第9話 親忠の夢
勇躍とはどういう事であろう。既に松平郷から出てきた松平氏は三河の主だった領地を得て、この地に置いては十分な領土を有している。祖父も父も領民達の安らかな営みを保障し、彼らは平穏を享受している。現状で食うに困るわけではなく、わざわざ戦を起こして他の領地を奪う必要がどこにあるのであろうか。
「御爺様、勇躍とは具体的にどういうことでしょうか?」
「それはな、儂の親父親忠の夢なのじゃ。将軍になるというな。」
思ったより大きな話だった。将軍様と言えば公方様、所謂足利家が代々家職として受け継いでいる。
「将軍?そのような恐れ多い事が夢になりますでしょうか。」
「まぁ夢というか願いじゃな。お主も知って居ると思うが何も千年の昔から公方様が代々将軍として居られたわけでは無い。」
「家徳が無くなれば、公方様が将軍を継ぐとわけにもいかぬだろう。」
確かに帝は千年以上昔から代々引き継がれていると聞くが、将軍は精々二百年といったところだろうか。足利家の前は北条氏が将軍となっていたときく。いや北条氏は執権で公家がお飾りの征夷大将軍だったか。
「父が存命の頃、応仁の乱が起こり、各地において富や力のあるものが我が物顔で闊歩する時代が来たのじゃ。これを見て親父は松平の家がこの後栄えていくためには、力をつけるしかない、領土を多く持たなければいけないと思ったのじゃが、そのような拡大を最後まで続けたらどうなるであろうかと思い悩んだ。」
「いずれ高転びするであろうと。戦を終わらせるために自らが将軍になる必要があると考えたのじゃな。高転びする前に、帝から地位を戴き、天下に号令をかけようとしていたのじゃ。」
「ただ、親父の代でその願いが終わることは無かった。しかし、子孫がいずれ将軍となり、宿願を果たす日が来るために代々その夢を引き継いでいるのじゃ。」
確かに今の公方様はかつての御威光は衰え、家来たちに恣にされていると聞く。言わば群雄割拠といった状態であり、古の大陸の春秋時代のようだ。今が時期という気も分らぬでもないが、他の力のある正しき者が将軍となっても良いのではないかと竹千代は考えている。
「竹千代は大樹寺を知って居ろう」
大樹寺は安祥の東にあり、先の井田野合戦の折に今川の本陣となったことで荒れ果てている。
「大樹寺と言う名前だが、大樹というのは将軍を意味する唐名なのじゃ。」
竹千代は大きな樹がある場所に建立された寺くらいに思っていた。大樹寺はそもそも松平の菩提寺になっている。大樹という名前が将軍を意味するなら、親忠は公方様の御怒りを恐れなかったのだろうか。いや、既に公方様は衰え切っていたのだろう。力があり発言力があったのならば、そのような寺院の名を許すはずもなかったのでは無いかと思う。
「そもそも大樹寺は親父が考えた名前では無かった、勢誉愚底という開山の僧から提案があってな。いずれ御家が将軍になる日がくるであろうと。親父は躊躇いもしたが、大樹寺と名付けて、公方様の御怒りを買って松平が無くなるならそれまでの事と思い、寺を建立したのじゃ。しかし公方様からは何の音沙汰もない。いよいよ、親父は松平こそが次の将軍家になると確信したのじゃよ。」
いやはや、大きな話になったものである。元服だけの話かと思えば、家督相続から将軍就任の期待までと、良く元服前の子供にそこまで期待を寄せれるのかと少しあきれ気味になった。祖父も父も前のめりになり過ぎである。
「御爺様、父上。先ほどから黙って聞いておりましたが、なにやら荒唐無稽の話を聞いているようであります。そもそも松平が将軍家を継ぐような貴種ではないでしょう。」
「そうよな、確かに松平は古くは賀茂氏であるが故、代々源氏が受け継いでいる将軍家には相応しくないという声もおこるであろうな。しかし、上洛し帝に拝謁できるように成るころには、系譜も確かなものが出来てくるであろうと思うぞ。十代も前は実は何某であったとか、そういった細工も可能じゃろう。」
松平という家を盛大にしたいという割に、系譜を詐称するということはなんだか本末転倒な話な気がする。
「どちらにせよ、家督を其方に譲った際にはいずれの決断も我々は従う所存である。元服までにどうするべきか考慮してゆくが良い。」
祖父と父の仲違いで頭を悩ます必要が無くなったのだが、もっと余計な難題で頭を悩ます事になった。
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