第8場 魅了(1)

 結架の爪弾くチェンバロの調べは、繊細にして優雅、そして果敢はかない華麗さを漂わせている。限りなく清浄で、たとえようもなく美しい。音楽の天使から指導を受けた者たちのあの伝説は、他愛ない御伽噺や子供騙しの虚偽ではなかった。そう思わせるほどだ。聴く者を夢見心地にさせる幻惑的な演奏。僅かな狂いも入り込む余地のない、本物の実力。その完全体の才能には、ムサ──音楽の女神たち──ミューズですら、打ち震えるだろう。

 集一は陶酔を通り越して戦慄した。全身から熱いものが迸りそうになって、彼は自分の身体を腕で押さえる。そして、なんとか楽器を手にした。

 祈りにも似た前奏から、集一のオーボエの幕開けに入る。息の合った四弦楽の合間にチェンバロが優しく響きかけた。

 結架の、鍵盤奏者にしては不思議なほど細く、弱々しい、白い指が黒い鍵盤を叩くたび、雲までもが嘆息を吐くであろう切ない音色が集一の鼓膜を震わせる。その振動が、彼の胸に新しい水源が湧くのを呼ぶ。そして、次々に心の表へと流れ出すのだ。

 曲が中盤にさしかかり、間奏を入れ、再び集一のオーボエが主旋律を奏でる。彼は休止符の間に小さな吐息を放った。

 慎ましく、嫋やかに指を躍らせる結架の妙なる姿を透かし見て、集一は想いを昇華させる。歓びに近いものが彼の感情に沸き上がり、新しい水流を作った。

 大きな瞳を半分ほど瞼と長い睫毛で隠して、結架は楽譜の音符を音響に変換して走らせる。眼から送った譜面の情報を指に送り、旋律と和音を耳に聴こえる音にするのだ。見ているだけで充分に価値のある美の体現者が、さらに価値のある音楽を生み出すさまは、この世のものとは思えない情景だった。

 静かな終末。

 弦の響かせる重荘な振動が、小さく静かに弱まっていくのを、集一は耳を澄ませて聞いた。あまりに自然なために、注意していなければ聞き逃してしまうチェンバロのトリル。

 集一の指に震えが走った。

 あっ、と思った瞬間に、フェゼリーゴが立ち上がった。

 これはまずいと、謝るべく腰を上げた集一にフェゼリーゴが歩み寄り、びくりと周章あわてる彼の右手を両手で押し包んだ。集一は呆気にとられる。

「素晴らしかったです、シューイチ! 貴方の演奏には、見事な艶がありますね」

 肩を叩かれ、フェゼリーゴの満面の笑みを見て、やっと集一は褒められているのだと気づいた。叱責されずに済むと一安心し、ついつい溜息が漏れる。

 今回のような協奏曲編成の楽団では、指揮はチェンバロが受け持つのが通例だ。つまり結架が、ということだが、実際にコンサートマスターとして演奏に全責任を持つのは、彼女ではなく、第一ヴァイオリンのフェゼリーゴである。それは、結架が合奏に関して経験が浅く、未熟であるとして固辞したことと、フェゼリーゴが適任であろうという主催側の意見によって、決められた。つまり楽団のメンバーにミスや不手際があった場合、まずフェゼリーゴに指摘されるのが普通なのである。

「すぐに息が合ったな」

「本当。凄く良かったわ。ね、ユイカ」

 マルガリータが振り向く。鍵盤から自分の膝へと結架は手を移動させる。曖昧な微笑が口元に浮かんだ。

「ええ……とても。……最高でしたわ」

「あ──、ありがとうございます」

 結架の頬が淡く輝いた。

「ところで、そろそろ昼食の頃合いではないかね」

 最年長のアッカルドが休憩と栄養の補充を提案する。一人の例外もなく賛同したので、皆は楽器を手から下ろした。カルミレッリなどは、待っていましたとばかりに早々と、巨大な黒いケースを持ってきて楽器を収める。

 三〇〇年もの期間ときを生きてきた楽器を、それぞれ丁寧に保護ケースの中に置いた。結架は鍵盤を柔らかいクロスでそっと拭い、蓋を閉める。二時間ほどで再び音を出すとはいえ、放置など出来ない。たとえモダン楽器でも、同じようにしただろう。それが、彼らに共通した、音楽への精神だった。

 誰よりも早く支度を済ませたものの、結架は昼食を何処で摂るか、決めかねていた。ここでは演奏者は好きな店で好きなものを選び、自費で食べることになっている。迷った挙句、結架はホテルに新鮮な海産物が食べられるレストランがあるのを思い出した。

「ユイカ」

「え?」

 ヴァイオリンを片づけたマルガリータが、ケースを部屋の隅の台に載せようと歩み寄る途中で結架に話しかけた。

「わたし、日本料理を食べてみたいの。貴女、良いお店を知らないかしら?」

 快活な問いに、結架は眉を軽く歪めた。

「ああ……ごめんなさい。私、この近辺に日本料理店がるかどうかも存じませんわ。お役に立てなくて、申し訳ないことなのですけれど……」

「そんなに丁寧に謝らなくてもいいのよ、ユイカ。でも、そう、残念ね」

 諦めきれずに溜息をくマルガリータを前にして、結架は何とかして彼女に日本料理を味合わせてあげたくなった。しかし、知らぬものはどうしようもない。

「あの」

 涼やかで、控えめな声……。

「日本料理店でしたら、この近くで僕の知己しりあいが経営していますが、宜しければ、ご案内しましょうか?」

「まあ! 嬉しい。ユイカ、貴女も当然、行くでしょう」

「え、私も、なのですか?」

「矢張り、イタリアに来てまで日本料理というのは、お嫌でしょうか」

 寂しげな表情に結架は狼狽する。

「いいえ、そのようなこと……! ご一緒させていただきますわ」

 慌てて同行を宣言した結架を見て、マルガリータが含み笑う。思惑が叶って満足気だ。しかも、いくつかの手間を集一が省いてくれたので、とても簡単に事が運んだと言える。と、横から声が割り込んだ。

「なあ、もしかして、『ツバキ』に行くつもりなのか?」

 レーシェンとアンソニーだった。集一が彼に応える。

「ええ。お二人とも、ご存知なのですか」

「だって、結構、有名な店ですもの。トリーノに来る前に、日本贔屓の友人から教えて貰ったのよ。是非、行ってみると良い、って。ただ、場所は知らないのよね」

「では、ご一緒なさいますか」

「そうさせてもらえると、ありがたいな」

 アンソニーが頷き、マルガリータが喜んでレーシェンの腕にとりつく。

「こうでなくちゃね!」

「もう。貴女、本当に、わたしより年上なの?」

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