雨になれたら

いちや

雨になれたら

 雨は嫌いだ。傘をさして歩いている拓人はそう呟いた。

 今年は梅雨が長引いている。これも異常気象だろうか。

 並んで歩く祐菜が頷いた。

「そうだねぇ。服が濡れるし、足を滑らせやすいし、ジメジメするし。くせっ毛には辛いよ」

 髪をひと房つまんで毛先を揺らす。言葉の通り、祐菜の髪はいつもより強く巻いていた。

「でも私ね、少しだけ雨が好きなんだ」

 華奢な指が傘の外に伸び、手のひらの上で雫が跳ねる。

「ふーん。物好きだね。なんで?」

「本降りの時に傘さしてるとさ、大きめの声で歌っても周りに聞かれないでしょ?もし近くに人が来ても傘で顔を隠せるし」

「あぁ、確かにカラオケみたいなもんか」

「そうそう!歌い放題!」

 上機嫌で鼻歌を歌い始めた祐菜を尻目に、コンクリートで固められた坂道を下っていく。

 ふたりはショッピングモールへ向かっていた。拓人は車で行きたかったのだが、祐菜の提案で20分ほど歩くことになった。

 デニム生地の裾が雨を吸って濃く暗い色に染まっている。

 珍しく祐菜から提案を受けたので断らなかったものの、不快さ故に気分はあまり良くなかった。

 ショッピングモールに着いて店を見て回る。特段気になるものは無かったが、祐菜が終始楽しそうなのが嬉しかった。

 買い物を済ませ、袋を抱えて帰路に着く。いつの間にか雨は止んでいたようだ。

 エンジ色に染まった坂道を抜け、泥濘んだ砂利道を歩く頃にはすっかり日が暮れていた。

 携帯電話のライトで足元を照らしながら歩を進めていると、右手に蜜柑畑が見えてきた。

 祐菜の祖父母が管理していた果樹園だ。

 両親のネグレクトにより祖父母に育てられたと、以前祐菜は語っていた。

 就職を機に恩返しをするつもりだったものの、その半年前に祖母が他界。再来月に三回忌を迎える。

 祖父は伴侶を失ってからも単身で蜜柑の栽培と出荷作業を続け、昨年末に倒れた。

 拓人は祐菜に頼まれて老人ホームに入居する為の身元引受人になっていた。

 その際、一度だけ顔を合わせたことがある。背中を丸めて車椅子に座る姿は一見すると弱々しいが、皮の厚く固まった両手がかつての頑強さを物語っていた。

 祐菜が果樹園にライトを当てる。後継のいないこの土地は、そう遠くないうちに手放さざるを得なくなるだろう。

 祐菜はじっと木々を見つめ、息を細く吐きながら目を瞑った。

 この道を通ると必ず立ち止まるのだ。どんな理由があるのかは聞かないようにしていた。

 今日はいつもより長い気がする。拓人が心配になって声をかけると、「大丈夫、ごめんね。行こっか」と言って再び歩き始めた。

 煩いほどに騒ぐ沈黙を振り払えず、ひたすら足を動かしているうちに祐菜の家に着いた。

 月光に照らされて家の輪郭が浮かんでいる。

 いつ見ても立派な日本家屋だ。瓦葺きの屋根が物言わず空を支えているような錯覚に陥った。

 短い言葉を交わし、次に会う約束をした。祐菜が手を振って家の中へ入っていく。

 ゆっくりと背を向け、薄く拡がった雲の隙間から覗いている月を見上げた。

 祐菜の境遇は聞いている。だが、果たしてどれだけ理解できているのだろうか。

 見えている部分と、見えた気になっている部分と。どちらの方が多いのか拓人は答えが出せない。

 離れまいとする気持ちを振り払うように、一度大きく頭を振ってから歩き出した。



 ようやく梅雨が明けた。

 拓人の自宅の前に咲いている紫陽花が朝露に濡れ、青々とした葉と桃色の花弁を惜しみなく広げている。

 久々に自転車で通勤しようと思い、玄関の外に出て大きく伸びをした。雨で洗われた空気が身体を満たす。

 今日はいい日になりそうだと呟いた。拓人の勘は外れやすいと祐菜に言われたことがあったが、今回は当たるような気がしていた。


 それが気のせいだと分かったのは、仕事から帰宅して本を読んでいた時だった。

 携帯電話がけたたましく鳴り響き、拓人の肩が跳ねる。画面には祐菜の名前が表示されていた。

「もしもし、どうかした?」

 いつもの調子で声をかけ、同時に違和感を覚える。

 荒い息遣いと嗚咽。何度も扉を叩くような音。聞き慣れない怒声。

 状況が飲み込めず固まった拓人の耳に、短い言葉が飛び込んだ。

「拓人...。助けて...」

 弾かれたように立ち上がり、車のキーを掴んで家を飛び出した。運転席に乗り込みキーを鍵穴に差し込もうとするが、手がもたついて上手くいかない。

「焦るな、落ち着け、落ち着け」と繰り返しながらエンジンをかけ、走り出した。

 車道に出て携帯電話を確認する。通話は繋がったままになっていた。祐菜に現在地を訊ねると、自宅にいるとのことだった。

 アクセルを踏み込む。景色が吹き抜けていき何度か背筋が凍った頃、祐菜の家に到着した。

 見知らぬ車が停まっている。半開きの玄関から屋内に飛び込んだ。

 真っ直ぐ伸びる廊下の先で、中年の男女が叫んでいた。祐菜の部屋のドアを何度も叩き、ドアノブをガチャガチャと鳴らし、品のない罵倒を繰り返している。

 拓人は全身の毛が逆立つ感覚を覚えた。この光景の意味を理解していた。

 あれが、祐菜の両親なのだ。

 靴を脱ぎ捨てて板の間に上がる。ずんずんと大股で歩み寄りながら、思わず怒鳴っていた。

「あんたら何しに来た!」

 思わぬ来訪者の怒声に呆気に取られた両親とドアの間に割って入る。

 母親が顔を歪め、嫌悪感を露わにした。

「あんたこそ誰?不法侵入で警察呼ぶよ」

「呼びたきゃ呼べよ。ここは祐菜の家だ。娘を捨てて出て行ったくせに都合良く親面すんな!」

 みるみるうちに鬼のような形相になっていく両親を前に、拓人は一切引こうとはしなかった。

 目の前のふたりの目的が分かってしまっていた。通話を通して両親の言葉を聞いていたのだ。

 今朝方、祐菜の祖父が亡くなった。遺品の中には遺言書があり、祐菜に全ての財産を譲る旨の記述があった。

 それ故に、両親は祐菜に相続放棄させたいのだ。様子を見る限り、随分と前から狙っていたのだろう。

「不法侵入は親族でも適応されるんだよ。今から警察呼んで訊いてみるか?その場合は脅迫されたことも伝えさせてもらう。祐菜が会話を録音してるぞ。言い逃れは出来ないからな」

 言い終わる前に母親が拓人の胸ぐらを掴んだ。父親が即座にその腕を外す。

「お前の顔、覚えたからな」

 父親が拓人の目を覗き込む。ぎょろりとした目が爬虫類を彷彿とさせた。

 歯軋りの後に視線を外して玄関に向かっていくのを、母親が慌てて追いながら拓人に罵声を浴びせる。

 ふたりは拓人の靴を蹴り、側溝の中に落として帰っていった。

 


 葬儀は祐菜のみで執り行った。

 葬祭場へ迎えに行くと、祐菜は「安らかな顔だった」と言いながら明るく振る舞った。今日はいつもよりもよく喋る。

 拓人はどんな言葉をかけていいのかも分からず、ただ相槌を打っていた。

 祐菜の家の前に車を停め、車内がしんと静まり返る。

「この間ね、おじいちゃんの具合が悪くなってきたって連絡もらったの。すぐに会いに行ったら、ちょっと疲れたような顔してて。でも、まさかこんなに早いとは思わなかったなぁ」

 悲しそうな声で無理に笑ってみせた。

「うん...そうだね」

 気の利いた台詞が出てこない。何か言いたいことがあるのに、その輪郭を掴めないのがもどかしかった。

「明日、また会いに来るよ」

 祐菜が小さく頷いて「また明日ね」と言いながら車を降りた。

 

 翌日は朝から土砂降りで、祐菜の心の内を表しているようだった。

 仕事帰りに祐菜の家へ来たものの、明かりがついていない。電話を鳴らすと家の中から音がした。

 焦燥感が募る。何か良くないことが起きている気がした。

 祐菜が行きそうな場所を必死に考えた。最悪の事態を頭から追い出そうとするが、そればかりがぐるぐると巡ってしまう。

 ふと、果樹園の前で立ち止まる祐菜の背中を思い出した。

 もし、街に降る雨の全てに祐菜の心が散りばめられていたのなら。いつでも笑いかけてくるあの紫陽花が、惨然たる雨に育まれてきたのなら。

 傘をさしたまま歩いてきた自分は、どれだけ読み取って来れたのだろう。

 傘を放り出して駆け出す。木々を掻き分けて走る。

 気がつけば祐菜の名を叫んでいた。いっそう激しくなった雨に掻き消されぬように。強く、強く、少しでも遠くへ。

 言葉にならない痛切な思いを見逃してきた。今、ようやく気付けたのだ。

 喉が焼き付く。腕に血が滲む。

 どうなろうと構わなかった。ただその姿を見つけたかった。

 祐菜が大切にしていた蜜柑の木。思い出の場所。きっと、その中に。

 

 どれだけの間探していたのだろうか。木の幹の根元に座り込んだ祐菜を見つけた。

 隣に腰を下ろすと、背の低い蜜柑の木がまるで傘のようにすっぽりとふたりを覆った。

 祐菜は何も言わず啜り泣いている。

 「こうやって木の下に入るの、いつぶりかな」

 拓人がそう呟いた。

 「おじいちゃんのこと、本当に残念だ。一目見ただけでも分かったよ。祐菜を守る為に必死で働いてきたんだろうね」

 祐菜が拓人の顔を見上げる。

 「この木、残そうよ。接ぎ木してさ。絶やしちゃいけないんだ。きっと」

 赤く腫れた目が見開かれ、何度も弱々しく頷いた。

 嗚咽が漏れ、次第に激しくなっていく。

 祐菜の背中を摩った。堰を切ったように大声で泣き始め、拓人の腕に縋りつく。

 少しだけ雨が好きだと、祐菜は語っていた。

 拓人はやはり好きになれそうにない。

 それでも、今だけは。聴き慣れないこの唄が終わるまでは。

 雨が降り続いてくれたらと、そう願った。

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