義妹へ会いに行こう! その5
翌朝。
レンテリア家の者たちが総出で見送る中、リタが迎えの馬車に乗り込もうとしていると、視界の端にチーロとフィリーネの姿が入ってくる。
するとリタはドレスの裾を持ち上げて「ととと」と二人に走り寄り、仁王立ちになって告げた。
「チーロ。しつこいようだけど、最後にもう一度だけ言うわよ。フィリーネを泣かせるようなことをしたらただじゃ済まさないからね! どんなに遠くからでも駆けつけて、この世の地獄を見せてあげるんだから。覚悟しなさいよ!」
「わ、わかりました! 必ずや彼女を幸せにするとお約束いたします! 決して妻を泣かせるようなことはいたしません!」
「いい? それと赤ちゃんのお世話もね! 忙しさにかまけて、子育てをフィリーネに任せっぱなしにしちゃだめよ。これからの育児は男女参画の時代。私はそう思っているんだから!」
「も、もちろんです! 生まれる子は二人で協力して育てます!」
「よろしい。それじゃあ、フィリーネのことは任せるから。一生大事にするのよ、いいわね!」
「は、はい! わかりました!」
ビシィ! とばかりに指を差し、鼻息も荒くチーロを睨みつけるリタ。その姿は、多くの屋敷の者たちが知る幼女時代の彼女を彷彿とさせた。
あまりの迫力に気圧されながらも、なんとかチーロが返事を返す。それに満足そうにリタが頷いていると、最後にチーロが遠慮がちに口を開いた。
「えぇと……その……リタ様。ここで申し上げるのもどうかと思うのですが……実は一つお願いがございまして」
「えっ? なにかしら?」
「そのぉ……これから生まれてくる私たちの子なのですが、是非ともリタ様に名付け親になっていただきたく」
「えっ……」
まさにおずおずとチーロがリタに告げる。すると次の瞬間、フィリーネが顔色を変えて夫ににじり寄った。
「ちょ、ちょっとチーロ! そんなことをリタ様にお願いしちゃだめよ! ご迷惑になってしまうでしょう!?」
「あ、いや、でも……リタ様は俺たちにとって恩人のようなお方だし……」
「違うって、そんなこと言ってるんじゃないの! 私が言いたいのは――」
がくがくとチーロの肩を揺さぶって、必死にフィリーネが止めようとする。
口ではそう言いながら、それは決してリタの手間や迷惑を
そもそも私は、産まれてくる我が子の名前を楽しみに考えていたのだ。それも男の子と女の子の両方を。
にもかかわらず、リタ様に名づけを頼むとは何事か。それは全くいらぬ世話としか言いようがないではないか。
彼は知らないに違いない。リタ様のセンスが最悪であることを。
リタ様のことだ。本気で「ゲレゲレ」だとか「ビビンバ」といった最悪の名を提案してくることも十分有り得る。それも全く悪気がないのだから余計に
事実、弟のフランシス様が生まれたときには、本気で「トンヌラ」と名付けようとして周囲から必死に止められたのは記憶に新しい。
しかも……しかもだ。
もしもそんな最悪な名を提案されたとしても、こちらから頼んだ手前、幾ら気に入らなくとも断るわけにいかないではないか。
一体なにを考えているのだ、この男は。
などと結婚早々に夫への不満を叫びそうになったフィリーネなのだが、さすがにこの場で言い立てるのは
だから、見えないように夫の脇腹を思い切りつねり上げるに留めた。
「いてててっ! な、なんだい、フィリーネ!?」
「お願いだから撤回してちょうだい! 理由はあとで説明するから!」
「えっ……?」
仁王立ちのリタを前にしたまま、ヒソヒソと小声で相談を始めたチーロとフィリーネ。
その二人に怪訝な顔を向けてリタが尋ねた。
「人を前にして小声で相談なんて、あまり褒められたことではないわね。それで一体何事なの?」
「あ、いえ、その……先ほど申しました、子供の名づけの件なのですが、やはり――」
「あぁ、それならオッケーよ! なにも迷惑だなんて思っていないから遠慮しないで! 最高の名前を考えてあげるわよ!」
「あ、いや、それが――」
全く話を聞こうとせずに、満面の笑みで答えるリタ。
このまま夫に任せていては埒が明かない。
そう思ったフィリーネは、チーロとリタの間に身を滑り込ませてこう告げた。
「リタ様。大変申し訳ございません。先ほど夫が子の名づけをお願いしましたが、やはりご迷惑かと存じますので、撤回させていただきたく――」
「なによフィリーネ、水臭いわね! あなたと私の仲じゃない、全然遠慮なんていらないわ! 産まれてくるまでまだ日もあるのだから、それまでに素晴らしい名前をたくさん考えておくから! それも男の子と女の子の両方ね!」
「いえ、ですから――」
「あっ、ごめん、もう行かなくちゃ! 侯爵様と奥様をお待たせしているの! ――それじゃあ二人とも、身体に気を付けて! 赤ちゃんの名前が決まり次第お手紙で知らせるから!」
「あぁ、リタ様ぁ!」
「じゃあね、フィリーネ! 元気な赤ちゃんを産むのよ! 無事な出産を遠くから祈念しているわ!」
まるで聞き耳を持たずに最後にそれだけを告げると、リタは淑女らしからぬ所作でドレスをつまみ上げてタタタと馬車へ向けて走り去る。
実家である気安さゆえに、己が侯爵家の若奥方であることさえ忘れたような口調と所作は、未だ少女のように可憐で愛らしかった。
その背中を見つめながら、フィリーネとチーロはこの世のものとは思えない絶望感に包まれるのだった。
――――
「リタよ、どうであった? 久しぶりの実家で羽は伸ばせたか?」
リタが馬車に乗り込むと、そこには義父母――ムルシア侯爵オスカルとその妻シャルロッテが待っていた。
彼らも昨夜はムルシア家の首都屋敷で寛いだらしい。
とは言うものの、久しぶりの首都なのだから、王城に挨拶に出かけたり有力貴族と会合を持ったりと、そうそうのんびりもしていられなかったようなのだが。
そのオスカルにリタが答える。
「はい、おかげさまでゆっくりとさせていただきました。侯爵様、奥様。多分なるお心遣いを感謝いたします。久しぶりの再会を両親、祖父母ともにとても喜んでおりました」
「ふふふ、そうでしょうとも。嫁いだ娘になどそうそう会えるものではありませんから。このご時世、会える時に会っておかねば互いに次はないかもしれませんし」
「はい、仰るとおりかと。久しぶりに実家に戻って、私もそう思いました」
などとリタと義父母がいささか刹那的な話をしていると、隣に座るメイドの一人――ミュリエルが突然顔を伏せてしまう。
何事かとリタが顔を覗き込むと、彼女は涙を流して泣いていた。
ミュリエル・デュラント
ハサール王国西部に領地を持つデュラント子爵家の長女である彼女は、3人いるリタ専属メイドの一人だ。
年齢は14歳。13歳の時に行儀見習いとしてムルシア家に来てからというもの、礼儀作法を叩き込まれつつ家事使用人として奉公してきた。
数年内には上位貴族家へ嫁入りする予定になっているため、これまでは腰かけに過ぎなかったのだが、リタが嫁いできたことで大きく扱いが変わることになる。
幸か不幸か、突然ミュリエルは3人いるリタ専属メイドの一人として抜擢されたのだ。
けれど、彼女の仕事の不出来さは有名だった。
ムルシア家に来てから未だ1年と少しではあるものの、これまでの仕事ぶりを見る限り、その将来は困難を極めていたのだ。
ドジでノロマで泣き虫で、甘えん坊の彼女は、ムルシア家にやって来た時から前途多難だった。言われたことはすぐに忘れる、不注意により物をよく壊す、朝寝坊をするなど、仕事の失敗を挙げれば枚挙に
これなら貴族家出身ではない、一般のメイドの方がよほど仕事ができると評判だった。
それでも彼女が実家に戻されないのは、デュラント家がムルシア家の分家筋であることに尽きるのだが、さりとて理由はそれだけではない。
前述のとおりメイドとしては少々難しいミュリエルではあるが、明るく素直で天真爛漫な性格は憎みたくても憎めない。そのうえ容姿も特別だった。
美男美女として有名な両親の血を引くミュリエルは、目鼻立ちが抜群に整っているばかりか、栗色の癖毛が映える真っ白な肌をしていた。
化粧をしなくとも頬は薄紅く染まり、ぽてっとした小さな唇は紅を引いたように紅い。
それだけでも滅多にいない美少女であるのに、さらに彼女は細く小柄だった。
絶賛成長期の14歳ではあるものの、未だ身長が145センチしかないミュリエルは、全く肉感のない華奢な体躯と相まってまるで妖精のように見えるのだ。
そんな愛らしい容姿のうえに明るく素直な性格なのだから、誰もが庇護欲を掻き立てられるのも無理はなかった。
それでも一部の者たちからいじめを受けていたのは事実だ。
他の下級貴族家から来ている、同じ行儀見習いのメイド仲間。その中の数人からミュリエルは嫌がらせを受けていた。
それを見知ったがゆえに、リタは若奥方の強権を発動してミュリエルを自身の専属メイドとして取り立てた。そうすることによって、彼女を守ろうとしたのだ。
とは言え、それは誰の目にも表向きの理由にしか映らなかった。
なぜなら――
「あらあらミュリエル、どうしたのかしら? 突然涙を流したりなんかして」
「ふぇぇぇぇ……わ、若奥様、大変申し訳ございません。突然このような無作法を……すぐに泣き止みますので、どうかお許しください」
「ううん、大丈夫。さぁ、この胸でよければ幾らでも貸すわよ」
女性としては小柄な、身長153センチのリタが、さらに小柄な145センチのミュリエルを抱き締める。まるで妖精姉妹の抱擁を思わせるその様は、誰から見ても尊かった。
向かいの席に座るオスカルとシャルロッテが相好を崩す中、ミュリエルの頭を撫で廻しながらリタが問う。
「どう? 涙は止まりそう? 大丈夫? ――それで、どうして泣いているのかしら? 私に教えていただける?」
「はい、その……ご実家に戻られた若奥様を見ていましたら、私の父と母を思い出してしまいまして……」
「あぁ……そういえばあなた、しばらく実家に帰っていなかったわねぇ。ホームシックかしら」
「も、申し訳ありません。職務を全うすらせずに実家の両親に想いを馳せるなど、到底許されないことはわかっております。だけど……だけど……」
「あぁん、ミュリエル。こんな私でよければ幾らでも胸を貸すから! だからお願い、泣き止んで!」
ぎゅっと強く強くリタがミュリエルを抱き締める。自慢の豊かな胸にメイドの小さな顔を埋めると、辛抱堪らんとばかりに再び頭を撫で廻した。
その様子を見つめるオスカルとシャルロッテの前で、ついに小さなメイドが言葉を漏らす。
「あぁーん、リタお姉様ぁ……ふえぇぇぇぇ!」
「お、お姉様? なんだそれは?」
「リタ……まさかあなた、メイドに『お姉様』と呼ばせているのですか?」
驚きと怪訝が混ざった顔で訊いてくる義父母。
その二人にバツが悪そうな顔でリタが答えた。
「えぇと……そのぉ……申し訳ありません。まるで妹のようにミュリエルが可愛いものですから……つい……」
どうやらリタは、ミュリエルと二人きりの時には自分を「お姉様」と呼ばせているらしい。
そんな少々屈折したメイドに対する愛情を見せつけたリタではあるが、まるで妖精の姉妹のように愛らしい二人を見ていると、それはそれで有りかもしれないと思わず思ってしまうムルシア侯爵夫妻だった。
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