第三節
歩き慣れない砂利道が予想以上に体力を削る。予定より大幅な遅れが生じ、焦燥感ばかりが募っていた。
空はまだ明るいのだろうが、森が深くなるにつれて薄暗くなっていく。
リュックから取り出したLEDランタンのスイッチを入れると、青白く照らされた木々が驚いたように枝葉を震わせた。
疲労が溜まり地面を荒々しく踏み鳴らす。
日没までもう時間がない。もうそう遠くへは行けないだろう。
砂利道から垂直に伸びる獣道が目に入り、そちらへ進むことにした。植物の蔦に足を取られながらも黙々と歩いているうちに、テニスコート半面分ほどの平地にたどり着いた。
辺りに人気はない。ここなら大丈夫だろう。
荷物を下ろして木の幹に背を預ける。汗が引いていくにつれ、少しずつ凍えてきた。
リュックから取り出したハンモックを手頃な木に掛けてノートを開く。
今から箇条書きした項目をひとつずつ埋めていくのだ。全てを線で消したとき、ようやくこの世から離れることができる。
目の前にピザとハンバーガー、パンケーキを広げた。目を瞑って手を合わせる。
思えば食事の際に自ら手を合わせることなどなかった。食事というのは栄養を補給するための作業であって、楽しむものだという感覚は極端に薄かったのだ。
気が済むまで黙祷し、ピザをひと切れ手に取ろうとした時だった。
「やぁ、お邪魔させてもらうね」
声の主は肩まである髪を揺らしながら近付いてくる。旅籠屋で見た男性だった。
困惑と不満が綯い交ぜになった俺の心境を知ってか知らずか、男性は平地の中心で野営の準備を始める。
「後をつけてきたんですか?」
「うん。明かりのおかげで遠くからでも君の位置がよく分かったよ」
「どうして追ってきたんですか」
「君の荷物を見たときに、野営できるものは何も持ってないって気付いたからね。私はもう帰る予定だったんだけど、もう一泊することにしたんだ」
余計なお世話だ。ひとりで静かに死のうと思っていたのに、これでは全てが台無しになってしまう。
どうにか追い返そうと言葉を探していると、男性が並べた備長炭に着火剤で火をつけてこちらを見た。
「君さ、自殺しようとしてるでしょ」
図星を指されてうろたえている俺から目を離し、テントのポールを組み立て始める。
「なんとなく分かっちゃうんだよ。私も死のうとしたことがあるからね。私はトランスジェンダーってやつでさ、身体と心の性別が真逆なんだ。それを誰にも理解してもらえなくて、とても苦しい思いをした。いや、している、かな」
テントを張っている間、彼は境遇についての話をした。名前はフミヒロと言うらしい。
喜劇のナレーションのように語ってみせるが、ときおり表情に影がさす。
フミヒロさんは淹れたてのコーヒーを紙コップに注いで俺に渡し、隣に座った。
「最近よく思うんだけどね、人間関係の悩みっていうのは活動地域と属しているコミュニティのふたつが大きく関わってる気がするんだ」
訥々と話すフミヒロさんの言葉で幼少期の記憶が蘇る。
小学生の頃から家と学校を往復するだけの毎日だった。家から真っ直ぐ学校へ行って、授業が終われば真っ直ぐ家へ帰ってくることを義務付けられていた。
家では勉強と家事以外のことは全て遊びとして扱われ、休憩しようと少しの間座るだけでも親の目を気にしていた。
言いつけを守らなければ正座と体罰が何時間も続き、罰として自分が大切にしている玩具が没収されるという恐怖に取り憑かれていたのだ。
ミスをしてしまった時には満点のテストが免罪符になるため、テストだけは必死にこなした。
どこにも寄らず、遊びに誘われても全て断ることを続けているうちに、次第に周囲は俺を敬遠するようになった。
俺にとっての世界は家族と学校だけで構成され、理解者など存在しなかった。言葉で表現することができないうちから、圧力に口を封じられていたのだ。
10歳を越えた頃には学校でもあまり喋らなくなっていて、給食前の時間に配膳に並ばず窓の外を眺めていたら担任の先生に心配されたりしたこともあった。
中学生になっても状況は変わらず、入りたかった部活にも入ることを許されず、ただただ感情を殺すことに徹するようになった。
その頃からだったろうか。俺は本の世界に逃げるようになった。本だけは俺を否定せず、物語を与え続けてくれる。
家で読んでいると「勉強せずに遊んでばっかりいやがる」と言われて拳が飛んでくるのは分かっていたため、学校での休み時間に貪るように読んでいた。
中学では満点のテストでも免罪符にはならなくなり、やる気を失うにしたがって成績が下がっていった。そのことでずいぶんと殴られたものだ。
殴られすぎて歯が口内を抉るたび、俺はわざとらしく咳をして血を吹いた。それがせめてもの抵抗であり、日課になっていた。
親は一切遊びを与えようとしなかったわけではない。ただ、それは勉強の一環であり、俺が望んでいるものではなかった。
たまに俺が望んでいるものを与えようとする時もあったが、どうせまた奪われると分かっていたため口に出すことはなかった。
高校に入り、クラスメイトは俺にある質問をするようになった。
毎週月曜になると、土日に何をして過ごしたのか訊いてくるのだ。
俺は毎回、「勉強と家事をして、それ以外は特別何も」と答えていた。
先々週の月曜、お決まりの返事の後にクラスメイトは笑いながら言ったのだ。「お前、生きてて楽しいか?」と。
俺は何も答えられなかった。何一つ言葉が出てこなかった。
それがきっかけになり、俺は自殺を決心した。
紙コップに口をつけ、苦い液体を啜る。コーヒーを飲むのは初めてだ。禁止を破る背徳感が心地よい。
ほうっと息をつくと、再び色濃くなった吐息が風に揺られて泳いでいく。
俺はフミヒロさんにノートを見せた。一行ずつ丁寧に目を通している姿は、今までに出会った誰とも違った。
ノートを閉じたフミヒロさんが冷めたコーヒーを飲み干す。
「ここまで来る間に、今まで感じたことがなかったものに触れた瞬間はあった?」
「えぇ、ありました。バスに乗っていたら、赤ちゃんを抱いた女の人が入ってきたんです。女の人はずっと謝っていて、なのに周りの人はみんな笑顔になっていって。見たことなかったんです。そんな光景。きっと今までも目にしていたはずなのに、気付いてなかったんです。空の色が変わっていく様子も、花が綺麗に咲いているのも、ずっと間近にあったのに気付かなかったんです」
フミヒロさんは終始頷いていた。ただ優しく微笑んで、両手で包んだ紙コップの縁を撫でていた。
「そっか。とても素敵な体験をしたね。今の君から、この世界はどう見える?」
「...言葉にするのが難しいです。でも、全然違って見えます。ただ感情を抑えていた昨日までとは全く違うんです」
「うん。よかった。君の夢を教えてよ。今までやりたかったこと」
俺は空を仰いだ。感情が涙になって止め処なく溢れてしまいそうだった。
「友達の家に泊まってみたいです。他愛もない話をして、夜通し遊んじゃったりして。あと、友達と花火大会に行ってみたいです。出店で買い物して、ゆっくり花火を楽しんで、綺麗だねって笑い合えるような。そういう...ことが......」
堪えきれなかった。言葉にしようにも、嗚咽ばかりを繰り返してしまう。
無駄なことだと言われようと、そればかりを夢見ていたのだ。考えないようにしていても、どうしても頭から離れてくれない。
幼い頃の自分と別れられなかった。時が止まってしまったように立ちつくすこの心を、嫌いになりきれない。
いっそ責めてくれれば楽なのに。お前は駄目な奴だと罵ってくれれば楽なのに。
どうしてこんなにも優しい目をしているんだろうか。
「君の願いはちゃんと叶うよ。楽しみにしておくといい。私の好きな言葉」
俺は声が枯れるまで泣いた。言葉にならない言葉で、形にならないものを精一杯叫んだ。
目が覚めたときには既に日が昇っていた。
テントから出るとフミヒロさんが「おはよう」と言って、焚き火の上に鉄瓶を乗せた。
枝葉の隙間から光が目をつついてくる。
リュックからノートを取り出し、木の幹に背を預けて座る。箇条書きした項目を線で消し、全てがきれいに無くなった。
受け取ったコーヒーを啜るたびに枯れた喉に滲みる。それがなんだか心地よかった。
野営の片付けをするフミヒロさんの様子を眺めながら、再びペンを手に取る。
この気持ちを語ったところで、「そんなことで悩んでいたのか」「どう頑張っても解決できない人もいる」と返されるのは目に見えているので、野暮なことをするつもりはない。
ひとつ言えるのは、たった一度の言葉が人を救うこともあるということだけだ。
とにかく俺は、これから叶えていく夢を。
死ぬまでリストを書いている。
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