第2話 守りたいもの

「なるほど、それで眠そうな顔してるわけだ」

「ええ……そのあと全然眠れなくて……」

 

 朝の通学路を先輩と並んで歩き、昨夜の事を話していた。

 

 あのキスの後、由衣はすぐに俺の部屋から出て行ったのだが、俺はすっかり興奮状態に陥ってしまい、ほとんど眠ることが出来ずに朝を迎えた。


「お兄ちゃんは私が守る、か。それで私にこんなメッセージを送ってきたわけだ」

「メッセージ?」

「ほら、これよ」


 先輩はスマホの画面を見せてきた。


『今日の放課後、二人きりで話がしたいです』


 いつの間にID交換をしたのかは知らないが、確かに由衣からのもののようだ。


「由衣ちゃんに呼び出しを食らいました」

「えっと……これって……」

「果たし状ね」

「いや、そんな」

「決闘よ、決闘」


 なんとも物騒な物言いである。


「あの、暴力はやめてね?」

「それは由衣ちゃん次第ね」


 たしかに遊園地では由衣が激高して手を出したわけだが、無駄な挑発さえしなければ、そのような事にはならないと思うんだ……たぶん。


「出来れば穏便にしてもらいたいんだけど」

「そんなこと言ったって、昨日の今日で態度を軟化させたら不自然でしょ?」

「いや、でも……」

「今日もキッチリ性悪女をやり切るから」


 先輩はやる気満々の様子だ。

 この先輩と由衣が、また面と向かって言い争うのを想像すると恐ろしくなる。

 また遊園地の時のように……いや、もっと酷い事になるのではないかと不安で仕方がない。


「大丈夫、かな……」

「大丈夫よ。殴られようが蹴られようが、そのくらいの覚悟は出来てるから」

「さすがにそこまでの覚悟は必要ないと思うけど」

「女の戦いを甘く見ちゃ駄目」

「……そうですか」


 なんと血の気の多い事だろうか……

 先輩は頼りになる人だが、手加減というものを知らないので心配だ。

 ただ、俺がこれ以上何かを言ったところで意味はないだろう。先輩にまかせる他ないのだから……二人が冷静に話し合ってくれるのを祈るばかりだ。


「放課後に準備室で話す事になってるから、デートの時みたいに貴志と一緒に聞いておいてね」

「……はい」


 先輩は俺を安心させるためか、ニコッと笑って見せる。

 しかし、俺は自分では何もできない状況が歯痒くて、笑う気分にはなれなかった。


「ほら、暗い顔しない! 大丈夫だから!」

「先輩にばかり負担をかけて、その……ごめん」


 また先輩に嫌な役目をやらせることになる。

 俺は隠れてそれをコソコソ聞いているだけ……なんと情けない事か。


「もう、そんな気にしないの! それよりもほらっ、私たちは付き合ってるんでしょ? 、じゃなくて何て呼べばいいのかな?」

「あ、っと、うん……綾香……」

「正解! 人目があるところでは、ちゃんと彼氏やんなさいよね!」


 責めるような口調でそう言うが先輩の表情は明るい。

 おそらくは俺に気を使わせないために、話題を逸らしたのだろう。

 

「ほらっ」


 先輩が俺の手を取り、優しく握り込む。

 

「優人はどっしりと構えてればいいの」

「……うん」


 不安がなくなるわけじゃない。

 でも、やる気の満ちた先輩の表情を見ると、不思議とどうにかなるのではないかと、そう思えた。



――



 学校では相も変わらず先輩との関係を取りざたされ、周りの好奇心を受け続けた。

 そんな面倒くさい連中を適当にやり過ごしながら、放課後に思いを巡らせていると、あっという間に時間が過ぎていった。

 

 本日の授業はすべて終了し、由衣と先輩の対話の時がすぐ側まで来ている。

 由衣がどんなつもりであの文面を送り付けたのかは分からないが好意的なものでないはずだ。

 出来る事なら穏便にすべてが終わって欲しいと願っているのだが、おそらくはそうならないだろう。


 化学準備室近くの空き教室にて、弟くんと一緒にその時を待っている。


「……」

「……」


 弟くんと二人きりという空間はなんとも居心地が悪い。


 こいつとは建設的な会話が出来ないので話しかけるような事はしたくないのだが、遊園地の件については詫びを入れておいた方が良いだろうと思い、話しかけた。


「あのさ……一昨日は悪かったな。由衣の奴が先輩に、その……酷い事してさ」

「別にいいよ。そんくらい」


 意外にも弟くんは淡々とした様子だ。

 こいつが愛する姉に暴力を振るわれて何とも思っていないはずがない。


「怒ってないのか?」

「……ああ」

「ほんとに?」

「怒ったところで仕方ねえだろ、アレは。俺だって姉さんを風に言われたら同じ事をするからな。あいつの気持ちは分かる」


 弟くんはそう言って俺を睨む。まるで、姉さんの事を悪く言ったら酷い目に遭わせてやる、と言わんばかりだ。

 こいつの前では先輩の悪口はご法度だろうな……半殺しくらいにはされそうだ。


「っと、無駄話はここまでだな……来たみたいだぜ」

「……!」


 弟くんに言われ、装着したイヤホンに意識を集中し、由衣と先輩のやり取りに耳を傾ける。


『それで、今日はいったい何の用事なのかな?』


 二人は挨拶を交わすことなく話し始める。


『お兄ちゃんと別れてください』


 由衣は単刀直入に切り込んだ。

 

『何かと思えば……くだらない』

『先輩みたいな人にお兄ちゃんは任せられない』

『あのさぁ……私達はお互いに納得して付き合ってるの。これ以上、首を突っ込むのは止めてくれない? 迷惑なんだよね』

『先輩は間違ってる』

『……はぁ……ほんと、ウザいなぁ……』


 先輩は遊園地の時のような演技を続けていて、実に高圧的だ。

 一方の由衣はというと、感情に波は無く、冷静に話せているように思える。


『あのね、言ったでしょ? 優人は私のおもちゃなの。何でも言う事を聞いてくれる下僕なの。だからね、手放すつもりなんてないから』

  

 性悪女をやり切ってみせると言った通りの役者ぶりだ。

 これが演技だと分かっていても、不快感が残る。


『どうしても分かれて欲しいなら優人に直接そう言えばいいじゃない。ま、あんたの言う事なんか聞かないと思うけどね』


 感情を逆なでするように、意地悪く、ねっとりと絡みつくような言い振りだ。


『優人は私にべた惚れだからさ……キスしてやっただけでその気になっちゃって、ほんと単純な奴』


 もちろん先輩とキスなどしたことは無い。

 反応を見せない由衣を煽るための嘘だ。

 

『だからあんたが頑張ったって意味ないの』


 先輩がそう言い終わると、教室内には静寂が流れる。

 由衣がどんな感情でいるのかは分からないが、ここまで言われて冷静でいられるだろうか……

 次の瞬間には激高して先輩に掴み掛るのではないかとヒヤヒヤしてしまう。

 なんとか耐えてくれと祈るしかできない。


『……』

『……』


 先輩は由衣の反応を待つが、由衣は何も喋らない。


『なんか言ったら?』

『……』


 苛立ちを隠さない先輩の言葉にも、由衣は返答をすることはない。

  

『私も暇じゃないからさ、もう用が無いなら帰ってくれない?』


 突き放すように先輩は言った。

 このままだと埒が明かないと思ったのだろう。

 しかし――


『私が――』

『は?』


 由衣が何かを呟いた。


『私が……お兄ちゃんの代わりになったら……別れてくれますか?』

『……なに、言ってんの?』


 思わぬ由衣の言葉に先輩は困惑しているようだ。


『私が、先輩のおもちゃになるから……何でもするから……お兄ちゃんと、別れてください』

『……』


 由衣のまさかすぎる提案に、先輩は言葉が出ないようだ。

 俺だって由衣がこんなことを言い出すとは考えもしなかった。


『私には何をしてもいいから、お兄ちゃんにこれ以上、酷い事をしないで』

 

 由衣の言葉の端々からは決意が感じられる。

 冗談ではなく、本気で言っているのだ。

 

 先輩から俺を、守るために……

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