第156話 童貞を殺す方法

「ご無沙汰しております。皆様お変わりはありませんか?」


 次第に夏の到来を感じ始めた、6月下旬のある日。

 昼下がりのレンテリア伯爵家首都屋敷に、若い男の声が響いた。


 すでにこの日、リタの成人の儀まで半月を切っていた。

 そこで今日は出来上がったドレスを見るために、婚約者のフレデリク・ムルシアが屋敷を訪れていたのだ。



 ムルシア侯爵家の本家屋敷は、首都から馬車で5日揺られたところ――領都カラモルテにある。

 現当主のオスカル・ムルシアを始め、妻のシャルロッテ、長女エミリエンヌ、次男ライナルトはそこに住んでいるのだが、長男でありリタの婚約者でもあるフレデリクだけは首都屋敷に住んでいた。

 それは彼が首都アルガニルの私塾で色々と学んでいるためだ。


 現在18歳のフレデリクは、母親の血を色濃く受け継いだためにあまり背は高くない。

 それでも実測で172センチはあるので、153センチしかないリタとの釣り合いがとれていると言えなくもない。

 また華奢な骨格のために身体の線は細く、そのひょろひょろとした体形はお世辞にも武家貴族家の跡継ぎには見えなかった。


 優しげで柔らかい外見は、幼少時の姿の正常進化と言ってよく、風になびくさらさらの濃い茶色の髪と、切れ長な薄茶色の瞳が印象的な絵に描いたような美男子だ。

 まるで脳筋ゴリラのような父親と比べると身体の線は細すぎるのだが、その柔和な見た目は彼の性格を端的に表していた。


 そんな次代のムルシア家の当主が、供回りを二人連れてやってきたのだ。





「最近は如何です? 勉学の方は順調でいらっしゃるのですか?」


 61歳のレンテリア家当主が、18歳の次期ムルシア家当主に伺うような声をかける。

 まるで祖父と孫ほどの歳の差ではあるが、その所作や言葉遣いは礼儀正しい。


 リタの実家レンテリア家は伯爵家だ。

 いくら由緒正しき名門の貴族家と言えど、所詮は伯爵。侯爵のムルシア家には逆立ちしても敵わない。

 もっともこの二つの家の繋がりは昔から良好で、これまでも持ちつ持たれつの関係を保って来た。


 特にムルシア家の先代当主であったバルタサール卿とセレスティノは個人的にも深い付き合いがあったため、その関係は今までで一番だったと言われている。

 そして現在でもこの両家の間には、リタとフレデリクという将来の夫婦となる若い二人の関係もあり、今でも家族ぐるみの付き合いが続いていた。



 まるで祖父のようなセレスティノの質問に、フレデリクが答える。


「えぇ、おかげさまで順調です。兵学と戦術理論は既に修めましたので、あと一年もすれば実家に帰れそうです」


「そうですか。それは何よりですな。毎日お忙しいでしょうが、勉学に全ての時間を注げるのも若いうちだけです。後悔だけはなされぬように」 


「はい。痛み入ります」


「ところで今回の件ですが、本当に残念でした。時期が悪かったと言いますか、まぁ、しょうがないのでしょうけれど」


「はい、こればかりは。そもそも軍隊とは、相手の都合によって動くものではありませんので。その時の状況を受け入れるしかありません」


「それで、お父上の演習にはどのくらいの期間同行されるのです?」


「……申し訳ありません。それは機密事項ゆえ、詳しくはお話しできないのです。お許しを」


 格下の貴族に対しても決して不遜な態度を取らず、常に口調は柔らかく丁寧なフレデリク。

 ともすればその姿は弱腰にさえ見えるのだが、セレスティノは知っている。

 彼のその優しげで気弱に見える顔の下には、意外に頑固で強固な意志が隠されていることを。



「そうですか。まぁ、今回は残念でしたが、その代わり今日は式典でのリタのドレス姿をたっぷり目に焼き付けてお帰り下さい。それが演習での辛さを幾らかでも和らげられれば幸いです」


「ありがとうございます。本日はお心遣いに感謝いたします」


 貴族として格下の相手に向かってペコリと頭を下げるフレデリク。

 そんな孫の婚約者に対してセレスティノが優しく微笑んでいると、応接室のドアがノックされた。


「失礼いたします。 ――お待たせいたしました。リタ様のご準備が整いましたので、これからご案内いたします。よろしいでしょうか?」


 ドアの向こうから顔を出したのは、リタ専属メイドのフィリーネだ。

 彼女はリタの支度が終わったので、これから部屋の中へ入れると伝えにきたのだ。

 

「あぁ。それではお願いするよ。どうぞ、入って」

 

 セレスティノが声をかける。

 すると開け放たれたドアから、青い妖精が現れたのだった。





 そう、まさにそれは妖精だった。

 濃い青を基調にした滑らかに輝くサテンのドレス。

 首と両肩、そして鎖骨の少し下までの肌を見せるなかなかに攻めたデザインで、普段見せることのない白い鎖骨の窪みがセクシー極まりない。


 リタの持つ自慢の乳房を、いやらしく見えないようにさり気ない装飾で隠しながら、腰の部分でキュッとしぼめられている。

 そしてそこから足元までは豪華に、且つ緩やかに重なる幾重ものビロードがまた美しい。

 そんな光り輝くようなドレスの生地は、高級なシルクをふんだんに使ったもので、まさに「金に糸目はつけない」を地でいくものだ。


 輝くようなプラチナブロンドの髪は後頭部から頭上にかけて高く結い上げ、今やリタのトレードマークにもなっている縦ロールももちろん健在だ。

 そしてそのロールの巻き具合も、普段の倍に増し増しだった。 


 もちろん顔の化粧も完璧だ。

 もともと素材自体が極上の上に、数人がかりで究極にまで飾り付けられたリタは、その些か幼い顔つきとも相まって不思議な透明感を醸し出していた。



 そのような、まさに天使か妖精かと見紛うような淑女が部屋の中に入ってきた途端、男たちは様々な反応を見せた。

 祖父のセレスティノはニッコリと微笑み、父親のフェルディナンドは素直に驚き、筆頭執事のエッケルハルトは誇らしげに、そして婚約者のフレデリクは――口を半開きにしたまま固まっていた。


「そ、そんなに見つめないでくださいませ。恥ずかしいですわ……」


 男どもの反応を軽く確認すると、頬を赤らめて恥じらいを見せるリタ。

 その反応がまた別の愛らしさを引き出して、今やフレデリクはリタを直視したまま石像のようになっていた。


 そんな婚約者の姿にリタは心の中で『ふふんっ、この童貞め……』などと冷静に呟いていたが、それをケビンにでも聞かれたなら「どの口が言うのか、この口か」と、逆に吊るし上げられていたに違いない。



「どうですか、うちの娘は? これだけ美しいと、フレデリク殿も鼻が高いでしょう?」


 はっきりとわかるほど自慢げにフェルディナンドが囁くと、フレデリクの意識がこの世に戻ってくる。

 そして慌てたように答えた。


「は、はい!! 美しい……です。本当に、本当にそう思います!! ――綺麗だ……いますぐにでも連れて帰りたい……結婚してしまいたい……」


「はい?」


 最後の言葉が聞き取れなかったのだろうか。胡乱な顔でフェルディナンドが訊き返すと、フレデリクは慌てて首を振った。

 しかしその視線は、未だリタに向けられたままだった。


「な、な、な、なんでもありません!! お嬢さんは本当に美しいと申し上げたまでです!!」


「そ、そうですか……」



 ドレス姿のリタを見た直後から、何やら落ち着かない様子のフレデリクだったが、そんな彼に再びセレスティノが声をかけた。

 その顔には何か面白いものを見たように綻んでいた。


「久しぶりに会ったのです。積もる話もあるでしょう。我々は少し席を外しますので、しばらく二人で話をされるとよろしいでしょう。それでは――」


 その言葉を合図にして、セレスティノを先頭にその場の全員が客間から出て行く。

 もちろん結婚前の男女を二人きりにはできないので、リタ専属メイドのフィリーネがまるで空気のように部屋の隅で控えていたのだが。




 部屋の中で二人きりになると――実際にはフィリーネも入れて三人だが――リタはゆっくりとフレデリクの前まで進み出る。

 そして真っ赤に塗られた小さな唇を開いた。

 日の光を浴びたそれは、まるで濡れているように艶々と輝いていた。


「フレデリク様。本日はわざわざおいで下さりありがとうございます。改めてお礼申し上げますわ」


「い、いや……今日はたまたま時間があったから……大丈夫……だったんだ」


 完全武装のリタを前に、フレデリクはどうしても落ち着かないらしい。

 視線はそわそわと上下左右に泳ぎ始め、どうしてもリタを正視できないようだった。

 しかし時折その視線が止まるところがあった。それも一瞬だけ。

 その動きに気付いたリタがそれを辿ると、そこには彼女が初めて見せる――胸の谷間があった。



 首から肩、そして鎖骨の下までを大胆に露出したデザインのドレスは、必然的にその豊満な胸を上に持ち上げるようなデザインになっている。

 もちろん過度にいやらしく見えないように装飾によって巧妙に誤魔化されているのだが、それでも至近距離で見れば胸の谷間は丸見えだった。


 それがどうやら草食系男子であるフレデリクには、些か刺激が強すぎたようだ。

 今までリタは、そのようなドレス姿を見せたことはない。もちろん胸の谷間なんて以ての外だ。


 同年齢の少女と比べると小柄で童顔のリタの容姿は、あまり性的なものを感じさせない。

 もちろんその容姿は美しくも愛らしいのだが、そこには性的な部分が少ないのだ。


 あったとしても精々体格の割に大きな胸くらいのもので、それだって普段はドレスの下に隠されている。

 だから、そんなリタから初めて性的なものを見せられたフレデリクは、少々戸惑ってしまったようだ。


 その視線に気付いたリタは、見えない角度で意地悪そうにニヤリとほくそ笑む。

 そしてわざとらしく頬を染めながら、上目遣いに小声で囁いてみた。


「いやですわ、フレデリク様。恥ずかしいですから、それ以上見ないで下さいませ……えっち……」


「あ゛う゛っ……」


 それはまさに「童貞殺し」そのものだった。

 そしてフレデリクは、あっさりそれに殺されてしまったのだった。




 そんな二人の様子を、興味津々に見つめる者がいた。

 それは部屋の隅で空気に徹しているはずのフィリーネだ。

 この27歳のリタ専属メイドは、明らかに草食系童貞のフレデリクをからかうリタの姿に衝撃を受けていた。


 外では貴族令嬢の凛とした態度を崩さないリタ。

 誰も見ていない――もちろんフィリーネはいる――自室内では、半裸でうろうろしながらベッドに寝転がってお菓子を食べるリタ。


 そのどちらが本当のリタなのかと問われれば、間違いなく後者だと答えるのだろうが、その場その場でのキャラクターの違いに、時々彼女もどれが本当のリタなのかわからなくなる。


 そして今回初めて「童貞殺し」のリタを見せられて、その姿もまた違和感がなかった。

 そんな些か混乱するフィリーネの前で、尚も二人の話は続く。




「ふふふ……冗談でしてよ、フレデリク様。そう固くならないでくださいませ」


「あ、あぁ……ご、ごめん、リタ。君の……そのぅ……む、胸を見てしまったことは謝罪するよ。わ、わざとじゃないんだっ」


「別にかまいませんわ。いずれあなた様のものになるんですもの。もしももっと見たいと仰るのなら――」


「た、頼むよ、リタ。もうからかうのはやめてくれないか。お願いだ」


「うふふ……ごめんあそばせ。それではもう勘弁して差し上げますわ」


 そう言うとリタは、手に持っていたショールを羽織ると、剥き出しの肩から胸までを全て覆い隠してしまう。

 するとその様子を眺めていたフレデリクは、自分から言っておきながら些か残念な顔をした。



 それでも気を取り直したように、フレデリクは口を開いた。

 ショールによってリタの肌が隠されたことで、彼も少しは安心したらしい。


「ところでリタ。今回はすまなかった。式典への同伴が出来なくなってしまって」


「いいえ、いいんですのよ。だからこうして当日の姿をあなた様にお見せしたのですから。それで――如何いかがでしたか?」


「あぁ。とても綺麗だよ。今の君ほど美しい女性を見たことがない。まさに女神か妖精かと思ったよ」


「うふふ。いやですわ、フレデリク様。そのように歯の浮く台詞セリフ、面と向かって言われると照れてしまいます」


 恥ずかしそうに身を捩るリタ。

 その姿に再びフレデリクが身悶えしそうになっていた。


「う゛ぬ゛ぬ゛ぬ゛ぬ゛……」


 そんな処女と童貞の飯事ままごとのような二人の姿に、別の意味で身悶えをする一人の空気がいた。

 すでに完全に婚期を逃したその空気は、心の底から溢れ出る感情に最早もはや空気に徹し切ることができないようだ。

 

 しかしそんな空気には一切かまうことなく、若い二人は尚も話を続けた。




「それで、リタ。少し考えたのだけれど、今回の軍の遠征は君のために断ろうと思う。もちろん約束はできない。でも上手くいけば、当日は同伴できるようになるかもしれない」


「……それはどういうことですの?」


「もちろんそれは君のためだ。大切な君のためなら、軍の遠征なんて――」


 その言葉を聞いた途端、リタの顔色が変わる。

 しかし顔を見られないように俯くと、唐突に質問をした。



「つかぬことを伺いますが、わたくしと軍の遠征とどちらが大切ですの?」


 リタの質問に、フレデリクは淀みなく答える。

 その顔には自信が溢れていた。


「もちろんそれは君だ。君が一番大切に決まっている!! 君のためなら、今回の遠征は――」


「せっかくですが、お断りいたします。あなたのような方は式典にいらっしゃらなくて結構です。どうぞ心置きなく遠征にお出かけ下さいませ」



 とても最後まで聞いていられないとばかりに、婚約者の言葉を遮るリタ。

 突如上げたその顔には、今や笑みの一つも見つけられなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る