2.クルムの日常は、一人の女によって破壊される。

 現在に時を戻そう。


 少しずつ気温が下がっていくこの時期。集落では今年二度目の収穫祭が始まっていた。季節の実りに感謝し、次の季節の豊穣を願う大切な行事。同時に、この先に訪れる厳しい季節を乗り越えるための活力を溜め込む祭りでもある。

 焚き火。笑い声。楽器の音。どれもクルムがいる謳う樹からは離れている。相変わらず彼は傍観者であった。


 ただ、今回はひとつだけ、いつもと様子が違うことがあった。

 謳う樹のすぐ近くに、即席の舞台が作られたのである。


 集落で騒いでいた人々が、続々と謳う樹のところまでやってくる。

 彼らはこの舞台で踊り比べの催しを開いた。謳う樹が――正確にはクルムが――歌う声に合わせて踊ろうという趣旨であった。

 なぜ今年に限って?

 それは人々の心に余裕があったからだ。

 疫病も火事も、獣害、虫害もなく平穏で、豊作だった。こんなに気持ちのよい年など珍しいのだから、たまには立派な樹を背景に踊り明かすのも悪くない。謳う樹の寄生者は気味が悪いけれど、樹そのものに害はないのだ。

 その程度の認識であった。


 一度踊りが始まってしまえば、もう些末なことは気にならない。人々にとって祭りとはそういうものだ。なるようにしか、ならない。やりたいようにしか、やらない。

 集落の人々は、『いつもと違う』を『いつも通り』に変えられるのだ。そこに何の不安も恐れもない。


 だがクルムは違った。いつもと違う彼らを見て不安を募らせていた。

 生命力をみなぎらせて踊る彼らが、どうしてか恐ろしい。クルムが歌うのを止めても、彼らの踊りは止まらない。クルムは、なぜ自分がここまで不安を感じるのかわからなかった。


 不安の正体を紐解こう。

 活力溢れる踊りは、本来、聖の力に満ちたもの。

 なのに今、踊り舞台に溢れているのはもっと荒々しい魔の力であった。

 しかも集落の人々は、自分たちが魔力を放出し続けていることに気づいていない。

 理屈に合わないことが今まさに起きている。それが不安の正体。

 クルムは人々の感情の機微に疎かったから、自分がなぜ不安を感じていたのか理由が付けられなかったのだ。


 代わりに、彼は感じた。

 嫌な予感がすると。

 これから『いつもと違うこと』が起こると。

 その予感は当たっていた。


 踊り会場の片隅――。

 そこに、影のように佇む女性がひとり、居る。

 彼女の名は、アンティア。

 クルムの『嫌な予感』を現実にする者である。

 辺境の集落には似つかわしくない垢抜けた美しさを持つ女性だ。年齢は二十二。腕に太陽を模した刺青を施しているが、普段は長袖に隠されている。


 彼女にとって、クルムは敵であった。

 人生全てをかけて打ち倒さなければならない、ある意味、恋人よりも深く想う唯一無二の相手がクルムであった。


 なぜか。

 アンティアは謳う樹の先代主の娘なのだ。

 先代主は、娘であるアンティアではなくクルムを後継者に選んだ。アンティアの人生が定まった瞬間である。


 単純とわらうか。あり得ないと呆れるか。


 彼女はクルムとよく似た人間なのだ。彼女もまた、たがが外れていた。親に対する屈折した思いが、彼女を今の姿に育てた。

 アンティアのこれまでの人生で、どこか一カ所でも道が違っていたら、クルムと立場が逆転していたはずだ。

 クルムよりも強く。クルムよりも上に。それが彼女の行動原理。


 しかし、謳う樹と同化したクルムの成長速度はアンティアの想像を遙かに超えるものだった。魔力と聖力の両方を求めていたのでは追いつけない。だから彼女は魔力の習得に全力を傾けた。憑かれたように努力した。


 それでわるちした。


 容姿の素晴らしさ、行動の奇異さ――周りからは美しき狂人と言われた。だから孤独になった。彼女は苦しみながら、時に無力感と羞恥に耐えながら努力し続けてきた。

 哀しいことに、アンティアという女性はとても真面目で、正直者だった。これと決めた道を、たとえどれほど苦しくても進み続けているのだ。道の先にはクルムがいる。


「私は、あなたに負けない」


 収穫祭のこの日――。

 アンティアはひとつの決意を固めていた。

 クルムを謳う樹から引きずり下ろす。


 彼女の視線の先には謳う樹がある。急ごしらえの舞台で踊る人々はとても楽しそうだ。あなたはどうなのかしら、と彼女は思う。

「私は、あなたを認めるわけにはいかない」

 彼女のつぶやきは踊りに熱狂する者たちには聞こえず、謳う樹の主にも届いていない。


 大きく深呼吸。彼女には見えていた。周囲に漂う濃密な魔力。自分が目的を果たす上で最大の、そして唯一の拠り所になる力。クルムに対抗するため磨き上げてきた、己の全て。

 誰にも知られず一人で練り上げてきた魔法を、アンティアは解放する。必要な仕込みはすでに終えていた。収穫祭の舞台をこの場所にさせたのもそのひとつ。

 魔力とは人間の本能、原初の衝動が凝縮されたもの。それを自在に操る術を手に入れた今の彼女は、欲望や本能に介入することで他人を操ることができる。


 あなたには私の位置まで墜ちてもらう。謳う樹に頼らず生きてみなさい。


 魔法が確実に発動したことを確認したアンティアは、誰にも気付かれることなく霧のように消えた。


 ――日常の崩壊する時が、来た。


 始まりは、一人の壮年男性が放った言葉からだった。

「おぉい。声が聞こえないぞ。歌え歌え。出てこい出てこい」

 謳う樹に向けてはやしたてたのだ。

 膝を抱えたクルム。顔を上げる。


 俺を呼んでいる? どうして?


 気になった。不安にかられていたからなおさらだった。歌に集中できなくなり、洞からそっと顔を出して舞台の様子をうかがう。

 そのとき彼は気付いた。

 踊りに熱中する人々の様子がおかしい。

 集まった二十人ばかりの老若男女、全員の身体から黒い煙が立ち上っている。彼らの身の内からのものだけではない。足下の大地からも水源のように次々と湧き上がってくる。


 黒煙の正体は魔力。世界の理を遮り、ねじまげる不浄の、しかし決して無にはできない力の流れ。人々が熱狂して踊れば踊るほど、魔力の煙は密度を増していった。ひとりひとりを媒介に魔力が増幅されているのだ。自然ではあり得ない現象。

 力の矛先は、謳う樹に向けられていた。

 このまま魔力がぶつけられれば、謳う樹は元よりクルムも無事では済まない。


 集落の人々は、危険な力を生み出していることに気付いていない。

 彼らの心はこのとき、本能的な衝動にがんがらめにされ、踊る以外のことを考える力を失っていた。アンティアによる、外部からの強い意思が働いたせいだった。


 だが、神ではないクルムには集落の人々の間に何が起こっているのか、その原因は何かを見抜くことができない。時間を追うごとに膨れあがっていく不自然な魔力に、彼は選択を迫られた。


 ひとつ。使命を放棄してここから退避すること。

 ふたつ。腹を決めて、自らの力で住人たちを強制的に鎮圧すること。


 彼はどちらを選んだのか。


 クルムは純粋で真面目な性格ではあったが、英雄ではなかった。すべてを良い方向に収める器量も精神性も持ち合わせていなかった。


 クルムは


 自らに溜め込んだ聖力を解放し、魔力にぶつけて中和するという――間違いなく集落の人々の何人かはのように吹き飛ぶやり方であった。謳う樹の高みから、自らの目的達成と不安払拭のために、自我を失った人々たちを浄化する。心に根深い欠損を抱えていたクルムにとって、集落の人々はもはや、魔力に冒され踊る人型の生命体にしか過ぎなかった。どこまでも他人であった。


 繰り返そう。彼は英雄ではない。その精神は高潔とはとても言い難かったし、その行動も、結果も、決して称賛されるものではなかった。

 クルムは行動に移すまでは素早かったが、相手の力を読み誤っていた。


 クルムが掌から生み出した五つの塊――聖力を押し固めた蒼いせいほうは、しかし、人々から溢れ出た魔力のうねりにことごとく弾かれた。

 魔力と聖力がぶつかり合う衝撃を受け、数人が糸が切れたように倒れていく。一方、魔力そのものはより濃く、より鋭さを増し続けた。

 もう一度構えを取ったクルムの元へ、無数の刃に変化した魔力が殺到する。


 謳う樹のうろから引き剥がされる。

 景色が上下逆さまになる。

 手足に衝撃。胸部に圧迫感。

 クルムは吹き飛ばされていた。鎮圧は失敗したのだ。


 低木が群生する地帯に頭から落下していた。しばらくして、落雷のような轟音が耳をつんざいた。

 魔力の一斉射撃を受けた謳う樹が、枝から幹からへし折られ崩れ落ちる音だった。

 木屑となった謳う樹が地面に広がる。その向こうで、闇そのものの色をした魔力を背負って蠢く人々がいる。

 無理だ、止められないとクルムは思った。


 視界の端に人影を見る。

 それはアンティアだった。彼女は別の樹の枝の上に立ち、燦然さんぜんと輝く月を背にしていた。地を這うクルムとは文字通り天と地の差ができていた。


 このときのアンティアの表情、その凄まじいまでの存在感は、クルムの意識の中に強く深く刻み込まれた。


 痛む手足を引きずり、草むらから脱出。クルムは夜の森の中に逃げ込んだ。

 鬱蒼とした樹々、張り出す低木の枝、絡みつく雑草。行く手を遮るものをかきわけながら、クルムは唇を噛んだ。「悔しい」と思った。

 だが、それはただ無様に負けた悔しさとは違った。


「あんな力を持てるのか。人間って」

 方や、謳う樹で魔力を蓄え続けたくせに、この程度の実力しかない自分。

「悔しい。もっと高みを目指してやる」


 月を見上げる。綺麗な輪郭が、薄雲にかすみ始めていた。

「だが、どうしたらいい? 俺は、これからどこへ向かえばいい?」

 応える者はまだ、誰もいなかった。

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