第19話 暗雲垂れ込める部屋-1

佳亮が薫子と過ごす時間は、元の食事を作り、食事を共にするスタイルに戻った。卵割りチャレンジの時間が無くなったからだ。


「佳亮くんがお料理してくれる時間を邪魔するのは悪いから」


そう言って、薫子はオムライスづくりを実家で習うという。佳亮が来ない週末に、実家に帰って練習しているらしい。教え子が練習熱心なのは感心するが、薫子が自分の知らない所で料理を習っているのを、佳亮は心もとない気持ちで受け止めていた。


(何を師匠ぶってんねん…。俺に習うより、あのお屋敷のシェフに習ったほうが完璧や…)


佳亮はそう考えて、薫子の料理について考えることを止めた。


「卵って、平らな場所に卵の中央を軽く打ち付けてヒビを入れると、卵液に殻が混じらないのね。平田に教えてもらったわ」


「角に打ち付けると、殻が卵液に入り込んでしまいますからね」


先週もオムライスづくりに勤しんだ薫子が楽しそうに話す。平田と言うのは、薫子の実家のシェフらしく、薫子の口からよく名前が出るようになった。佳亮は平田に習ったコツを楽しそうに話す薫子を複雑な思いで見ていた。


薫子の挑戦はどんどん続く。


「フライパンに油を入れる量が多くて、ご飯がべとべとになっちゃったのよ。焦げるといけないと思ってたくさん入れたんだけど、油ってほんの少しで良いのね。知らなかったわ」


「玉子焼きがどうしても黄色と白のまだらになるのよ。上手にかき混ぜてないからだって言われたけど、どうしても上手にかき混ぜれないの。平田に聞いたら、卵液を切るように混ぜるんだって言ってたわ。切るようにって難しいわね。ハサミで切れたら良いのに」


「ご飯がきれいに赤にならないの。お米の塊を全部潰すようにって言われたけど、そうやってるとどんどんお米が焦げちゃうし、ケチャップライスって難しいのね」


等々、薫子の奮闘話は手指の傷とともに絶えることがない。その度に親身にうんうんと聞いているのが辛くなってきた。返事が相槌だけになり、その相槌さえも疎(おろそ)かになっていった。


ある日の食事中、何時ものようにオムライス奮闘記を語る薫子が不意に佳亮に尋ねた。


「佳亮くん。……私の話、煩い……?」


首を傾いで、佳亮を見る薫子は新しい経験を親に話したくて仕方ない子供のようだ。はっとした佳亮はすかさず微笑んで、そんなことないですよ、と返事をした。


「でも……、最近あんまり話に乗り気じゃないように見えるし……。もし煩かったら」


「薫子さんの話で、煩いことなんて、ありませんよ」


にこりと笑って。


そう。薫子の話で煩いことなんてない。それは本当だ。薫子が佳亮と共有しようとしてくれる全てのことが嬉しい。それなのに胸の内にあるこのもやもやとした気持ちは何なんだろう。


食べ終わった食器を引いて洗い始める。この頃薫子は食器を引くことを手伝い始めていて、佳亮がスポンジで皿を洗っているところへ自分の使った食器を持ってきて、そして横から佳亮の顔を覗き込んだ。


……まるで、佳亮の機嫌を窺うように。


佳亮は口許に微笑みを浮かべて食器を洗っていた。薫子の為にしてあげられることは、何でも楽しい。美味しいと言って食べてくれる食事の支度も片付けも。ただ、実家での話だけが、佳亮の気持ちを締めつけていた。


「じゃあ、また二週間後。戸締りしっかりしてくださいね」


「うん、今日もありがとう」


見送ってくれる薫子の顔には元気がない。佳亮の気持ちの揺れが、薫子の顔を曇らせているのかと思うと、佳亮は辛かった。


自分は、薫子の傍に居て良いのだろうか。薫子には以前のように屈託なく笑っていて欲しい。佳亮が少しでもそれを出来ないのであれば、自分は薫子から距離を置くべきなのではないか。そこまで一気に考えが加速した。


それでも、薫子がどう思っているかは分からないが、佳亮は気持ちのもやもやを抱えていたとしても、薫子と会って、一緒に食事をすることが諦められなかった。薫子に、会いたかったのだ。


薫子にあんな風に寂しそうな表情をさせるのであれば、本当だったら佳亮は会わない選択をすべきだった。


(……でも、こんなに楽しい食事の時間は久しぶりやったんや……。それは、無くしたない……)


食事を作って喜ばれたのは、弟妹の食事を作っていた頃以来だった。大人になって遠ざかっていたその時間が再び出来た喜びを、佳亮は無くしたくなかったのだ。


(俺は、ご飯作るのが、楽しい。薫子さんは、それを喜んでくれはる)


その気持ちだけで、佳亮は薫子の部屋を訪れた。薫子は佳亮が部屋を訪れると喜んでくれて、食事も美味しく食べてくれて、でも、会話だけが弾まなかった。


「あのね、この前……、あ、ううん、なんでもない」


薫子は、佳亮が応えようとする前に言葉を封じた。


「あ……、すみません、どうぞ」


佳亮が話を促しても、薫子は首を振った。


「ううん。大したことじゃないの!」


両手を顔の前で振って、薫子は笑った。しかしやはりその笑顔は何処か弱い。俯きながら食事をする薫子を痛い気持ちで佳亮は見る。寂しい顔をさせてしまった後悔が、胸の中に苦く広がった。


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