第15話 目の前に

”ヒューレーの森の動物たちは、困り果てていた。町に住む人間たちが、毎日狩りをしにやって来るようになったからだ。人間の数は日に日に増えた。森の外周に住む小鳥やキツネは真っ先に数を減らした”



 グランドキャニオンのテゾーロ博士の物語とはまったく違うものだった。

 ユイは思わず速度を落とした。

 ペン太も「どうしたんだい?」といぶかしげに見上げる。


「なんだろ……何か引っかかって……」

「ユイ?」

「ううん……何でもない。いこっ」


 ユイは正体の分からない不安を無理やり振り払った。考えても答えが出そうになかった。

 気持ちの良い草原の風を浴びて、さらに駆けた。

 本の声が続く。



”動物たちは恐れおののいた。風の噂で、人間の町の王が森にやってきて、森を支配するという話を聞いた。森一番の猿の賢人アエルは、年老いた体に鞭をうって、多くの動物たちの中から戦えそうなものを集めた。しかし、砂煙をあげて近づく人間の兵の数を見て、すぐに考えを改めた”



 ずっと無言で本の声に耳をすませていたユイが、また速度を落とした。歩みが止まりかける。


「ユイ、体調が悪いのかい? 無理なら少し休んで……」


 案じ顔のペン太が、前に回る。

 ユイの顔が青白い。


「ペン太……さっきの水色のバッジって見える?」

「ん? 当たり前だろ? 森のちょうど真ん中あたりに光が射してる。その中にちゃんと見えてるよ」

「森の中央で間違いない?」


 ユイが小さな声で確認する。ペン太がうなずいた。


「……まずいかも」

「ユイ?」


 ペン太がのぞきこむ。

 ユイは冷や汗を浮かべて顔をあげた。


「たぶんこの世界って――」

 ユイが口にしかけた時だ。再び本の声が鳴り響いた。



”人間の群れは自分たちの力ではどうにもならない。助けを求めるしかない。賢人アエルは、最も頼りになる仲間、ピロスに頼んだ。ピロスは快く引き受けた。「体が大きいだけの私がきみたちの役に立つのなら」ピロスはのそりと体を起こした。森の中央で、最大の生物が数百年ぶりにほえた”



 ――グガァァァァア!


 ユイは思わず耳をふさいだ。ペン太は立ち尽くし、尾を動かしながら、両手をばたつかせた。


「こ、これはどうなってるんだ?」

「ドラゴンだ……」


 ユイは巨大生物に目をくぎ付けにして言った。

 心臓ははげしく音をたて、耳奥には未だに大声が反響していた。

 森の中央で、銀色の首がにゅうっと伸びた。巨大な体が持ち上がり、木々が次々と折れる音がする。体の向きを変えるだけで、地面がぐらぐらと揺れ、地響きのような音が周囲に広がった。

 無数の小鳥がそれを歓迎するように、ぐるぐると上空を飛び回っていた。


「あっ!」


 ペン太が声をあげた。

 ドラゴンの背に、空から降る光が射していた。磨き上げたガラスのような銀色の鱗が太陽光を反射する。

 水色の光が、その中でちかちかと輝いた。


「うそだろ……」


 ペン太がとんでもない事態に顔をゆがめた。


「たぶん背中に引っかかってるね……」


 ユイもどうしようもないと首を振った。


「ユイ……この本の内容を知ってるのかい?」

「うん。最近図書室で読んだ本。三日前に出たばっかりだったはず」

「つまり、図書界にまだやってきてない本ってことか。知らなくて当然か……どんな内容なんだい?」


 ペン太がまばたきをせずユイを見つめる。やるせない顔で「信じられない偶然だな」とつぶやいた。


「ピロスっていうドラゴンが、森の仲間と協力して人間を追い払う話。最後は、ピロスが森の守り神としてあがめられて、森はずっと残って人間とも仲良くなるってお話」

「それって……」

「最悪かも」


 ユイがため息をつく。

 ペン太の瞳がうつろになった。


「さっきから、なぜかぼくらは本の住人に干渉されるようになったんだぞ?」

「わかってる。だから最悪かもって」

「最悪どころじゃないぞ!」


 ペン太が両手をばたつかせる。視線が泳ぎ、慌てふためいている。

 遠くでピロスが動き出し、人間たちに向かった。


「ドラゴンだと!? リスに追いかけられる方が、まだマシだ!」


 ユイがうなずく。

 言いたいことはよくわかる。

 ピロスがどんなドラゴンかはわからない。物語の中では長い年月を生きているが、根は弱虫のドラゴンだ。事情を話せば背中に引っかかったバッジを取らせてくれるかもしれない。

 しかし、グランドキャニオンの一件を思い出せば、本の住人が自分たちの話を素直に聞いてくれるとは思えない。

 見つかればまた追いかけられるかもしれない。

 まして、『ピロスと森の仲間たち』は、人間と敵対するところから話が始まる。ペン太はともかく、ユイは人間だ。見た瞬間に敵として襲われるかもしれない。

 小さなリスならまだしも、マンションほどに大きなドラゴンと追いかけっこなど無理だ。相手が一歩詰めるだけで、二人はぺしゃんこになるだろう。

 自分の後ろを地響きを立てて巨大なドラゴンが走ってくるなど想像もしたくない。

 ペン太も同じだろう。どう見ても顔がひきつっている。


「ユイ……ど、どうしよう?」

「どうするって……ペン太はバッジいるんでしょ?」

「そうだけど……」

「何かうまい方法はないの? たとえば……ドラゴンを少しだけ気絶させるとか? 図書ペンギン道具に眠らせるものないの? おやすみヒマワリとか」

「そんなに都合のいい道具はない」


 ペン太がやるせない顔で首を振った。「それに」と続ける。


「ケガをさせたり、眠らせたり、本の登場人物に直接手を出すのはタブー中のタブーだ。図書ペンギン司書が絶対にやっちゃならないことだって教わるんだ。ただ……」


 ペン太が苦し気に言って、下を向いた。

 しかし、言葉は続かない。


「ペン太……」


 本当は、ユイが知らない方法があるのかもしれない。

 でもそれをすれば、たぶん罰が与えられるのだろう。もしかすると、図書ペンギン司書の夢が潰えるのかもしれない。


「これが最後のチャンスになるかもしれない……『図書ペンギンにしかできない冒険をしなさい』っていう試験の本当の意味は、どんなピンチでもチャンスに変えなさいってことかもしれない……ぼくは知らず知らずのうちに、チャンスを逃してきたかもしれない……」


 ペン太がのどから声を絞り出すように言った。

 自分に言い聞かせているのかもしれない。

 ドラゴンをにらみ、視線を落とす。何度も繰り返した。

 思えば、ペン太はずっと図書ペンギン司書にあこがれていた。見習いの自分が嫌いなのかもしれない。ユイに知識をほめられるたびに、「図書ペンギン司書を目指しているからな」と胸を張っていた。

 危険な図書界を何年も一人で歩いてきたのだ。

 そして、目の前にようやくチャンスが訪れた。

 ただ、もし失敗すれば――

 ユイは胸がしめ付けられた。そっと視線を外した。


「……ペン太、もし登場人物に手を出しちゃったらどうなるの?」

「噂は知ってるけど、ほんとのところはわからない。最大のタブーだから、どうなるかなんて試したことはないよ。でもたぶん……見習いすら辞めさせられると思う……」

「そうなんだ……」

「ただ、協会にばれずにバッジを手に入れられれば――」


 ペン太の瞳に怪しい輝きが灯った。

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