悪鬼と神様
「――――は?」
誰の口が発したかそんな音が耳に届く。
ハイヤ・ムネヒトが爆発した。それは比喩だが、他の表現が咄嗟には思い浮かばない。奴を抑えていたライジルとパルゴアの部下が等しくムネヒトを中心として吹き飛ばされたからだ。
木の葉のように宙を飛び、壁に激突したり床に叩き付けられる。
爆心地にムネヒトが立っている。両手と頭をダランと下げたままだが、その足で立っていた。
少し上げた面からその眼光がパルゴアを射抜く。「ヒッ」と短い悲鳴が聞えた。
「――殺せ!」
ライジルの指示は簡潔だった。
突如背筋を走った悪寒は今までのムネヒトには感じなかったもの。コイツはここで消しておかなければならないと直感する。
誰も彼の指示に逆らうものは居なかった。
ライジルの部下、パルゴアの家臣の誰構わずムネヒトに殺到する。だが殺される側がそれより遥かに早い。
「おぉ――ッ!」
怒号と共に繰り出されたムネヒトの拳が、不可視の速度を以て最初に飛び込んできた男の顔面を砕いた。
「ッ――」
苦悶の声は上がらない。
修復不可能なダメージを受け、更に上に床に叩きつけられた時には意識など無かったからだ。
顔が血の池になりビクビクと無言で痙攣する仲間を見て、パルゴア側は浮き足立つ。その一瞬の隙に暴力の主は眼前へ迫っていた。
「ぅわぁ! あがっ――!?」
恐怖から発せられた叫びは途中で折れる。ムネヒトがハエでも払うかのように外側へ振りまわした左手の甲が、下顎をコナゴナにした。
「ぎぃゃっ、ごぉ! あぎぃ、ぐがぁあっ!」
次の彼は哀れにも意識を失うことなく、バタバタと床上でもがき苦しむ。ボロボロと砕かれた歯と止めどなく流れる血液が、貴賓室の床を新たにコーディネートした。
それを不憫と思ったわけでは無かろうが、ムネヒトはその頭を踏みつけ黙らせた。もうピクリとも動かない。
「……――――」
誰もが息を呑む。明らかに異常な力だ。
さっきまで生殺与奪を握られていた青年が、いきなり信じられない怪力を発揮する理由が分からない。牧場を襲撃した際に相対した【剛牛】をも上回っているのではないだろうか。
「『
ライジルの声と共に放たれた光は
一瞬だけ黒髪の青年の動きが止まるが、何か変わった様子は無い。上司の魔術と
(強化系スキルではない……!?)
一向に奴の力は減衰しない。中級魔術で剥がせなかった以上、上級魔術や上級技巧の可能性もあるが効果が全くのは考えられなかった。
自分は魔術師の中でも【神威代任者】という特別な地位にあるのだ。
ライジルが知らないのも当然だ。あるいはムネヒトも自覚していない。今彼が発揮しているスキルは魔術でも技巧でもない。
『
・乳房への理解度。目視や接触、対象からの好意により上昇。また深度によって対象から身体能力が付与される。
ムネヒトが好感度と勘違いしている数字がそれだ。
好感度と大差無いスキルだが厳密には違う。その者の乳房をどのくらい理解しているかという数字だ。
ムネヒトが見て触れて理解を深めた指標であり、また乳房の持ち主のムネヒトへの好感度や彼になら
効果は身体能力の付加と単純だ。
全体の乳深度は平均して50%程度、実際に搾乳した牛達においては70%以上。
それはつまりバンズとミルシェ、牛のハナ達17頭の筋力や体力が50%ずつムネヒトに追加されているということになる。
人外の剛力はむしろ当然だ。
「おおおおぉおぉぉぉぉぉおおッ!」
真っ直ぐ奔る拳は肉を潰し、骨を砕き、命に亀裂を与える。
殴られた方は出来の悪い人形みたいに挙動の秩序を欠いたまま吹き飛び、壁に新しい穴を作る。
続けざま先ほどまでミルシェが横たわっていた大きなソファーを、片手で持ち上げ横凪に投げ飛ばす。
それは攻撃魔法を唱えようとしていた後衛を、三人ほど巻き込んで壁とサンドイッチにしてしまった。
「うわぁぁあぁっ!? おごっ!」
「ば、化け物ッ……うぎゃッ!?」
「くるな、くるなぁぁあーッ! ぶぎっ!?」
「ひいぃぃぃ!? やめ……ぎゃん!」
パルゴアの家臣はこの惨状で戦意を完全に消失させ、ムネヒトの目から逃れるのに必死だ。だがそんな連中から真っ先に餌食になっていくようにも見える。
たまたま近くに居たからに過ぎないが彼らにとっては不幸だった。ムネヒトに行ったリンチの因果を、こんな形で返されるなど思っていなかったに違いない。
「『
対してライジルの部下は戦意を失っていなかった。
後衛が後衛の働きをし前衛が前衛の働きで嵐へ向かう。
「死ね――!」
前衛の男は加速した勢いをそのままぶつける。
素人同然のムネヒトの隙に付け入ることは容易だ。
強化されたナイフは、精密さを伴いムネヒトの頚動脈を正確に裂く。
「――なにぃっ!?」
いや、裂いたと感じたのは攻撃した側の勝手な想像に過ぎなかった。
常以上の硬度になっていたナイフは半ばから折れた。
乾いた金属音が手元と黒髪の青年の首から発生する。攻撃された方には傷一つ無い。
防御をしたわけでは無い。望んだ結果が訪れなかっただけで間違いなく命中していた。
『
・防御力の向上。乳分泌液、または乳首を通過した乳を浴びることにより発現。膜の強度は乳深度に依り、膜が複数の場合は効果が累乗される。
しかし両乳首を同時に攻撃された場合、効果は081秒間失われる。
例えば市場で売られているような牛乳を浴びても、何の効果も得られなかっただろう。
だが今日の牧場での一件で、ハナ達の牛乳を全身に浴びていた。それは他ならぬムネヒト自身が搾ったものだ。
効果は『
ハナ達の乳深度は平均して70%、つまり1.7倍の防御膜が17層存在することになる。1.7倍の17乗は約8272倍だ。
仮にムネヒトの防御力が1という赤ん坊と同じ程度の数値だとしても、その肌は伝説の防具ですら及びえない強度に達している。
今のムネヒトには剣と糸クズの区別も付かなかった。
「痛いじゃねぇか」
嘘だ。
呆然とする男の下顎骨を掴み、そのまま頭突きする。ムネヒトの額と同じ形に顔の凹んだ男はそれだけで動かなくなる。
黒髪の青年の身体にバンズやハナ達の力が発揮されている今、彼らの憤怒を代行していると言ってもいい。
寝床を焼かれ家族を傷つけられた怒りが無形の援軍となり、ムネヒトに宿っている。
自分がいきなりこんな力を覚醒した理由などムネヒトには分からない。
火事場の馬鹿力か、それとも見かねた守護天使が自分の体を乗っ取り、悪漢に制裁を加えているのか。はたまた悪魔と契約でもしてしまったか。
だがそれがどうした。なんだって良い、躊躇いなど無い。
無限に流れ込む力が全身を猛らせ、怒りを燃料に心臓が踊り狂う。復讐するは我にあり。
「うらぁぁああっ!!」
前衛最後の大男は、身の丈ほどある大剣を振り上げムネヒトの脳天へ叩き落した。
受け止めた右の掌から衝撃が身体を走り抜ける。踏んでいた床板が砕かれたがムネヒトは皮の一枚も切れていない。
「おい……」
「ぐぅっ!?」
振り下ろした大剣が上にも下にも微動だにしない。剣の腹を掴んだムネヒトの指がそれをさせないのだ。
「寄ってたかって女の子苛めやがって、ミルシェが泣いてんだろうが……!」
「こ、小僧ッ……! なんなんだ、この力は……!?」
「どけよ馬鹿野郎!!」
咄嗟に得物を離し、自由になった両腕で防御したのは流石と言えよう。それが全くの無意味に終わらなければ更に良かった。
真下から馬鹿みたいな勢いで跳ね上がった右足は、二本の腕を枯れ木のように圧し折り延長線上にあった胸骨を粉砕した。
「ごぼ――ッ」
それでも止まらない。
血反吐を撒き散らしながら空中で無防備な姿を晒してしまう。
浮きながら意識を喪した男は、ムネヒトの追撃により最後の後衛を巻き込み床と抱擁するハメになった。
城砦の如き頑強さと魔獣のような膂力を併せ持つこの存在は、人の皮をかぶった悪鬼ではあるまいか。
パルゴアにとって美味しい果実へ群がる害虫でしかなかった黒髪の青年は、悪夢の如き変貌を遂げてしまった。
ギロリとムネヒトが貴族の姿を瞳に捉える。貴族を護る
「ひ、ひぃいいぃいいいい!」
パルゴアにとってそれは死神の目に等しい。
何度も足元を蹴り、滑りながら必死に逃げようとする。それを当然逃がす気は無い。
ムネヒトは体重を前に進ませようとして、それは起こった。
「……ぐっ!? な、なんだこれ!?」
困惑の声を上げるたはムネヒトだ。
金縛りにあったかのように、体の自由が利かない。手は空中で固定し、足は床に縫い付けられたように動かない。
全身を絡め取り動きを封じるものがある。黒色で半透明の鎖だった。部屋の壁、床、天井から幾数も生えムネヒトを中心に縛り上げる。
「……散々暴れてくれたな。だが、今度こそ終わりだ」
その標本を仕立て上げた本人が、無情な勝利宣言を行う。
「お、おおおッ! ライジルゥゥッ!」
味方の活躍に、貴族は歓呼に震えながらその名前を呼ぶ。
「恐ろしい男だ。これほどの力を有しているとは予想していなかった。おかげで切り札を使うハメになったが、お前になら惜しくは無い」
「う、ぐっ、クソッ! こんなものッ!!」
渾身の力を以って鎖を床ごと引き抜こうとするが、床はおろか鎖も千切れたりしない。
「無駄だ。この部屋の各所に予め術式を仕込んでいた。お前がこの部屋に入った瞬間から、最終的な勝敗は決していたのだよ」
「準備が良いなこの野郎! そうまでして手に入れたいのかよ!」
ムネヒトの怒声は負け惜しみ以外の何物でもなかった。単純な腕力では破壊できない事はバンズも体験したものだ。
髪を媒体にするだけでは無く、更に魔力を練り込みこの部屋に設置していた特別製。今ミルシェを縛っている即席のものとは根本から違う。
「最期に教えてやろう、お前の無謀さをな」
部屋の中央で無惨な標本と化したムネヒトに、勝利の確信に満ちた声でライジルは言った。
「私は【神威代任者】だ」
「しんい、だいにんしゃ……!?」
後方のパルゴアとミルシェの息を呑む音の無い声と、驚愕に満ちたムネヒトの声にライジルは目を細め薄く笑った。なるほど、【神威代任者】がどのくらい恐ろしいかは知っているようだ。
だがまさか、自分の前に立ちはだかるなど予想していなかったに違いない。
「惜しい人材だが是非も無い。貴様はこの場で死ね」
頭に手をやり毛髪を何本か千切った。次の瞬間には巨大な三角錐の物体、槍の穂先だけを拡大したかのようなものが顕れた。
黒い半透明の、ムネヒトを縛る鎖と同質の気配を漂わせる武装。
その歪な巨槍に渾身の魔力と神威を込める。
通常のスキルにパッシブで付加される物とは異なり、百時間に一度しか使えない
それこそがライジルの切り札。
あらゆるスキルや無機物有機物を問わず、縛り上げる。
この力であればミルシェに掛けられた加護も縛り上げ無効化しただろう。
だがパルゴアの下らない欲望の為にその切り札を使用しなくて正解だった。
そして今この槍に込めた意思は、神の名の下に愚か者の
どれほど頑強な防御だろうと関係ない。あらゆる命に終焉をもたらす絶死の一撃だ。
「心臓を狙うのは貴様の得意な分野だったな。では私もそれを真似するとしよう。さらばだ、異邦人」
重さを感じさせない軽やかさで巨槍はライジルの手を離れ、穂先をムネヒトの心臓へ真っ直ぐに向く。
鉄格子に噛みつく獅子のように暴れながら、ムネヒトはそれを見ていた。
「駄目ぇ! やめて、止めてください! お願い……!」
いよいよ最期とミルシェも悟ったらしい。パルゴアに縛られていることを忘れ、体を投げ出そうとする。もしかしたらライジルとムネヒトの間に割り込む気だったのかもしれない。
「やれぇっ! 殺せ、殺せぇーッ!!」
勝利の確信と逆転の猛りに目を血走らせ、貴族の少年は口泡を飛ばす。まるで手に持つ鎖でライジルを操っているようにも感じて、自分がムネヒトに引導を渡すような興奮を覚えた。
だがライジルには、少女の懇願にも少年の狂乱にも貸す耳は元より無い。
「神威『
発動した神威の槍は役目を矢に変え不可視の速度で飛翔する。
音速を超えた一撃は、しかしソニックブームなどを生む事なくムネヒトに襲い掛かる。
1秒の十分の一にも満たない執行猶予の後、一つの生命が永遠に失われる。
はずだった。
「―――はぁぁ!?」
放った神威の槍が跡形もなく砕け散った。
口にすれば一言で完了する呆気ない結果を、一同は見た。
「……え?」
「あ? おい、ライジルぅ……?」
そのあまりにマヌケな叫びはライジルの口から出たものだった。何十年も出していないような驚愕の声は、自身の耳にも新鮮に聞こえる。
続くミルシェもパルゴアも、予想とは異なる結果に目を
「……おや?」
恐る恐る目を開けたムネヒトは、無事をむしろ訝る様に五体を見回す。そのうち何故か縛っていた鎖まで霧散してしまう。
彼もまたライジル達に負けず劣らず呆けた顔をしていた。
(馬鹿な、馬鹿な馬鹿な馬鹿な!)
だがライジルの混乱はムネヒトの比ではない。
この力が自分を裏切ったことなど皆無だ。百時間に一度しか使えない奥の手は、絶対の権限を以って執行される。ゆえに神の代任なのだ。
しかし結果はこれだ。ありえない、ありえるものか。
自由になった黒髪の異邦人は肩をニ三回廻し、ライジルへホッとした笑みを向けた。
「なんか良く分かんないけど、不発みたいだな。大技だったんだろ? ちゃんと練習しとけって」
安堵から出たから
この男が対抗策を用意していたのか!? 特別なアイテムか!?
脳裏に浮かぶいずれも納得できる理由ではない。
通常魔術や技巧とは異なり、神威は云わば枠外のスキル。
発揮された場合、スキルの上下関係に左右されること無く効果が約束されるのだ。
神より上位の者が存在しない以上、防ぐ術など極めて少ない。
それこそ相手が自分と同じ【神威代任者】だとしても無傷で終わるとは思えなかった。
アイテムを使用する場合でも通常の物では駄目だ。神威に対抗しうるアイテムなど、神から賜ったもの以外にあるものか。
驚愕と粉砕された優位性をブレンドされた脳では、まともな思考など望めない。
だがだからこそ単純で、そして最も有り得ない答えに辿り着いた。それは――。
「嘘だ、ありえん、まさか……そんな――」
借り物の神の力が、
「そんな、馬ぁッ鹿なぁあぁっぁッ!!」
サンリッシュ牧場に対し買収を行ったのも領民を圧迫し王都へ増税を提案できたのも、サルテカイツ家の権力があったからだが、『夜霞の徒』と【神威代任者】の後ろ盾があればこそ数々の横暴も罷り通ったのだ。
「おいライジルどうした!? しっかりしろぉっ! これも何か考えがあるんだろ!? 何かぁ言えよぉーッ!!」
取り乱すライジルにパルゴアが必死に何かを呼び掛けているが、耳に入らない。
企みが露呈してもサルテカイツ家にでも罪を擦り付けておけばいいし、万が一の場合は実力で排除すればいい。
そんな大前提が崩れた瞬間だった。この期に及んで根底にある強みが崩壊してしまったのだ。
「じゃあ、もういいか?」
この男の存在は、我々の考えの浅さが招いたツケだというのたか。
「う、あ、ああああああああぁぁぁああああッッ!」
我に返り、いや返りきらずライジルは杖を怪物に向け滅茶苦茶に攻撃魔術を撃ち出す。
そうだ。例え神威の力が通じなくとも自力でこの小僧に劣るわけがない。
彼の魔術師としての本来の意地がライジルを混乱の海から救い出し戦意を回復させた。
勝敗とは別だったが。
「か、ぁ――――」
火と水と風と氷と雷と黒い鎖を織り交ぜた破壊力の檻は、ムネヒトを閉じ込めることも一筋の傷を付ける事も出来なかった。
純粋な筋力のみで間合いを乱暴に削り、眼前にその姿が現れる。
暴力の権化は膝を曲げ腰を落とし拳を溜めている。それは恐らくライジルにとってのギロチン。
「何者なんだ、貴様――」
喘ぐ口を無理やり制御し、ようやく搾り出す。
「――灰屋 宗人」
拡張された一瞬の中で、その声はハッキリと聞こえた。
「頂を臨む者だ」
その言葉が王国最後のライジルの記憶だった。
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