第4話 お味はいかが?-1
翌日。自分の住むマンションの道路を隔てた向かいのマンションの八階にある薫子の部屋を訪ねた。よくよく考えてみたらまだ会って二回目の(そのうち一回は目を合わせただけだ)女性の家を訪ねるなんて非常識だったが、玄関を開けた薫子が頓着しない笑顔で出迎えたので、佳亮は少しほっとした。
「まあ、入って、入って。なにも出せないけど」
「あ、いえ、お構いなく…」
そう言ったけど、本当に、ペットボトルのお茶一つ出てこない。佳亮がじっとしていると、薫子は冷蔵庫の前でこう言った。
「まあ、私の部屋の冷蔵庫なんてこんな感じなので、材料何を買ってきても入るわよ。何を買う?」
そう言って薫子が手招きをするので、失礼かと思いつつも冷蔵庫を見せてもらう。するとそこには、数本のコーラとビール、そしてエナジードリンクとボトルガムが入っているだけだった。…これは酷い。
「大瀧さん、ご飯は毎日どうしてるんですか?」
佳亮の問いに薫子はあっけらかんと応えた。
「朝はエナジードリンクを飲んでいくわね、仕事だから。で、昼は社食か外食。夜はコンビニで買うわ」
貴方と初めて会った時もそうだったじゃない。そう言って薫子は偉そうに腰に手を当てた。
それ、威張って良いことかな。女の人だったら、そういうの隠しそうなもんだけど。
佳亮の考えに被せるように薫子が言う。
「だから、何を作ってくれても良いし、どんな料理でも楽しみよ」
あっけらかんと薫子が笑って言うので、佳亮は脱力した。
取り敢えず佳亮は薫子の為にカレーを作ることにした。あわよくば一緒に料理をして、薫子が料理をするようになったら良いと思ったのだ。しかし、薫子は頑として部屋に座ったまま動かない。こういう図、故郷(ふるさと)の友達の家でも見たことあったけど、男女逆だったなあ、なんて思う。
「大瀧さん」
台所を見せようと佳亮が言うと、それ、いやだわ、と薫子が苦々しく言う。
「私、名前で呼ばれるのが好きなの。薫子って呼んで」
はいはい、そうですか。ではそのようにします。
「で、薫子さん、ちょっと見てみませんか、料理の仕方。少しでも知っておくと役に立ちますよ」
佳亮の呼びかけにも薫子は応じない。ラグに座ったまま、台所を見ている。
「良いのよ、日々の食事なんてお金を払えば食べられるんだもの。私は佳亮くんと違って食事にお金払えるだけの給料はもらってるから、そこには惜しまないわ」
他に趣味もないし。そう言って座ったままだ。佳亮が薫子に料理を体験させることを諦めて手早く準備を始めると、部屋から拍手が送られてくる。
「すごいすごい! そんなに早くみじん切りが出来るのね。私だったら指切るわ~」
何を自慢げに言っているんだろう。そう思いつつも手は勝手に動く。玉ねぎをみじん切りにし、ジャガイモ、ニンジンは乱切り。肉は角切りにして鍋に油を引く。先に肉に焼き目をつけると同時に旨味を閉じ込め、一旦出す。次に野菜を炒めて火が通ったら肉を戻す。水を分量通り入れてカレールウを投入。ルウは薫子が辛めがいいというので辛口のルウだ。くるくると割り箸で鍋をかき混ぜていると、テレビにゲームをつなげたらしい薫子が一緒にやらないかと声をかけてきた。
「煮込んでるので、そんなこと出来ません」
「なあんだ、つまんない。対戦するのが面白いのに…」
そう言いつつ一人でテレビ画面に向かっている。これでは女性宅というより子供の家だ。
ことことと鍋を煮込んで、漸くカレーが出来上がる。ご飯は薫子が緊急用に買ってあったパックのご飯をレンジで温めた。
器にご飯とカレーをよそって出来上がりだ。添えるのは薫子のリクエストで、スーパーで買った福神漬け。
「出来ましたよ」
そう言ってテーブルに器を出してあげると、薫子は目を輝かせてカレーを見つめた。
「うわあ、すっごく美味しそう! 匂いもたまらない~~!」
「おだてても、それ以上のものは出てきませんよ」
「おだててなんかいないよ! 頂くね」
どうぞ、と勧めると、薫子がひと口カレーを口に含んだ。…実はちょっとだけ緊張しながらその様子を見守ってしまう。いつもだったら料理が出てきたところで、こんなことまで出来るの? と唖然とされたっけ。今日は単純なカレーだから「こんなことまで」とはならないが、それでも作ったものを食べてもらうのは緊張の一瞬だ。
薫子がカレーを咀嚼する。…すると目がとろりと落ちて、口角がにぃっと上がる。
「お、……いしー……」
頬を手で包んで、まるでため息を刷くようにそう言われて、美味しいのは良かったけど、そこまで? と思ってしまった。
「簡単なカレーですから、作ろうと思えば薫子さんにも作れますよ。レシピメモで残しておくので、気が向いたら挑戦してみてください」
佳亮の言葉に、薫子が、いやいや! と首を振った。
「これは! 私の為に、佳亮くんが作ってくれたカレーなんだから、簡単でもなんでも、世界でひと品のものだよ! 美味しい…。肉を噛めばじゅわっと肉汁が口の中に広がるし、ニンジンは野菜の甘みが生きてる。玉ねぎがルーの辛さを引き立てていて、ジャガイモはカレーを吸って美味しく味付けされちゃってる! 憎いくらい美味しいわ、このカレー!」
そ、そこまで? でも今日はカレールウを使ったから、別に手が込んでいるわけじゃない。
「簡単なカレールウのカレーで此処まで盛り上がれる人も珍しいですよね。ブラウンソースから作ったんだったらいざ知らず」
「ぶらうんそーす? とは?」
もぐもぐと、気持ちよいくらいに食べ進めている薫子が、カレーを口に入れたまま聞いた。
ブランソースとは小麦粉をバターで炒めて作った茶色いルウをブイヨンで煮詰めたソースのことだ。フランス料理の基本のソースで、シチューや肉料理に使う。
「へええ! そんなものも作れるの!?」
「時間のある時なら作りますよ。味も調節できるので好みの味が出せます」
佳亮が言うと、薫子は更に、すごおい! と目を輝かせた。
「カレーを好みの味に調節するとか…! 神業!? いや? このカレーも十分美味しいよ!? これで十分じゃない!?」
「…そうですか…?」
佳亮が問うと、薫子は意気込んで、そうだよ! と叫んだ。
「ああ~、カレーひとつでもこの神業…。佳亮くんのご飯が毎日食べられたらもう天国じゃない!? いや、確実に天国だね! 私はそんな、天国に住みたい…! 佳亮くん、佳亮くんの料理は素晴らしいよ! みんなに誇っても良いと思う!」
たかがカレールウのカレーだけで大袈裟だな。でも、久しぶりに人に食べてもらう食事を作って楽しいと思えたかもしれない。
「ありがとうございます、そこまで言うてもらえて嬉しいです。通りすがりの僕にこんなに親切にしてくらはる貴女は、そうとう良い人ですね」
「私? 私はなんにもしてないよ? ただ、佳亮くんの美味しいご飯を食べさせてもらっただけ。でもね、私の言葉で佳亮くんの辛かった過去を塗り替えられたのだったら嬉しいな」
にっこりと微笑む彼女は、確かに佳亮の心の傷にやさしく触れてくれた。それは今までほかの誰もしてこなかったことだった。
「いえ…。僕も久しぶりに人に食べていただける嬉しさを味わいました。本当にありがございます…」
ぺこりと頭を下げる佳亮に、薫子は、ふむ、と呟いて思案顔をした。佳亮は台所を片付け、残っているカレーを明日以降も食べられるように、冷めたら冷凍するよう薫子に伝えた。
「じゃあ、僕はこれで失礼しますね。今日はホンマにありがとうございまし…」
た、まで言い切れなかった。薫子が思いの外真剣な顔で佳亮の腕を引く。
「え…」
「佳亮くん。君のその腕、私が買いたい」
…………。
「は?」
間抜けな声を出してしまっても、おかしくはなかっただろう。
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