第8話「片隅に生きる人々」

「他にご質問がなければ、これで……」

「あっ、いや待ってください」


 聞きたいことはいくらでもある。

 何故、ユキと名乗るこの少女は僕を新たな所有者として選んだのか? 

 箱の力を正しく使うとは、どういうことか? 

 

 だがそんなことを尋ねても、きっと彼女は答えてくれないだろう。彼女が僕の事をよく知っているように、僕も彼女の性格をよく知っている。確信に近い思いが、僕にはあった。まったく合理的ではないが、その時は確かにそう思ったのだ。


「師匠の死後、箱は一度、誰かに受け継がれたのではないのですか?」


 僕はとりあえずそう尋ねた。今ここで尋ねても不自然でなく、答えをちゃんと貰えそうな問いは、これしか思いつかなかった。


「剣乃さんの次の所有者について知りたい、という事でしょうか?」

「そうです。師匠が亡くなったのは、もう20年近くも前の話です。その間ずっと、所有者が不在なのは不自然なことだと思います」


 僕にとっては、師匠の遺品であることがなによりも大事で、次の所有者にそれほど興味がある訳ではない。だが今は、この電話を切らせないことが何よりも重要だと思った。


「ご推察の通り、箱の最後の所有者は、剣乃 征大ゆきひろ氏ではありません。箱は一度、剣乃氏の近しい人物に受け継がれました」

「やはりそうですか……」

「その人物も数年前に亡くなり、箱は我々の手に戻ってきていますが、所有者の姓名については、関係者が存命のうちはお話しできないことになっています。もし貴方が剣乃氏の弟子でなければ、征大さんの名前を明かすこともなかったでしょう」

「そうですか。それはとても残念です」

「ご理解いただければと思います。箱の力で人生を狂わされた人間は、所有者だけとは限りませんので」と、彼女は少しだけ物憂げに答えた。


 冷静に考えれば当然だ。箱の所有者には必ず悲劇が訪れるとはいえ、その前には輝かしい時代がある。その陰で涙を飲んだ人間だって、きっと大勢いたはずだ。その事実を知れば、凶行に走る人間だっているかもしれない。


「しかし貴方は、既に善意の第三者ではありません。あの箱の宿命を知る現時点での箱の所有者です。剣乃さんの次に箱を受け継いだのは、貴方も良く知る『ある人物』でした。それだけはお伝えしておきます」


 そういって、ユキさんは電話を切った。


 僕の良く知る人物で、存命でない人物とは一体誰だろう? 心当たりが多すぎて直ぐには絞り込めなかった。この世界は、変死や行方不明者があまりにも多い。それに、今のユキさんの話には、腑に落ちない部分が沢山あった。


 箱を託すなら、最晩年の師匠に付き従い、その死を看取った僕でも決しておかしくはなかったはずだ。堅気の僕を、闇社会の人間から切り離したいと師匠が考えていた事を割り引いても、そんな大事な品を僕以外の人間に託したとは考えにくい。だが、僕の方からユキさんに連絡を取る手段がない以上、この件についてはいくら考えても無駄なように思えた。



 時の流れを、猫の全力さんを回収しにヤサに戻ったあの時間に戻そう。僕は飛び込むように家の中に入り、エサを大量に用意すると、全力さんを叩き起こした。


「全力さん、ご飯だよー!」


 全力さんは、眠たげな眼差しで僕を見る。


「なんと今日は、ちゅーるもあります! 超お得です!」

「!!」

 

 全力さんは、あっという間に目を覚まし、餌場にすっとんでいった。ここまでは予定通りだ。持っていくものは最小限でいい。財布、スマホ、パソコン、それに、学生の時からずっと肌身離さず持っていた『スティル・ライフ』のハードカバー。それだけで十分だ。布団や枕などの寝具や、下着やタオル等の最低限の日用品は、元から車に積んである。後は全力さんが食い飽きて、ウトウトしだすのを待つだけだ。

 

 ガツガツとエサを貪り食う全力さんの後姿を眺めながら、僕はこれから自分の身に降りかかる不幸について考えてみた。持ち株の暴落、僕に恨みを持つ者からの暴行、天変地異――可能性ならいくらだって考えられる。


 僕はふと、普段はまったく見ないテレビをつけてみようと思った。僕の不幸に関与するような大事件が、何か起こってるかもしれないと思ったからだ。だが、持ち株に影響のありそうな事件は何も起こってない。経済関連のニュースは特に入念にチェックしてみたが、気になるものは何もなかった。「杞憂か……」とTVの電源を落とそうとした瞬間、一本の何気ないニュースが、僕の心を強烈に揺さぶった。


 それは、『もう一つの、片隅かたすみに』というアニメ映画の試写会に、天皇陛下がご家族で出席されたというニュースだった。映画を作ったK監督は、陛下と並んで映画を鑑賞し、上映後、直接お褒めの言葉を賜ったという。普通の人にとっては何ともない、ほほえましいニュースだ。このニュースを見て、こんな陰鬱な気持ちになってるのは、この世界で僕だけだろう。


「よりによって、このタイミングかよ……」と、僕は独りごちた。その映画は、三年前に公開されて大ヒットした『片隅に生きる人々』の完全バージョンで、僕はその映画の絵コンテを、今でも持っている。何故なら僕は、その映画のロケハンと、プロモーション・フィルムの制作資金を提供し、監督と一緒に仕事をしていたことがあるからだ。


 そもそも、このアニメの原作である『片隅に生きる人々』の映画化を、最も強く支援していたのが僕だった。そしてそれを実現すべく、宮崎駿の愛弟子だったK監督と共に会社を立ち上げ、役員として出資もしていたのだ。


「大損するかも知れないが、将来必ず胸を張れる仕事になるはずだ」


 当時の僕はそう思い、映画化の実現に向けて本気で頑張っていた。相場を辞め、堅気に戻るなら、間違いなくあれが最後のチャンスだった。だが会社設立から半年もしないうちに、僕は身内のしでかした不始末で、師匠の仕事の片棒を担いでいた時にすら喰らわなかった強制捜査ガサを、金融庁から喰らったのだ。


 僕は、ロッキード事件で自民党を離れた角栄のように、監督と共に起こした会社から離れざるを得なくなった。そして数年後、僕のいなくなった映画は大当たりをとった。僕は、僕がいない作品の大ヒットを複雑な気持ちで眺めていた。


 ただ金を失っただけならば、僕は自分の人生を儚んではいない。僕の師匠がそうだったように、お上に付け狙われるのは、相場師にとってはある意味で勲章だからだ。だが、名作を発掘し、身銭を切ってそれを支援した名誉と、堅気の人たちを信じ共に働こうという気持ちを、僕はあの事件のせいで完全に失った。それが悔しくてならなかった。


 強制捜査をきっかけに、それまで僕の近くにいた人はみんな離れていった。K監督に至っては、法廷で直接戦うことになった。僕は作家の才能を見抜く力はあっても、人間性を見抜く力はないのだなと、ほぞを噛んだ。


 裁判に負け、全ての財産を差し押さえられた僕は、全ての過去を捨て、伊集院アケミとして、第二の人生を始めることになる。だが僕は、自身の復活を諦めた訳ではなかった。手のひらを返した人間とは、徹底的に距離を置く。それが僕の最後の意地だった。


 それでも僕は心のどこかで、僕を見限った連中を愛していた。もし逆の立場なら、自分だって同じことをしたかもしれない。だからいつか、『片隅に生きる人々』よりも素晴らしい作品を手掛け、「貴方のおかげで、ここまで来れました」と、一言だけ言いに行こう。それが誰も傷つけることのない、前向きな僕の【復讐】だと思って、これまでずっと頑張って来たのだ。


 その後僕は、強力な文才を持つ相方を得た。相場の世界への復帰も果たし、自らの手でもう一度作品を生み出せるかもしれないと期待を抱いた。だがその夢も、僕らのファンと称する人間が引き起こした【ある事件】のせいで、無残に打ち砕かれることになる。K監督ですら、最終的には恨みを忘れることの出来た僕が、生まれて初めて殺したいほど人を憎んだ。その気持ちは今も変わらない。そしてこの今日のニュースだ。


 数年前まで一緒に飯を食っていた監督が、陛下からお褒めの言葉を頂いていたその日に、僕は怪しい箱を掴んでしまって、明日の事すらどうなるかわからない。こんな理不尽があるものかと、僕は目の前が真っ暗になった。すると突然、物凄く大きな音で玄関のドアが叩かれ、僕は一気に現実に引き戻される。


「しまった」という気持ちが僕の心を支配した。やはり、テレビなんかつけずに直ぐに出発すべきだったのだ。外に待ち構えてる連中がどういう類の人たちか、僕にはおおよそ察しがついていた。


 仕方なく扉を開けると、大勢の黒い服を着た人たちが玄関の前に立っていた。黒塗りの車が20台近く、ヤサの周りを取り囲んでいた。


「伊集院アケミこと、○○君だね。裁判所から、捜索差押許可状が出ています。被疑事実は以下の通りです」


 令状に書かれた言葉を金融庁の調査官が読み上げていく。罪状は勿論、相場操縦だ。そこに挙げられている銘柄を触った覚えはあるが、もう何年も昔の話で、なんで今更、あの相場に調査が入るのか分からなかった。


 そもそも僕は一度だって、自分の事を仕手だと思ったことがない。何しろ僕は、本物の仕手筋の片棒を担いでいた人間なのだ。何が大丈夫で何がアウトなのかは、僕の方がよっぽど知っている。僕自身がヘマなんてするはずがない。


 だとすれば、答えは一つだ。僕の知っている誰かが、保身のために僕を売った。あの時のK監督と同じように……。


 この世界じゃ、裏切りは日常茶飯事だ。伊集院アケミとして生きだしてから、僕は相方を除いては、損得でしか他人と付き合ってない。お上は常に、自分らの描いたシナリオ通りに罪を作る。「伊集院の指示でやったんだろう?」と言われれば、「そうです」と答える奴は、星の数ほどいるだろう。


「今度は誰が、俺を売ったのかな?」


 心の中でそう呟きながら、僕は頭を掻いた。

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