を果たす祭主たる神霊を結ばなければ、大祓そのものが成立しない。

 そしてその神霊を結ぶのは、私なのだ。

 神霊に感応しない主は、神霊や神気を引き寄せはしても意図して神霊を結ぶことなどできない。主に出来ないなら私がやるしかない。

 集中して、周囲の神気に目を凝らし、耳を澄ませる。

 とても濃い神気だ。やっぱり京の淡海に似ている。神気は主に引き寄せられ、さらに煮詰まるように濃く渦を巻く。

 その濃い渦を巻く神気をそっと引き出し、薫餌くのえを芯に結ぶと小さな鳥が現れた。

 うん、覚えてる。

 「うわ…」

 ちょうど主の方へ向かってきた次彦が小さく叫んだ。

 「何もないとこから鳥が…」

 京以外では式でさえ珍しいとか言うから、ちょっと驚かせてしまったらしい。

 薫餌をさらに与え、鳥を名付ける。

 依緒音いおねと声に出さずに呼ぶと、長い尾羽が伸び、鳥の輪郭がはっきりとした。名は神霊の存在を補強し、その性質を確定させる。

 依緒音は媒だ。主を芯により強い、祭主の勤まるほどの神霊を結ぶための。

 主は私の肩にとまる依緒音に、ちょっと眩しそうに手を伸ばした。依緒音は神霊に感応しない者にも見えるように結んでいるから、主でも見る事が出来るのだ。そして主のかぐに惹かれる神気から作り上げた依緒音はやはり主に惹かれる。

 依緒音は翼を羽ばたかせ、私の肩から主の肩に移った。

 主は依緒音を肩にのせたまま、次彦と一彦が示す川の痕跡を改める。方角を確かめながら印の杭を打ち込ませ、仮の禊川としての形を整えた。

 「これで龍眼が開くのでございますね。」

 意外に広さのある川を、一彦と次彦が他にも若者を指揮して雪から掘り出してゆく。川は確かに真っ白な龍眼(たつのめ)から唐突に始まっている。

 「そうだ。」

 言っているほど主は自信に満ちてはいないはずだ。だって大祓を京以外でやるなんて聞いた事が無い。ただ、今は自信のあるような顔をしておくよりないだけだ。

 あの厳しい龍眼の長に、龍眼を開いて見せると言ってしまったのだから。




 私と日吉に策を教えた次の朝、雪のちらつく中を主は私を連れてたちの母屋に向かった。

 静かな離れと違い、母屋は活気に満ちている。朝から郷人の出入りが絶えない。主は当たり前のように、一番人の多い一角に向かった。

 そこは龍眼の長の居間だった。雪が降っているというのに、人の出入りのためか戸口も明かり取りも開け放されている。

 「邪魔をする。」

 召人が慌てて円座を運んできたのに、ゆったりと腰を下ろす。私はすぐ後ろにとりあえず控えた。床がちょっと冷たい。居間で何やら作業をしていた人々が、慌ただしく退出しようとする。

 「さすがはがしらの龍眼の長だ。雪の降るのに朝から戸もたてておらんとは。」

 主が言うと、長はちょっと口の端を上げた。

 「もし冬なら今朝など暖かい方でございますよ。宮様にはお寒いなら、戸を立てて火桶を運ばせましょうか。」

 実際に、離れには火桶が焚かれている。だって本当に寒いのだ。

 「いや、そろそろ夏越の月も終わるのに、火桶でもなかろう。龍眼の長よ、龍眼の開くのを見たくはないか。」

 主に譲り、長の居間から下がりながらもちょっと騒がしかった周囲がしんとしが。

 長の視線が鋭くなる。

 「煌族といえどもそのお言葉、戯れではすみませんぞ。」

 龍眼郷の至宝に関わるという龍眼に、きっと触れられたくはないのだろう。煌族といえども他族には違いない。

 「戯れなど言わぬ。私は煌族の輝宮(かぐのみや)だ。今年、龍眼(たつのめ)を開く事ができるのは私だけであろうよ。」

 できるだけ何くわぬ顔で座っているつもりだけど、心臓がバクバクする。なんだか変な汗もかいている。主ってばあんなにはったりをかましちゃって大丈夫なんだろうか。なんと言っても主は残念輝宮なのだ。

 「…煌族の祀りであれば龍眼を開くことができると?」

 「もちろん。」

 ピンと音がするほどに空気が張りつめた。

 動きかけたまま固まっている人々も、息を潜めて二人を見ている。

 「私が今上より仰せつかったのは、北の神気の凝りを解くこと。がしらに溜まる神気の凝りを解けば自ずから龍眼も開くであろう。しかしこれ程の神気の凝りを解くためには、術に相応しい霊地がいる。」

 「それが龍眼だと?」

 「そうだ。」

 張りつめたまま主と長は対峙しする。長に向かい合う主はきっと、小憎らしいほど余裕があるように見えるだろう。それが単なるはったりだと知っている私としては生きた心地もしない。不本意な事に私はそのはったりに目一杯巻き込まれている。

 「もちろん龍眼の族にそれがなし得るなら手は出さぬ。北の神気のみならず龍眼(たつのめ)の金蓮華は京(みやこ)にとっても貴重な薬種。手をこまねいて不作に甘んじる事を良しとはせぬ。」

 龍眼の族が自力で龍眼を開けるなら、とうにやっていたはずだ。それを手をこまねいて金蓮華の不作を招けば責任問題だぞと言っているのだ。

 主ははったりの上に恫喝までのせている。はっきり言ってすごく感じが悪い。本当に大丈夫なんだろうか。

 長の視線が揺れる。

 「一彦と次彦を呼べ。」

 長の言葉に一人が動き、驚きの速さで一彦と次彦が現れた。

 「親父どのお呼びか。」

 一彦と次彦は、案内をしてくれたあの一彦と次彦だった。

 「宮様を龍眼にお連れせよ。お下知に従って動くように。龍眼を開いて下さるとの仰せだ。」

 静寂がどよめきに変わった。




 やると決めた以上、龍眼の長は果断だった。

 一切惜しむ事なく、全て協力してくれた。

 郷の宝物である石帯さえ、貸し出してくれたのだ。主が持ってきていた石帯にろくな黄玉がついていないという理由で。

 たった数日の間に用意すべき品、準備するべき手はずが無数にあった。

 禊川に張り渡す注連縄。

 川底に敷きつめて渡り場を示す青菰。

 渡り終わりにくぐるべき茅輪。

 祀りは夜に行うので、松明も必要だ。

 鈴を鳴らす女達と、その女たちのならすべき鈴もかき集めなければならない。

 鈴女は京では采女が果たす役割だが、昔采女であったという初音どのという女性が次第を諳んじていて、鈴女に次第を教えるのを引き受けてくれたのは助かった。主も私もその部分は一番うろ覚えだったのだ。

 日吉はそもそもかんなぎではないから、知っているはずがない。それでも次々と集められ、作り上げられる祭具の管理などを引き受けてくれた。

 私は牟呂梅を使った薫餌くのえを使う事にした。残念ながら月は細くなる時期だが、依緒音と一緒に毎夜月光を浴びさせ、その神気を取り込ませる。

 本来なら祭主は月神の役割なのだから、少しでもその神気を取り込んでおきたかった。

 準備は多く、時間は少なく、目の回るほどに忙しかったけれど、それで良かったのだと思う。考える時間があったら、自分がやらなければならない大それた術への不安に耐えきれなかったかもしれない。

 眠りにつく一瞬などに不安は必ず浮かび上がってきたけれど、疲れすぎていたせいか、悩む前にいつも眠ってしまった。

 


 

 まず糊のきいた葡萄染の切り袴。そして白い表袴。

 袙は白を重ねた晴装束で、さらに真っ白な綺で仕立てられた白衣びゃくえを纏う。

 ちょっと分不相応に華やかな白地に金銀の刺繍を入れた帯を締め、いつもの釣り香炉を吊す。肩には依緒音をとまらせる。

 この帯も主の石帯と同じく借り物だ。鈴女をまとめてくれている初音どのが貸してくれた。

 「しまいこんでいるだけの帯ですもの。どうぞ使ってちょうだい。」

 初音どのは四十にはなっていまいという年頃で、もと采女というのも納得できる優美な女性だ。前にあとりたちが言っていた、みやこから戻ってきた采女というのがきっと初音どのなのだろう。

 時々、主を見つめている事があるのは、昔を懐かしんでいるのだろうか。主も初音どのを眺めていた事があるのは、まさか食指を動かしているわけではないと思うのだけど 

 初音どのを始めとした鈴女たちも白い晴れ装束をまとい、かき集めた鈴を手にしていた。

 直接祀りに加わらない郷人も、館のまわりに集まっている。

 最後に主が輝宮の正装に身を包んで現れると、場がどよめいた。

 赤い大口の上に真っ白な表袴を重ね、やはり晴装束の白い袙に長く裾を引く丈長の白衣びゃくえ。長い髪は半髷にして、冠を被っている。

 美貌の主にはこの正装がよく映えた。腰に巻いた石帯に煌めく黄玉もあいまって、じつに神々しく美しい。

 龍眼の宝物である石帯は黒革に金糸で刺繍を施した上に、見事な大ぶりの黄玉をいくつも配した絢爛な品だ。黄玉には裏側から花や蝶が彫り込まれ、まるで黄玉の内に封じ込まれているようにも見える。

 「参りますか。」

 一彦と次彦も白い衣装をまとい、一行を先導する。木立を抜け、川岸に作った場につく頃には、すっかり日が暮れていた。

 闇夜に松明があかあかと燃え、薫餌の香が辺りを満たしている。

 少し離れた木立の中から、龍眼の長も場を見守っているのがわかった。長もまた祀りが成功する事を願っているのだ。

 私は依緒音に薫餌を与え、主の肩に移した。

 釣り香炉にも薫餌をくべ、深く呼吸をする。

 今宵は主も口中に私の薫餌を含んでいる。だから主にもきっと私と同じように、龍眼の神気が見えているはずだ。薫餌を他人に食べさせるのには抵抗があるが、仕方がない。

 神気は濃い。とても濃い。

 整えたお膳立てが功を奏しているのか、主の煌に龍眼の濃い神気が引かれている。私は神気を手繰り、依緒音を媒に主に絡みつかせてゆく。

 結べ、結べ、結べ。

 主の煌に神気が絡み、かりそめの神霊の形を取り始める。

 主に、神霊が宿る。

 上手くいった?

 上手くいった!

 主が歌い、舞い始める。本来は神霊と舞う合舞だが主は今、神霊をも宿しているので一人で舞う。神霊はほのかな人形ひとがたをとり、主の体の形に添う。

 鈴女たちが揃って鈴を鳴らす。

 神霊にほとんど感応しない主だが、舞いや歌で神霊を喜ばせる事は決して苦手ではない。それどころか主が歌い、舞えば人も神霊も全てを惹きつけてしまう。だからこそ主は人前では滅多に舞わない。

 薫餌を通じて主の煌に、かりそめの神霊に、自分が同調してゆくのを感じる。

 煌に惹きつけられ形を結んだ神霊は、その雛形である月神を映す。。

 舞いにかすかなゆらぎがうまれ、それから静かに定まってゆく。

 京では月神と今上が舞っているのだ。

 龍眼と京の祓えが同調する。

 京は北の神気を招く。

 龍眼は南の神気を招く。

 固い。

 北の神気があまりに固い。

 それでも京の招きは神気を細く綻ばせてはいるが、細すぎる。

 そして主の招く南の神気は北の神気に阻まれている。

 もう少し。

 もう少し強く招く事が出来れば、そして南の神気を北の神気の凝りの中へ引き込む事が出来たなら、京の招きにも、もっと神気が動くのに。

 主の煌が強くなる。私も薫餌を通じて主を助ける。

 もう少し、もう少しだけ助けてほしい。もう少し神霊を強くすれば、きっと南の神気を招き込める。

 主が禹歩を踏み始める。

 青菰を渡って対岸へ。茅輪をくぐれば大祓は終わりだ。

 招く、招く、招く。

 鈴の音はゆるく、主の歩みも遅い。

 きっと京でも禹歩が始まっているだろう。

 固い、固い北の神気に、主の招く南の神気がぶつかる。

 京から北の神気が招かれる。

 招きあい、引き合う力が、固く凝った北の神気を揺らそうとする。

 ぴん、と神気が張りつめる。

 張りつめて、動かせない。

 無理だったのか。そんな言葉が頭を過る。

 いや、主は禹歩を踏んでいる。禹歩を踏みながら招いている。

 私は薫餌くのえをさらに取り出し、龍眼たつのめにばら撒いた。

 普通、他族の霊地に手を出すべきではない。今こうして祀りを行っているだけでも本来なら大変なことなのだ。だからこそ主は場所がわかっていながらも長の許しの出るまでは木立の中に踏み込まなかったし、龍眼たつのめそのものには今も踏み込んでいない。

 自分の薫餌くのえを他族の霊地に蒔くなど決してやってはいけない事だ。薫餌くのえというのは他の生き物を寄せ、従えるためにつかうものなのだから。

 でも、今、やらなくて後悔するぐらいなら、きっとやって後悔する方がいい。

 薫餌くのえが龍眼たつのめの神気をさらに寄せる。主の煌かぐに絡みつかせる。私が龍眼たつのめほどの霊地を従えられるはずはない。それでもいくらかの神気を寄せる事はできる。

 もう少し、南の神気に届くほどに、あと少し。

 青菰の上を、主が半分ほども進んだとき。

 ふつり、と音がしたように感じた。

 主が宿す神霊が強く光り、長く空へと伸びる

 「龍?!」

 誰かが叫ぶのが聞こえた。

 もしかしたら叫んだのは一人ではなかったのかもしれない。

 闇夜にもはっきりと、南から雲が流れこんで来るのが判る。

 龍が、雲を呼ぶ。

 龍の叫びが北の神気の凝りを解き、南から雨雲を呼ぶ。

 ぐるり。

 南北の神気は渦巻き、混ざり合う。

 とん。

 天から降り落ちたものが、青菰の上ではぜた。

 とん、とん、とととと…

 雨だ。暖かな雨が降り注ぎ、辺りに積もる雪を溶かし始める。

 降りしきる雨は何よりも、真っ白な龍眼たつのめに劇的な変化をもたらしていた。

 ふち側から雪が消え、金色の水面が現れる。

 金色の水は川へと注ぎ、禹歩を踏む主の足下を濡らした

 主は龍を宿したまま、なおも禹歩を踏む

 主の足が岸にかかり、そのまま這うように茅輪をくぐった。

 あ、もう無理だ。

 主と自分の限界を悟る。

 龍とは世界の最初に結んだ神霊であり、この国の礎だ。そんな形に結んだ神霊を、人が長く寄り付かせておけるはずがない。

 薫餌くのえを用いて主に神気を寄り付かせ、神霊を結んだのは私だ。その神霊を龍という強すぎる形にしてしまったのはおそらく主だが、私も当然巻き込まれている。

 茅輪をくぐった主から抜けた龍が天へ上り、主がその場に倒れこむ。

 同時に私は、視界が白くなるのを感じた。強すぎる神気の余波で頭がぐらぐらする。

 「龍眼たつのめがひらくぞ。」

 その叫びを最後に、私は意識を手放した。






 




 




 




 








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