第4場 追憶

 ──お願い! お願い、堅人くん! 結架を守って!

 紅蓮に包まれ、今際の際に迸った魂の叫びを、忘れた瞬間などない。

 ただ、だから守ってきたわけではない。

 あの最期の願いがなかったとしても。

 俺の宝。俺の唯一。俺の救い。

 それが、結架という存在だったから。

 生きるための総て。

 まあ、最初からそうだったわけではなかったが。

 結架が生まれてから暫くは、それまでと変わらなかった。平穏とは程遠い苦痛に満ちた日々ではあったが、それが常態であったことと、耳が聴こえなかったらしい亡き姉よりは恵まれているのだと言われた言葉が胸にあったので、いつしか、それを普通の暮らしと捉えるようになっていた。

 深い切り立った崖に架けられた細い橋の上に立ち続けるかのような、神経を擦り減らす極度の緊張から逃れられない毎日。

 叱責と罵倒を浴びながら、必死に学び、技術を磨く。

 俺は父の笑顔を、それまで一度として見たことはなかった。

「なんて喜ばしい! この子は天才だ、瑠璃架!」

 満面に浮かんだ表情が歓喜の笑みであるのだと、その言葉で知った。初めて目にした父の笑顔。それを齎したのは、ずっと年下の、小さな妹。

 幼い結架の無垢な笑声が弾けて、絶望の波が押し寄せた。

 あんなふうに抱き上げられて、共に踊るかのように くるくると回り、笑みを向けられて褒められたなら。どんなに世界が明るく見えて、温かく感じられるだろうか。

 そんな希望を見つけてしまったことが、最悪の不幸だと悟った。きっと自分は どうしたって得られない。そう、理解できてしまう。それほどに、繰り返し、繰り返し、痛烈に面罵されて育っている。

 それからは、結架の優秀さ、豊かに溢れる才能の証明が、妬ましく憎らしかった。

 ──無邪気に微笑んで両手を伸ばしてくる妹が疎ましくて堪らない!

「おにいちゃま」

 そう甘える透明に澄んだ声が聞こえる度、急いで身を隠す。その惨めさに心がよじれる。そして、そんな自分の卑小さに嫌気がさすのだ。無限に続く悪循環だった。

「いらっしゃい、結架さん」

 そう呼ぶ母親の声と。

「行きましょう、堅人くん」

 そう招く彼女の声に違いを感じとる、自分の過敏な感受性が恨めしい。

 それでも彼女は言ってくれた。

「私には、堅人くんは天才の音楽を奏でているように聴こえるわ。あなたの その繊細な感性が表現を細密にしていて、本当に美しい響きを生み出しているの。確かに指回りの不器用さはある。でも、それを補って余りある才能よ。それも、器用さは訓練して努力で上げられるけれど、感性は生まれついてのものが大きい。訓練次第で必ずしも大成する訳じゃないもの。だから、結架も堅人くんの演奏が大好きなのよ」

 嬉しく思わなかったわけじゃない。だが、それなら、何故、父は自分の才能を少しも認めてくれないのか。それほどに、技術がつたないのか。ならば、努力で上げられると言われた指回りを、速く巧く、正確に出来るようになろう。そう決意した。それなのに。

 あるときから、ヴァイオリンを奏でると、咳が止まらなくなった。咽喉のどが痛く、痒い。そして、呼吸が苦しい。だけれども、レツィオーネは続けるしかない。必死に咳の発作を堪えたが、やがて、熱を出した。

 松脂のアレルギーだった。

 楽弓の毛束に纏わせて、弦との摩擦で音を生む、決して使わないわけにはいかない素材。

 父は激昂した。

 そして、そのアレルギーは、ヴァイオリン演奏だけでなく。

 俺の生来の声まで奪っていった。

 あまりに酷く傷んでしまった声帯は、咳や炎症が治っても、もとの声質を失ってしまっていたのだ。

 掠れて、ざらついてしまった声。

 遠くまで伸びることは、もうない。

 豊かに響くことも、蜜のように艶めくこともなくなった。そうして、この声は堕ちてしまった。

 絶え間なく弓で楽器を奏でさせられ、常に呼吸が松脂の塵を身体に満ちさせて、その結果、損なわれた、もとの声。そして、ヴァイオリンの音を生み出すことも、こうなっては叶わない。これまで築いた全てを失った。なのに、それを強いた、あいつの所為だと恨むことすら、すぐには出来なかった。

 ただ、嘆いて、悲しんだ。

 涙が止まらない夜。捕まったのは、孤独に息の根を止められそうな闇だった。

 そうして音楽からはじき落とされた。そう感じた。

 だが、父は次に、フルートを示した。

「おまえに別の声を与えよう」

 絶望の先に、まだ課せられる重荷。しかし、逃れるすべなどない。音が鳴らない可能性に怯えながらも、それを望む。いっそのこと姉のように死を迎えるべきかと感じながら。

 総ての終わりの近づく気配から目を逸らし、息を吹き込んだ。

 ふくよかな、丸みを帯びた音が響いた瞬間、虚脱しそうなほどの安堵と、また高い崖の上を目指さなければならないのだという苦悩が同時に襲う。

 しかし、父の満足気な声が、俺を引きずっていった。

「漸く適応できそうだな」

 それから終わりのない修練が始まった。

 アンブシュアを練り、運指を覚え、奏法を増やす毎にアンブシュアの精度を上げていく。表現の幅を増やすため、唇や口内、頬の筋肉を操る技術を培うのだ。口唇も舌も、顎も首も、肩も、腕も、背中まで痛くなったが、レツィオーネをおこたるなど決して許されない。

 バッハ作品番号一〇三四、ホ短調。

 長く続ける音の安定の難しさ。跳躍する音型の意外さ。

 絶え間なく指と息を酷使するトッカータ。

 肺活量を鍛える運動を始めてはいたが、音を追うだけで精一杯で、その質を整えることさえ覚束ない。美しく奏でる意識を持てるようになるまで、かなりの時間を要した。

 だがしかし、それでも父から合格を得ることは、有り得ない。

 どれほど研鑽を積んで演奏しても、細かな粗を指摘される。楽譜の総ての音符と休符、指示記号を完璧にしなければ、認めてはもらえない。きっと、永久に。

 昼の陽射しの眩しさが暑苦しく、夜の優しい静寂しじまの中。月光を浴びて吹き鳴らすときだけは。血みどろの心が凪いだ。音楽だけに魂を浸らせられた。いつだって苦しみしか与えてくれない筈の音楽なのに、このときだけは慰めとなる不思議。

「きれい……」

 その声に心臓が破裂しそうなほど驚いた。

 音楽堂の横。木々が開けて平らになった、倉庫の跡地。そこで一曲を始まりから終わりまで父に止められることなく吹くことを密かな楽しみとしていた、誰も寄せつけずにいた俺だけの居場所。そこに舞い降りた、まるで天使。俺には忌まわしいほど清らかな、近寄りがたく神聖で、目を背けたくなるくらいに愛らしい妹。才能の権化。気が触れてしまいそうなほど妬ましい、真の天才。

 声も抑揚も、発音も美しい言葉が流れてくる。

「おにいちゃまのフルートは〝ほしあかり〟みたい。おかあちゃまがってらしたの。夜のお空の暗さが きれいに見えるのは、お星さまがあるからなのですって。昼には見えないけれど、かがやきは変わらないって」

 微笑む美貌に目が眩む。

「こうやって、夜に お外で聴けば、おにいちゃまの お星さまが、おとうちゃまにも見えるのにね」

 救いというものは、ある日、突然に現れるものだけではない。ずっと傍に在ったのに、見えていなかった。そのことに気づいて、その瞬間、全身を晴れがましい感情が縛った。

「ねえ、おにいちゃま、おねがい。もう一度さいしょから吹いてくださいな」

 ──おまえが望むのなら、何度でも。

 憎悪が愛欲に身を翻したとき。

 俺の罪は確定された。

 この天使のためなら、何を擲っても、何を踏みにじっても、どれほどの大罪を犯しても、その責は、この身一つで負おう。

 黒く焦げた腕を蹴り砕いた瞬間の喜びが、圧倒的で絶対的な勝利感であったことを、俺は忘れないだろうから。

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