第8話 (2)

 


 ミーサッハが深い息のあと、「レイ」と相手を嗜める声を出した。その声にはわずかながら焦りの色があった。エルは瞬き一つすらできないでいた。平然としていたのは、国王からの視線を受け止めていたデットのみだ。

 エルはやっとのことで呼吸をし、ゆっくりとデットのほうを見た。彼の眼が楽しそうに輝いて見える。

 デットの口元が笑みを形作る。これが不敵な笑いというものか。

 デットはなにも言わない。ただレイグラントに笑みを見せるだけ。

 国王の瞳は剣呑な光を宿したまま、穏やかな声でデットに話しかける。

「国王の職務など、肩が凝るばかりでな」

 エルにはレイグラントがなぜこのような態度に出ているのかがわからない。

「ビルトランの報告をただ待っているのも退屈だ」

「仕事が山積みなのであろう? 皆が気を揉んでいるのではないか?」

 レイグラントの意図を察したらしいミーサッハが話題を逸らしにかかった。

「今日の仕事は明日に回せばよい。なに、ここしばらくは休日すら惜しんでやったゆえ、少しくらいの休息は許してもらおう。シリューズとおまえにかかわることだ、何事にも優先するさ。仕事をしながら待ったとしても、どうせ気になって手が止まることだろう」

 ミーサッハの意図を持った言葉もするりと躱された。

 エルには理解できていなかった。

 レイグラントの強い光を宿す瞳が、自分の瞳を射抜くまでは。

 向けられた殺気だけで、鼓動が止まるのではないかと錯覚した。

 思考力は麻痺し、口の中が干上がったように感じた。

 これが、“迅風”のレイグラントという銘のついたカドルの発する闘気なのかと、強張る思考の中で思った。

 いままで見てきた戦士とは比べものにもならない。

 兄や姉の身のこなしや気配を見てきて、それなりに自分の目を養ってきたと思っていた。実際“穴熊”でエルに怪我を負わせた若い男などもさほどの腕ではないと察することはできていた。

 なにもわかってはいなかった。

 エルは、戦場の死戦地に立ったことがない。

 カドルを目指し、目の前のこの人を斃さなければならないと思い込んでいたときの自分は、他の者から見れば滑稽だっただろう。

 レイグラントはエルの瞳を一瞬だけ見つめ、すぐに視線をデットへと戻した。レイグラントのこの眼を平然と受け止めるデットは、やはりそれなりの戦士なのだとエルはあらためて思う。

 殺気とは、“殺す意思”。

 レイグラントは闘うつもりでいる。

 目の前にいるデットと。

 兄がエルと出会ってすぐに気づいたように、もしレイグラントが噂どおり風の精霊王を持つ者なら同じように気がついただろう。

 この殺気は、エルが闇の精霊の守護を受ける者と知って、エルを守る姿勢のデットにまず向けられたものであるのか。

 エルにはわからなかった。ただ、このまま見つめ合いですむとは思えない。

「そなたも、こんな機会は滅多にあるまい? 五精王の使い手と手合わせすることは」

 そう言うレイグラントの衣服が、窓の締め切られた室内であるのに緩やかに揺れ動いた。

 その揺らめきが次第に大きくなり、レイグラントの濃金の髪がふわりと舞い上がると、彼の頭上に小さな透明な蝶が一羽ゆっくりと舞った。

 その姿が小鳥に変わり、次第に形を変えていき、最後には翼の大きな猛禽の鳥になった。

 巨大な翼を広げる鳥は羽ばたきを一つしてから、自然界の動きではありえないほどゆっくりとした速度でレイグラントの肩に獰猛な形の鉤爪脚を置き、その大きな翼を仕舞った。

 猛禽の鳥の尾羽は異様に長く、レイグラントの揺れ動く髪に呼応するように動き、その姿の後ろにある景色は透けて見えていた。

 風の、精霊王!

 風精王とも風の神とも呼ばれる存在だと、精霊も見えず知識もないエルでさえわかる。

 空気が、震える。

 畏怖を感じる。

 風の精霊王と、稀代の英雄王。

 その二つがそこにあるだけでも脅威であるのに、この男が闘気を纏って魔法を放てば、一体どのくらいの威力となるのか。

「退屈しのぎに、ぜひ、手合わせ願いたい」

 全身で闘気を纏うレイグラントは、デットに逃げ場を与えなかった。

 デットはここで初めて言葉を発した。

「お受けいたしましょう」

 レイグラントの笑みが一層深くなった。眼光鋭いその笑みがエルには恐ろしかった。

「都合のよいことに、王城のある王家直轄地には闘技場がある。前国の王が闘技好きでな。庶民が貧困に喘ぐ国状をよそに、己の楽しみのためだけに建てたものだ。いささか悪趣味な代物だが、たまには使ってやらないと、無用の長物なだけだ」

 レイグラントは立ち上がった。

 ミーサッハはこれ以上はレイグラントを諫めることはできなかった。エルに視線を向けてくると、幾分緊迫した声を出した。

「すまぬが、わたしは行けぬ。おまえは共に行くがいい」

 レイグラントはすでにこちらに背を向け、ついてくることに疑問も抱いていない様子で部屋を出ていった。

 デットはエルの瞳に目を合わせ、朗らかに笑った。

「ちょっと、王の暇つぶしに付き合ってくる。大丈夫、とは言えんが、まあ、なんとかなるだろう。怪我をしたら、おまえが手当てをしてくれるんだろう?」

 怪我どころか、殺されかねないのに。さらりと怖いことを言うデットにエルはなにも言えなかった。ただ心配で胸が痛い。

 デットがそう簡単に倒れるとは思わない。逆に、レイグラントに傷を負わすことのほうが問題となる。全力で向かってくる相手に対し、自分の身を守りながら相手にも気を配らねばならない闘いは不可能に近い。

 これから、どうなってしまうのだろう。

 デットの無事をなにに願えばいいのか。

 この闘いは、本当に避けられないものなのか?

 エルは自分がなにもできないこと、これから起こる未来に歯向かえぬことに焦り、歯噛みするほどに悔しく、握る拳は震えていた。



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