第136話 妖精族の女王
「おや……気が付いたようですね。よもや手遅れかとも思いましたが、元気になってなによりです。――人間の娘よ」
未だ立ち上がることもできず、地面に座り込んだままのブリジット。
そんな彼女がリタに質問をしていると、突然背後から声をかけられた。
すると二人は、そのあまりの唐突さにゾクリと背筋を伸ばしてしまう。
リタとても長年の修行によって人の気配を読む術を会得していたが、その彼女にして存在を感じ取ることができなかった。
ふと気付いた時には既に近接魔法の攻撃範囲内に入り込まれていたのだ。
もしもこれが無詠唱魔術師同士の戦いであったなら、恐らくリタは殺されていただろう。
それを思うと決して笑えないリタだったが、かけられた声にはまるで敵意が感じられず、彼女は密かにほっと胸を撫でおろしていたのだった。
前世で世界最強の魔術師と謳われたリタ――アニエスは、常にその命を狙われ続けた。
敵国の暗殺者には日常的に付き纏われていたし、それが国内であっても同様だった。
逆恨みをした貴族に闇討ちをされたり、王族に消されそうになったり、はたまた陰謀に巻き込まれたりと、命を狙われた回数を数えるとそれこそ枚挙に
それはアニエスがたとえ王族に対しても遠慮なく批判し、正論を吐き、そして意見をしてきたからだ。
歯に衣着せぬ忌憚のない彼女の言葉は常に正しかったが、その分多くの敵を作った。
師匠からはいつもそれを注意されたが、アニエスの真っ直ぐな正義感は己を曲げることを良しとせず、常に正しくあろうとし続けたのだ。
結局はその突き抜けた態度が逆に多くの人々から信頼される理由ともなったのだが、それと同時に多くの敵を作り続けてきたのもまた事実だった。
そんなリタはもとより、地面に座り込んだままのブリジットも身構えてしまう。
しかしその声には決して敵意は感じられず、それどころか、思わずずっと聞いていたくなるような美しい響きだった。
そのあまりに心地よい声に、森の妖精でも出てきたのかと思ってしまう。
そして彼女たちが咄嗟に顔を向けると、そこには一人の美しい女性が立っていたのだった。
雪のように真っ白な肌と、腰まで伸びる白に近い金色の髪。
切れ長ではあるが決して冷たくはなく、むしろ優し気に細められた美しい瞳。
真っ直ぐにスッと線を引いたような白く高い鼻。
にこやかに弧を描く、紅く艶やかな妖艶な唇。
どれをとっても美しく完璧であるうえに、その全てのパーツがまるで神の造形かと見紛うようなバランスで配置されている。
顔だけでもまさに絶世の美女と言っても差し支えなかったが、その肢体もまた別格だった。
スラリと背は高く、顔は小さく、手足も白く長い。
そして女性らしい身体の丸みは、同姓ですら感嘆の吐息を吐いてしまいそうなほどのバランスだ。
そのようなまさに女性としての完璧な身体を丈の長い透けるような薄絹のドレスで隠し、さらに全身の輪郭が淡く光っていた。
その姿に、リタもブリジットも思わず目を瞬いてしまう。
そして気付けば、無意識に何度も目を擦っていた。
未だ夜が明けていない薄暗闇の中に、間違いなく彼女の姿は光を放っていた。
それは決して目の錯覚などではなく、何度目を擦っても、瞬いてみてもそれは変わらない。
明らかに彼女の身体自体が光を放っているようにしか見えなかったのだ。
そんなまるで女神にしか見えない女性が、徐に口を開いた。
「初めまして。
「ティターニア……?」
「……」
何度聞いてもその声は美しく、透き通るようだ。
決して大きくはないその声は、夜明けの薄闇の森の中に静かに消えていく。
そんな女神のような女性を目の前にして、リタもブリジットも驚きのあまりその身を固まらせていた。
『ティターニア』と言えば、全ての妖精族を統べる女王として知られている。
その存在は精霊界に属し、寿命がなく悠久の時を生きる彼女は、人間がこの世に蔓延る遥か昔から存在し続けているとさえ言われてきた。
様々な地の伝承でその存在は語られていたし、古い文献にもその名前は出てくるのだが、はっきりとした記録が残っていなかったためにその存在はそれまで疑問視されていた。
言うなればそれは、半ば神話の住人のような存在だと思われてきたのだ。
しかし今から約三百年前、当時最強との呼び名の高かった魔女「シャンタル」の前に、ティターニアはその姿を現し、その時初めて彼女が実在することが確認された。
そしてそれ以来、人々の興味を惹き続けてきたのだ。
それは何故なら、彼女が絶世の美女だとの呼び名が高かったからだ。
特に男はその美しさを一度見てみたいと思ったし、女であってもその完璧な美に興味をそそられた。
しかしティターニアは決して興味本位の人間の前には姿を現さず、常に伝説であり続けた。
それが余計に彼女を摩訶不思議な存在と化し、その姿をひと目見ようと人々を魅了してきたのだった。
その言葉が嘘でない限り、目の前の女性こそが妖精族の女王「ティターニア」に間違いない。
そのあまりの衝撃に、ブリジットは当然のこと、リタまでもが口を大きく開けたまま文字通り固まっていた。
そんな二人を尻目に、突然ユニ夫がふらふらとティターニアに近づいていく。
そして母親に甘えるかのように、彼女の胸に鼻面を擦りつけた。
「ヒヒン……ブルブル……ブフゥー」
その顔はリタに見せるものとはまるで違っていた。
確かに今までもユニ夫はリタに甘えることがあったが、付き合いが二百年以上になるリタにさえ、ユニ夫はそんな顔を見せたことはなかったのだ。
まるで我が子のように愛おしくユニ夫を撫でながら、ティターニアは固まるリタとブリジットに視線を移す。
そして面白そうな顔をすると、再び話を続けた。
「ふふふっ。そのように驚かなくともよいのですよ。どうやら
まるで作り物のように美しく、気高く神々しい存在にしか見えないティターニア。
そんな彼女が声を出して笑い、気軽に話しかけてくる様子に、些か肩の力が抜けたのだろうか。
リタよりも先にブリジットの方が言葉を発した。
「ティ、ティターニア様……!! ほ、本物なのですか?」
「はい、本物ですよ。あなた方がどう思っていようとも、
何が面白かったのか、ティターニアは自分の言葉に少しだけ笑い声をあげた。
そして再び真っすぐ二人を見つめる。
ともすれば冷たい印象を与えがちな切れ長の瞳は、優しく細められていた。
「何故
「……」
そんな女王の独り語りにブリジットが答えに窮していると、ふと気づいたようにティターニアが視線を移す。
そしてその顔に優し気な微笑を再び湛えると、リタの背後に隠れている一匹のピクシーに声をかけた。
「……もしかしてあなたは、メルガブリルの森の『Φй∇Эюжθζ∬∂』ではありませぬか? なんという奇遇なのでしょう」
「えっ……!! あ、あたしの名前を……知ってるの? それに、奇遇……ってなんなの?」
突然声をかけられたピピ美は、文字通り飛び上がってしまう。
それは驚きのあまり固まっているリタ達とは違う理由だった。
目の前の女性の正体にはすぐに気づいていたが、あまりに恐れ多すぎてピピ美は己の身を晒すのを躊躇していたのだ。
普段は無礼で不遜な物言いをするピピ美だったが、さすがに自分たちを統べる存在の前に怖気づいてしまったらしい。
緊張のために小さな身体を震わせるピピ美に対し、ティターニアは優しくにこやかに語りかけた。
「えぇ、もちろん知っていますよ。なんと言っても
「えぇ……」
「先日
「里に?」
「はい。 ――あなたの母が心配していましたよ。外の世界はどうなのか、身体は大丈夫なのかと、それはもう何度も。もしも会うことがあれば、愛していると伝えてほしいと頼まれもしました」
「
母親を思い出したのだろうか。
ピピ美は小さな身体を震わせて突然ポロポロと涙を流し始めると、リタのローブの陰にその身を隠してしまった。
そんなピクシーの様子を気遣わしそうに眺めていたティターニアは、次にリタの顔を見た。
そして未だその身を固めたまま、ポカンと口を開ける幼女に話しかけてくる。
「あなたがこの子を託された者ですね。 ――なるほど、これは確かに頼られるでしょう。
「なっ……」
未だ自己紹介も済んでいないのに、妖精の女王の口から当然のように自分の名前が出てくる。
その突然の出来事に、リタはたれ目がちな灰色の瞳を再び大きく見開いた。
「な、何故に、わちの名を……」
「ふふふ……私はこの世に起こることは大抵知っていますよ。黙っていてもこの耳に入ってくるのですから。もちろん全知全能ではありませんので、知らないこともたくさんありますが。それでも、あなたが今ここにいる理由くらいは知っています」
「なぬっ!?」
「ふふふっ。そんなに怖い顔をしないでください。せっかくの可愛い顔が台無しではありませんか。それで、あなたがここに来た理由ですが――弟子を助けに来たのでしょう?」
「弟子……?」
横で聞いていたブリジットが怪訝な顔をする。
しかしそんな胡乱な顔に一向に構うことなく、リタはひたすらロレンツォの無事を知りたがった。
そしてまるで掴みかかる勢いでティターニアににじり寄る。
「ロレンツォのことがわかるんか!? や、
「リタ……そう慌ててはいけません。たとえ知っていても、
「な、なんじゃと……」
「とは言え、彼が無事かどうかくらいなら――まぁいいでしょう、教えて差し上げます。その代わり――というわけではありませんが、この後に私の話を聞いていただけますか? そして願いもです」
「願い……? なんじゃ……? わ、わかった。とりあえず、ロレンツォの様子を教えてくろ」
「そうですか、聞いていただけますか。よかったです。 ――それでは教えて差し上げましょう。あなたの弟子は無事ですよ。しかしそれは、かろうじてと言ったところでしょうか」
「かろうじて……? それは……」
「つまり、時間がないということです。今はまだ無事ですが、刻々と状況が変わりつつあるのです」
「なんじゃと!!」
その言葉を聞いたリタは、話が途中であることも忘れて駈け出そうとする。
そして直後にユニ夫の存在を思い出すと、急いで彼に近づいた。
しかしユニ夫は未だティターニアの胸に鼻面を擦りつけながら、甘えたままだった。
そんなせっかちなリタを、やんわりと妖精の女王が押しとどめる。
「お待ちなさい。
「じゃ、じゃが、時間が!!」
「そのくらいなら大丈夫です。五分や十分ここで話をしていても、すぐに状況が変わることはありません」
「……そ、そうか、わかった。そりで、おまぁの話とやらは、なんぞ?」
物腰も口調も柔らかいのだが、何故か逆らい難い迫力を感じたリタは、逸る気持ちを無理やり押さえつけながらティターニアの話を待つ。
すると彼女は、訥々と話を続けた。
「
「……」
「この戦乱はすぐにこの森にまで及びます。そしてこの森を踏み荒らし、蹂躙し、そして火を放つでしょう。全ての妖精たちは
訥々と語るティターニアの顔には、これまでと変わらない微笑が湛えられていた。
しかしよく見ると、直前まで優し気に細められていた切れ長な瞳には不穏な色が見え始め、まるで作り物のような美しい顔には得も言われぬ迫力が溢れて始める。
間違いなくそこには人知を超えた何かが存在していた。
それに気付いたリタは、思わず音を立てて唾を飲み込んでしまう。
「そこであなたに頼みがあります。――いえ、これは
「命……なんか?」
「はい。まどろっこしいことは嫌いです、単刀直入に申しましょう。 ――あなたにはこの戦を終わらせていただきたいのです。この意味がわかりますか?」
「戦を終わらせる……? しかし、わち一人にそんなことが……」
顔に笑みを湛え続けるティターニア。
そんな彼女に例えようのない迫力を感じたリタは、意に反して思わず後退ってしまう。
確かに彼女の言いたいことはわかるのだが、果たしてそこまで踏み込んでいいものなのだろうか。
これは
それに対し、こんな個人が一人で関与していいのだろうか。
ましてや、戦を終わらせるなど……
そんなことをリタが真剣に考えていると、依然目が笑わないままの妖精の女王がさらに言い募る。
「力を持つ者は、それを振るわなければならない時があるのです。言い換えれば、それはその者の責任――いえ、義務とも言えるでしょう」
「……」
「そしてあなたにはその力がある。そう
「しかし、わち一人に何ができるん? こんな小さな身体では……」
恐らく迷っているのだろう。
些か言い訳めいた言葉を漏らすリタ。
そんな五歳児に向かってニッコリと微笑むと、再びティターニアは口を開いた。
「心配せずとも大丈夫です。あなたであれば、必ずや成し遂げることができるはず。何故なら、あなたはあのアニエス・シュタウヘンベルクなのですから」
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