第103話 久し振りの夫婦の夕食
「ただいま。――俺の女神様と天使ちゃんは元気かな?」
「お帰りなさい、あなた――うふふ、天使ちゃんは相変わらず元気ですよ。女神様も愛するご主人さまの顔が見られて元気が出ました」
午後五時過ぎにケビンが自宅へ帰ると、そのあまりに早い帰宅に驚きながらも妻のエルミニアが出迎えてくれる。
臨月を迎えて大きく重くなったおなかを抱えながら、その愛らしい顔に満面の笑みを浮かべた。
そんな最愛の妻にただいまのキスをすると、ケビンはエルミニアの大きく膨らんだおなかに話しかけた。
「やぁ天使ちゃん、ただいま。今日もいい子でいたか? 父上はお前に会える日を楽しみに待っているからな」
「うふふ。お医者様が言うには、もうそろそろなんですけれど。初産は遅れると言いますから、気長に待ちましょうね」
魔王を撃ち滅ぼし、国中から勇者と崇められる男が自分の下腹部に優しげに話しかけている。
そんな姿を眺めながら、可笑しそうに、そして幸せそうにエルミニアは笑っていた。
昨年六月に結婚して、はや一年と少し。
政略結婚だらけの貴族社会の中では珍しく恋愛結婚をした彼らは、周りから羨ましがられている。
結婚してからもその仲睦まじい姿は周囲の微笑みを誘い、これから結婚を控える若者たちの間でも彼らは羨望の的になっていた。
そのおかげという訳でもないのだろうが、結婚直後から毎晩(多い日には朝も)のように仲良くした二人にはすぐに子供ができた。
そしてそろそろ臨月といったところだったが、なかなか生まれてくる気配も見られずに、最近では些か不安になっていた。
とは言え、そう口にするのはケビンばかりで、当のエルミニアにいたってはなんとも呑気だったのだが。
結婚してからケビンは国の重要な仕事を任される機会が増えた。
幼少時にアニエスに引き取られてから十年。「魔王討伐」という目的のもと剣技と体力、そして魔法の腕を磨いてきた彼だったが、今では専らデスクワークが中心だ。
あとは国で開かれる様々な催しに王族の名代として出席したり、各種施設や教育施設に表敬訪問をしたりと、国の顔としての役目も担っている。
そんなケビンは、毎日のように帰りが遅かった。
しかも週に三日は日付を跨いで帰宅するほどの激務ぶりで、その忙しさは見ているほうが心配になるほどだ。
しかし彼がどんなに遅く帰って来ても、妻は寝ずに待っていてくれた。
お腹の子供のこともあるので、エルミニアの寝不足を心配したケビンは何度も先に寝ているようにと言ったのだが、彼女は頑として言うことを聞こうとはしなかった。
それでも湯浴みを終えたケビンがベッドに潜り込むと、その直後に彼女は寝息を立ててしまっていたのだが。
そんな妻の寝姿を見たケビンは、なにやら悶々とすることが多かった。
そんな毎日だったが、それでも彼らは幸せだった。
ただ一緒にいられるだけで、二人は満足だったのだ。
久しぶりに夫と一緒に食事をとることができるとあって、嬉しそうにエルミニアが笑顔を振りまいている。
妊娠してから全体的に肉付きが良くなった彼女は、その愛らしい顔も全体的に丸くなっており、柔らかい微笑みが似合うその姿にはすでに母親の貫禄が溢れていた。
ケビンがそんな妻を愛おしそうに眺めていると、その視線に気付いたエルミニアがニコリと微笑んだ。
「今日はいつもより早いですけれど、お仕事はもう終わりなのですか?」
「あぁ。今日は緊急の会議が入ったからね。全ての予定がキャンセルになったんだよ。明日からの地方出張も全部なくなった」
「あら? それでは明日の夕食もご一緒できるのですか? うふふ、それは楽しみですね。 それで――緊急会議ですか? なにかあったのですか?」
「あ、あぁ……ちょっと他国との間にトラブルがあってね。その対応を決めるのに、今日は一日会議だったのさ」
些か疲れたような顔でケビンが話をすると、直前までの笑顔を消して心配そうに見つめた。
そんな妻の顔も愛らしくて、ケビンは思わず微笑んでしまう。
すると彼女も釣られて笑みを浮かべた。
「そうですか……外交がらみなのですね。 ――かなり込み入ったお話なのですか?」
「うん、そうだな……どのみち君には話さなければいけないことだから、いまその話をするよ」
急に真顔になると、言い辛そうにケビンが口を開いた。
そんな夫の顔を真っすぐに見つめながら、エルミニアは真剣な表情で話に聞き入ったのだった。
「えぇっ!! あなたがハサール王国に行かれるのですか? どうして!?」
国王の代理として自分がハサール王国に赴くとケビンが告げると、エルミニアは驚きのあまりその大きな瞳をさらに大きくした。
それから唇を尖らせると、盛大に拗ねたような顔をする。
そんな顔をしていても、彼女の顔の愛らしさは微塵も損なわれてはいなかった。
「父上があなたを行かせると言ったのですね。……他に適任者はいないのですか?」
「まぁな。……頼むから陛下を責めないでくれよ。これは仕方がないんだ。まさか相手から名指しされているセブリアン殿下を行かせるわけにもいかないし、かと言って陛下自らが出向くわけにもいかないだろう?」
「まぁ、そうですが。それにしても……よりによって、どうしてあなたが?」
それに続いて『もうすぐ赤ちゃんだって生まれるのに』と言いかけて、彼女はその言葉を飲み込んだ。
その様子には気付かずに、ケビンは小さく息を吐く。
「こう言ってはなんだが、この人選は最適なんだ。国王の名代として行かせるからには、位の低い貴族を行かせるわけにはいかない。かと言ってイサンドロ殿下のような王族に行かせるわけにもいかないだろう?」
「まぁ、そうですけれど……」
「そもそもどんな目に会わされるのかもわからないんだ。誰だって行きたくなんてない」
「――そこまでわかっていながら、どうしてあなたなのですか? そんな危険なところに……」
「ハサール国王の前に立っても失礼にならないだけの身分を持つ人物。それでいて交渉ができて、いざとなったら自分の身を守れる者――」
ケビンの言葉に、エルミニアの顔に理解の色が広がる。
しかし理解はしても感情がそれを邪魔するらしく、相変わらず彼女は渋い顔をしていた。
そんな妻の顔を、微笑みながらケビンが眺めていた。
「あぁ……そうですね。確かにあなたなら……」
「君もそう思うだろう? そこで俺の出番なんだ。君と結婚したおかげで、今では俺も王族の一員だ――もっとも末端ではあるけどね。俺の爵位は公爵だけど、それでも王家の親戚であればハサール国王にも失礼にはならないだろう」
そこでケビンは可笑しそうに笑った。
この話の何処が笑えるのかわからないエルミニアだったが、夫の笑みに釣られるように彼女も笑みを浮かべる。
しかしその笑顔は些か引きつっていた。
「そんなわけで、国民からは魔王殺しの勇者と呼ばれ、公爵であって王族の一員でもある俺に白羽の矢が立ったというわけさ。自分で言うのもなんだけど、これだけの人物が出てくればハサール王国としても文句はないはずだからね」
「確かにそうですけれど……」
エルミニアは小さな溜息を吐いた。
その顔には、何処か諦めに似た表情が浮かんでいる。
自分がここでどう言おうとも、この決定には何ら影響を及ぼすことはない。
そんな無力感にも似た感情が彼女を支配していた。
「そんな顔をしていても面白くないだろう? やっぱり君は笑っている顔が一番可愛いよ。さぁ、笑って、笑って!!」
「はい……とにかく無事に帰って来て下さいね。この子だってあなたに会えるのを楽しみにしているのですから」
「俺だってそうさ。一日も早く天使ちゃんには会いたいよ。だからどんなことがあっても俺は無事に帰って来る。――大丈夫、俺は魔王を倒した男なんだぞ? もう少し安心した顔をしてくれよ」
ケビンの言葉にエルミニアは無理に笑顔を作ろうとしたが、眉は垂れ下がり、口の端が引きつったその顔は到底笑顔と呼べるものではなかった。
それでも彼女は暫く努力していたが、徐々に自分の表情がおかしくなってきたのに気付いて、無理に笑うのをやめてしまう。
そして小さく息を吐きながら、話を続けた。
「……それで出立はいつ頃のご予定ですか? どのようなルートで行かれるのです? ハサール王国へはアストゥリア帝国を抜けるのが一番早いのでしょうけれど、それはさすがに――」
「いや、それがそうでもないらしい。どうやら帝国側は道を通してくれるらしいんだ」
「道を? 通してくれるのですか? ……大丈夫なのでしょうか? 何かの罠では?」
「いや、それはないだろう。今回の会談はあちらから望んできたことだ。それを途中で暗殺などしてしまえば、彼らは他諸国に対する信用を貶めてしまう。さすがにそれは望んでいないだろう」
「……それならいいのですが」
「それどころか、帝国内では街道沿いの宿場まで使わせてくれるらしい。ここまでお膳立てされてしまえば、さすがに行かないわけにもいかないだろう。――もしかして初めてなんじゃないか? 王国民が帝国内を白昼堂々と闊歩するだなんて」
「確かにそうですね。あなたはその一人目になるのですね……」
「ははは、そんなの全く嬉しくもなんともないけどな」
「ふふふ……」
「ハサール王国までは――馬車だと二週間位かな? 馬で移動するともう少し早いのだけど、国の使節が騎乗して移動するわけにもいかなくてね。あぁ、しきたりってのは面倒だな」
ケビンは小さくため息を吐く。
それから妻の大きく膨らんだおなかに視線を移した。
「出立は五日後だ。これから色々と準備があるので、その日程になった。それまでに天使ちゃんが生まれてくれればいいんだけど」
「そうですね。できれば出立までにこの子を抱かせて差し上げたいのですが。こればかりは……この子は気まぐれみたいですから」
「ははは、そうだな」
最後に大きく笑い声を上げると、ケビンは優しく妻のお腹を撫で回したのだった。
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