第10話「逃亡」
「あの車ですか?」
捜査官は家の前に停めてある車を指さした。朝方、バッテリー上がりで動かなかったモビリオ・スパイクだ。
「いえ、違います。実はここから少し離れたところにガレージがあるんです。今じゃ中々手に入らない車なので、ちゃんとしたところに停めたいと思って……」
捜査官の顔色が、少し変わった。
「もう一台、別に車があるという事?」
「はい。普段はあまり乗らないのですが、昨日はたまたま、あの車のバッテリーが上がってしまって、ちょっと乗っていたんです」
するすると言葉が出てきた。バッテリー上がりは嘘じゃないし、CR-Xが大切な愛車なのも事実だから、僕の言葉には真実味があるはずだ。そこらの詐欺師は、嘘でヒトを騙そうとするから、すぐに捕まる。僕はそんなバカな事はしない。本当の事だけを使って人を騙す。本当の事を人は疑えないからだ。大事なのは、【相手に誤解させること】である。嘘でヒトを騙す奴は、所詮素人だ。
捜査官の反応から考えて、やはりガレージの存在は認識されていなかったのだろう。彼は動揺の色を隠せないまま、「ちょっと、待ってて」と僕に言い、上司らしき人間に相談をしに行った。ここまでは予想通りだ。これから先の展開も、おおむね想像がつく。
携帯は、令状では差し押さえ出来ない場所にある。そこにある重要な証拠を、被疑者が任意提出するといっているのに、向こうが断ってくるわけがない。問題は、僕の逃亡防止に何人付いてくるかだけだ。
先ほどの捜査官が戻ってきて、こういった。
「私ともう一人が付き添いますので、ガレージに向かいましょう。携帯は操作を一切せず、そのまま渡してください」
「たったの二人か、舐められたもんだな」と、僕は心の中でつぶやいた。複数人を付けるのは、買収や逃亡を避けるための当然の措置だが、逆に言えば、必要最小限の人数ともいえる。おそらく彼らは、僕の【前】を知らないんだろう。
おまけに彼らがついてれば、何の疑いもかけられずにガレージまで行ける。あとは何とかして、この二人を撒けばいい。こんな下っ端が何人いようと、これまで何度もお上の手を免れてきた僕を止められるものか。
「ガレージはあちらです」
僕はわざと遠回りをしながら、車庫に向かった。逃亡後、追跡がかかるまでの時間を少しでも稼ぐためだ。この辺は電波が悪いから、携帯はなかなか繋がらない。ヤサの中なら対策をしてるから問題はないが、ここからの発信は相当苦労するはずだ。
方々で恨みを買っている僕は、そういう場所ばかりをヤサに選んでいる。ここらの道はとても入り組んでいるから、僕が遠回りしていることは、この二人には絶対に分からないだろう。
遠目に車を見ると、屋根の上で全力さんが昼寝をしていた。幸先がいい。これで先生の手を煩わせずに済みそうだ。全力さんを確保したらすぐに出発するつもりだったから、CR-Xは車庫に入れずに、ガレージ前にそのまま横付けしてある。
「あの車です。先に猫を捕まえたいんで、少しゆっくり来てもらっていいですか?」
「逃げないでくださいよ?」
「そんなことしやしませんよ」
「今はね……」と、僕は心の中でつぶやく。このまま逃げることは可能だろうが、今は全力さんの安全と確保が最優先だ。
「証拠品の押収が終わったら、僕は金融庁に出頭させられるんでしょう? アイツは人に懐かないんです。この辺は日が暮れたら、イタチも出る。もし死んだら、責任とってくれますか?」
「……」
仕方ないという感じで、捜査官は車の方に顎をしゃくった。「確保しろ」という意味だ。僕は屋根の上の全力さんを難なく捕まえると片手で抱きとめ、もう片方の手でCR-Xのドアを開けた。
「ほら、全力さん。ちょっとここで寝てて」
僕は、後部座席に置いてある箱の上にタオルをかけた。そして、お腹がタポタポになった全力さんを抱え上げ、その上に置く。「とりあえず、ここに」といった感じで振舞ったから、そこに
全力さんは、箱の上が意外と気に入ったのか、再び眠りについた。箱を目立たせないためにやった事だったが、蓋の上で寝入るその光景は、なんだか滑稽だった。僕は全力さんがマジ寝し始めたのを確認すると、助手席のグローブボックスを
「ありました、ありました」
このスマホは、ネットゲームをする時だけに使っている型落ちのものだ。SIMも入ってないし、ゲーム以外のデータは全部消去してる。差し押さえられたところで何の問題もない。
「では、こちらに渡してください。電源は入れないように」
「どうぞ」
調査官は、僕の申し出通りに証拠品が出てきたことに、少しホッとした様子だった。僕は素直にスマホを渡し、自分の本当の意図を悟られぬよう、努めて軽い感じでこういった。ここからが勝負だ。
「すみません。車庫に車を戻したいんですが、後ろを少し見ててもらえませんか? この車、後方視界が良くないので」
「かまいませんよ」
捜査官が一人、快く後ろに回ってくれた。これまでずっと、従順に振舞っていた甲斐があったというものだ。これで邪魔者は一人消えた。後は、前に突っ立っているもう一人を、どうにかすればいい。
「オーライ、オーライ」
僕はゆっくりハンドルを切りながら、少しずつ車庫に車を収めていく。二人とも、僕が逃亡を企図しているとは、想像もしてないだろう。やるなら今だ。
僕はクラッチを切り、ギアをバックからニュートラルに戻して、思いっきりアクセルを踏み込んだ。ZCエンジンは唸りを上げ、タコメーターの針はレッドゾーンまで一気に食いこむ。
辺り一面に轟音が響き渡った。この車に装着しているフジツボ製のマフラーには、サイレンサーがない。敷地内でしか乗らないから、走るために必要ない部品は、性能向上のために全て外してあるのだ。勿論、ギアはかみ合ってないから車は動かない。これはただの脅しだ。
「死にたくなかったら、そこをどけ!」
僕はそう叫びながら、ギアを一速に叩き込んだ。
前にいた捜査官は、慌てふためきながら道をあける。警官でも、検察事務官でもないただの公務員なんて、所詮こんなもんだ。自分の命を賭けてまで、車を止めようとするはずがない。とはいえ早く出発しないと、また前をふさがれるだろう。ガレージ前の道は狭いが、車庫に下がったおかげで加速距離は十分にある。この車なら、行けるはずだ。
僕は5700回転辺りでクラッチをつなぎ、車を急発進させた。そして、ガレージから少し頭が出たくらいのタイミングで思いっきりハンドルを切り、同時にサイドブレーキを引く。サイドターンだ。車はあっという間に真横を向き、道と平行になった。軽量で、ホイールベースの極端に短いCR-Xだからこそできる挙動だ。
僕はハンドルを元に戻し、アクセルを床まで踏み抜いた。車庫前にへたり込んだ捜査員が、あっという間に点になっていく。この辺は入り組んでいるとはいえ、何度も走り込んだ勝手知ったる道だ。下りなら、どんな車にだって負けない。
「こんなに読み通りに事が運んだのは、久しぶりだな」と、僕はほくそ笑んだ。
もし彼らの携帯が運よくつながったとしても、追手が来る頃には、僕はとっくに敷地内から抜けてるだろう。全力さんはおびえて助手席の下でガタガタ震えているが、ともかく身柄は確保した。箱も無事だ。
「この程度で何が不幸だ。こっちは相場でもリアルでも、何度も生き死にの経験をしてるんだ。自分の運命は自分で決める。箱なんかに決められてたまるもんか」
僕はそう独りごちながら、なじみの車屋の方に車を向けた。ちょっと、口笛を吹いたりなんかして。
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