第73話ー④ 予兆
六月五日
一〇時〇〇分
ヴィルヘルミーナ軍港
「改装の仕上がりも上々のようですね」
「でしょう? 三〇番艦以降の仕様変更に合わせてね」
皇帝と侍従の一団に付き添って、柳井はヴィルヘルミーナ軍港の皇帝座乗艦、インペラトリーツァ・エカテリーナを見上げていた。
メアリーⅠ世が帝冠を戴くより前、近衛軍司令長官時代に先帝ゲオルク=バルタザールⅢ世から下賜された戦艦は、今や同級艦のネームシップとして、更に後発の艦のためのテストベッドとしての役割も担っていた。
帝国全軍の総旗艦として相応しい通信能力、防御力を併せ持ちつつ、機動力と火力も落とさない。皇帝メアリーⅠ世が自身も最前線に躍り出ることを想定した改装は、今後もインペラトリーツァ・エカテリーナ級の建造のための貴重な運用実績として積み重ねられていく。
「改装後の試験も兼ねて、二週間くらい本国宙域の視察に行ってくるわ。留守は任せる」
「は……」
「何か懸念でも?」
柳井の微妙な表情の変化に、皇帝はすぐに気がついた。
「ベルセフォニア共和国情勢が些か不安です。ここ数ヶ月で急激に悪化しつつあります」
「……あなたに帝都から離れられると、中央政治情勢が不安ね」
帝国宰相にして臨時代理とは言え前首相。柳井の政治的な重みというものは絶大で、政局らしい政局を押さえ込んでいた。物理的に柳井が長期間帝都にいない状況は、中央政局の変化をもたらすものと多くの政治評論家が予想していた。
「一ヶ月やそこらで情勢が急変するとは思いたくないですが、何せ相手が
「オデットでも呼びましょうか」
「ピヴォワーヌ伯も、ベルセフォニア共和国情勢が悪くなれば領地を離れるわけにはいかないでしょう。それに、陛下がいない間には解散権を行使することができないのが不文律です」
最近のハガード政権は、何をやっても支持率が緩やかに降下していくことに手詰まりになっていて、政局の変化をもたらすために下院の解散権を行使するのではという予測もあった。
現状政権支持率が四〇パーセントを割り込みはじめたところに加えて、与党支持率、特に帝国民主党の支持率が三〇パーセントを切り、与党の合計としても四〇パーセントに届かない現状を打開できる方策は、解散総選挙を打つしかないという、政権幹部筋とされるコメントがまことしやかに流布するほどだった。
「ともかく、短慮は禁物だと言い含めておいてちょうだい」
エカテリーナへのタラップを昇る皇帝を見送り、柳井はその足で首相官邸へと向かうことにした。
一〇時四三分
首相官邸
「短慮は禁物……ですか」
ハガード首相は国防大臣時代も含めると一〇年以上、帝国中央政府閣僚の席を占めている。帝国宰相になってから初めて顔を合わせたときよりも頬がこけたように見える首相に、柳井は諭すように念を押した。
「陛下がいない間に解散権の行使はできないのが不文律。政権にスキャンダルがない以上、冷静に考えれば現与党の政権が継続することこそが、帝国の国益にも適うというのが陛下の思し召しでもあります。短慮は禁物です」
「分かってはおりますが……民意というものは難しいですね」
ソファに深く腰掛けたハガード首相は、目頭を揉んで天を仰ぐ。
「帝国のため、臣民のためが信条でしたが、こうしていると何が正しいのか、さっぱり分かりません……あ、いや、失礼。聞かなかったことに」
「……いえ、わかります……私などは、陛下や中央政府の皆様が居るからこそ動けているようなもので」
「そんな、殿下は」
「私の権威というものは、強力な後ろ盾があるからこそ。全てを外した素の柳井義久というものには、そんなものなどありはしないのに……」
柳井はそう言うと、出されていたコーヒーにようやく手を付けた。
「……ともかく、まだ政権が倒れると決まったわけでもありません。それに、万が一倒れるにしても、倒れ方というものがあります。次期政権がどこになるにせよ、政治の停滞は許されません」
「はっ……」
一四時三九分
ライヒェンバッハ宮殿
楡の間
皇帝不在中の職務代行については、すでに一〇年以上やっていることであり、柳井にとって特別な仕事ではない。宰相府の規模が拡大したことで、皇帝不在でも何ら不都合はなかった。
ただし、柳井にはレヴィガータ伯国領主の役目もあり、そちらの仕事を処理することも必要だった。
「第二次センターポリス拡張計画か」
『現在のブリスゴー地区の南側の開発により、今後の企業進出などに備えるのが要点です』
柳井に計画案を説明していたのは、宰相府レヴィガータ分室室長代理のカミーユ・ロベールである。彼の専門は元々都市計画であり、元々は旧イステール自治共和国の主任開拓官だった。
それが今やレヴィガータ伯国の政治中枢に関わるようになっているのだから、人間の人生とは分からないものだと他人事のように感動していた。
『また、センターポリス拡張に伴い予想される住宅需要などは――』
久々に専門分野での仕事ということで、ロベールの説明は非常に熱の入ったものだったが、開拓や都市計画は門外漢の柳井は、一通り聞いたところで頷いた。
「ロベール君に全て任せる。政府と協調して進めてくれ」
『はっ!』
柳井は万事専門外のことは専門家に任せるタイプで、その点では皇帝の臣下に対する姿勢を見習ったとも言えなくもない。
ただ、元々柳井はそういうタイプであり、軍人時代も民間軍事企業時代も、同様の方針だったと関係者の多くは語っている。
同時刻
ベルセフォニア共和国
首都星ダルボルード3921
駐ベルセフォニア共和国地球帝国大使館
応接室
「共和国政府の姿勢が些か不可解です。本当に危機感があるのか……」
駐共和国大使のエドワード・スクラレックは理解出来ない、という表情で首を振っていた。
「緊張の糸が切れたせいか、それとも現在の政府がFPUへ内通というところですか。マールバッハ君、どう思う?」
柳井がベルセフォニア共和国を訪問する前段階の調整を行うために出張してきたマルテンシュタイン外協局長が、同行してきた宰相付侍従のマールバッハに話を振った。
「前者の可能性が高いかと。帝国という後ろ盾があるので気が緩んでいるとしか」
マールバッハの任務は大使館員として勤務する国家公安庁外事部の人間と接触することだったが、それは短時間で済んで、マルテンシュタインと大使との会談に同席していた。
「五一五号室の連中が言うには、調印派は相手にならず、汎人類共和国の戦力回復が遅れていると、共和国側で推計しているとか」
「……仮にも同じ旗の下で戦っていた相手を過小評価とは」
マルテンシュタインは故国である汎人類共和国の情勢についてある程度現状も含めて把握していたが、先年行われた大侵攻の影響はすでに回復していると見ていたため、首を振っていた。
「ともかく、宰相殿下が訪問するまでは事態は動かないと思います。大使館でも、殿下のご来訪を心待ちしていると、お伝えください」
「承知した。殿下も大使館の苦労は分かっていると常々言っている。大使も大変でしょうが、よろしく頼みます」
「外協局長、ありがとうございます」
マルテンシュタインも帝国に帰化してすでに一〇年を超えていた。初期には帰化人ということで疑念の目を向けられていたが、柳井の下で東奔西走していたことでその見識により信頼を勝ち得たのである。
大使の見送りで大使館を出たマルテンシュタインとマールバッハは、続いて共和国外務省の訪問も行うことにした。
一五時〇四分
ベルセフォニア共和国外務省
第一会議室
「現在までの所、特段軍事行動のレベルが上がったわけでもないと、軍からは報告を受けておりますが……」
ベルセフォニア共和国外務大臣ヴィーテク・カニャは、マルテンシュタインとマールバッハによる共和国へのFPU侵攻についての警告に、不可解そうに首を傾げていた。
「大臣閣下。私は汎人類共和国の出身です。だからこそ申し上げますが、汎人類共和国の生産力は軽視してはいけません。FPUが軍事行動を続けられるのは、汎人類共和国あってこそでしょう?」
マルテンシュタインの言葉にも、大臣はピンとこない表情だった。
「しかし、ベルセフォニアに侵攻するより、帝国領内に再侵攻を掛けるというのが、共和国政府の予測でして」
「あなた達はFPUの何を見ていたんですか? イデオロギーに凝り固まった中央委員会のお歴々が何を考えているかくらい、子供でも分かるでしょう」
マールバッハの言葉は更に辛辣で、さすがにこれには大臣も顔色を変えた。
「それ以上の発言は、我が国に対する内政干渉と受け取ってもいいのですよ?」
そこまで言われては、マルテンシュタインとマールバッハとしても宰相府の一官吏としての分を弁え、黙るしかなかった。
「しかし大臣閣下。よくよくお忘れなきように……条約加盟国として、貴国にも自国を防衛する義務があるのだということを」
「そんなことは分かっています」
大臣のにべもない対応に、マルテンシュタインは溜息を堪えつつ、外務省を後にするのだった。
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