問題編

実家で叔父からその話を聞かされた時、私は興奮で全身の筋肉をアイソメトリックス運動させずにはいられなかった。参加者はビック・シゲ、マッスル岡村、ジュラシック井沢、ビューティー真衣だって……?ボディビル・フィットネス界において圧倒的知名度を誇る、いやそれどころか崇拝され神のように扱われることもしばしばあるこの四名が……私は恥も外聞も捨て、土下座をする勢いでそこに参加させてもらえないかと叔父に頼み込んだ。周りの家族は冷やかな目を私に向けたが、取るに足らないことだ。貴方が仮に野球初年だとして、“イチローと大谷翔平と山本昌とダルビッシュと合同練習できるかもしれない”という状況を考えたら私の気持ちが理解できるはずだ。

 叔父はそんな私の反応を予期していたようで、にんまりと笑い、

「任せろ、他ならぬ太郎の頼みだからな」

と言って、おもむろにフロントダブルバイセップスをして見せた。齢56にして未だ衰えぬ上腕二頭筋長頭のピーク。

「まあ、結局は俺の施設なんだし、俺の甥だと言えば断られることはねえだろう

。何より、お前も次世代を担うマッチョの一員だ。悪い顔はされないさ」

 ニカっと笑う叔父の口の中で金歯が瞬く。それは私にとって暁光であり僥倖であった。

 

 叔父は数年前まで現役で活躍していた元ボディビルダーで、鉄のように密度感のあるずっしりとした筋肉から、アイアン梶谷という異名を付けられていた。また、叔父はボディビルダーとしてだけではなくトレーナーや経営者としても優れていて、複数のビジネスを展開し、その全てにおいて成功した。

要するに金持ちなのである。

その叔父が、某地方都市の郊外に新しい施設「筋肉館」を建てたのが最近のこと。本格的なトレーニングジムに食事、宿泊施設を合体させた、「泊まれるジム」だ。ジムが併設されたホテルや旅館は確かに存在するのだが、ハードなウェイトトレーニングを必要とする我々のような人種のニーズに応えてくれる場所は、日本には無かった。SNSの筋肉界隈で「あのアイアン梶谷が筋トレ合宿のできる施設を作るらしい」と話題になるなど、確かに一定の需要はありそうである。実際に採算が採れるのかどうかは経営に疎い私でも不安になってしまうほどだが、叔父にはこの筋肉館を道楽で建てられるほどの余裕があるようで、その辺りはあまり気にしていないらしい。

 さて、問題はそこからだ。

筋肉館のオープン前の宣伝企画として、叔父と交流のあるボディビルダーたちを招いて筋トレ合宿を行うのだという!叔父に影響され筋トレを始め、大学ではバーベル部などという魑魅魍魎巣くう部活に入ってしまった私がこの話に食いつかない訳が無かった。叔父としても、半分私を誘うつもりでこの話を出したようで、意外にもすんなりと私の参加は決まった。一泊二日の夢の筋トレ合宿が、いざ始まる──


***


 6月某日。

 オープン前の筋肉館に、錚々たるメンツが集まった。

 ビッグ・シゲ。本名は山下茂雄。彼は伝説的な人物で、日本人で初めてプロリーグに上がったボディビルダーである。165㎝という、海外の選手たちと比べてかなり小さな身長でありながら、まったくそれを感じさせない圧倒的な迫力を持つ彼の身体に、与えられた異名はビッグ・シゲ。彼はボディビルダーとしての功績もさることながら、穏やかで紳士的な人物であることでも有名だ。事実、若輩無名マッチョにすぎぬ私に対しても「やあ、馬辺太郎君だね。話は聞いているよ。胸囲は120センチぐらいかい?なかなかデカいね」という風に気さくに挨拶と賛辞までも下さるという、筋肉も心もビッグな男だ。

マッスル岡村。本名は岡村勇一。彼はプロリーグを目指す新進気鋭のボディビルダーだ。最近の大会ではプロカード獲得まであと一歩のところで敗れる、という事が多く、本人は納得していないだろうが、言い換えるとプロに最も近い実力者である。つけられた異名は「マッスル岡村」飛び出すような三角筋、大胸筋と、世界を背負うかのように広大な広背筋と、まるまるとした筋肉を持ち「マッスル」を冠するにふさわしい肉体を持つ。ただ気性が少し荒いようで、SNSでたまに炎上している。私に対しては上機嫌に挨拶をしてくれた。

 ジュラシック井沢。本名は井沢武。18歳で学生のボディビル大会に出場してから、27年間ボディビルに出場し続けている大ベテラン。モーストマスキュラ―ポーズをとった際に、僧帽筋が非常に発達しているため頭と肩が繋がっているように見え、そのシルエットが「恐竜のようだ」として、ジュラシックの異名を与えられた。寡黙ではあるが、大腿骨を骨折したにも関わらずボディビルコンテストの出場のために筋トレを強行し続けるなどのクレイジーなエピソードも数多く持つ。

私には会釈をするのみだったが、そこにもまた貫禄を感じるのであった。

 ビューティー真衣。本名は田柱真衣。フィットネスビキニという女性のボディメイクコンテストにおいて好成績を収める。顔立ちも整っていて、スポーツ界におけるモデル的立ち位置。メディア露出も激しく、一般人への知名度で言えば他の三人を圧倒すると思われる。傍若無人、天真爛漫と言うと流石に大袈裟だが、ビッグ・シゲのような大物に対しても、よく言えば堂々と、悪く言えば不遜に振舞っていた。私の事は気にも留めていないようだった。

 トレーニングを前提としてやってきているので、全員がタンクトップ姿なのがまた異形である。特にビッグ・シゲとマッスル岡村は肩から腕にかけて丸太をくっつけているのではないかと錯覚するほどの人間離れした馬鹿サイズだ。そもそも切れるシャツが少ないのかもしれない。

 私が軽くそのことに触れると、

「6月を過ぎたら俺はもうタンクトップと短パンしか着ないかな、基本。プロビルダーとしては、こいつらに日の目を浴びさせるのが義務じゃないかと思うんだ」

 マッスル岡村は同意するように頷き、ビューティー真衣は引き気味に笑った。ビッグ・シゲは着替えにもタンクトップと短パンを三着ずつしか持ってきておらず、普段着も寝巻も全部タンクトップと短パンだと語った。その割に彼のリュックサックはぱんぱんだったが、中身を見せてもらうとそのほとんどがサプリメント類であった。それもまたプロのサガか。

 ポップ体で「筋肉館」とでかでかとプリントされたを着た叔父が館内を紹介する。デザインがダサいとかそういう基準は叔父には通じないだろうと、私は何か言うのを諦めた。一階はエントランス、食堂、厨房、事務室、そしてマシンを中心としたジムエリア。二階はフリーウェイト(注:バーベルやダンベルなど、軌道を固定されていない器具を使ったトレーニングをフリーウェイトトレーニングという)中心としたジムエリアと宿泊用の部屋。そして三階は浴場だ(見取り図参照)。ジムエリアと他の場所をガラスで仕切るジムも多いが、よりトレーニングに集中できるようにという叔父の配慮で、ジムエリアは白い壁で仕切られており、ドアを閉めると外からは中を覗けない。

二階の宿泊設備はホステルのような感じで、個人で泊まれる部屋と、団体利用に備えた大部屋とに別れている。客人たち四人は勿論の事、せっかくなのでと私も個人部屋に泊まらせてもらえることになった。叔父も私の横の部屋に泊まることになった。個室はオートロックになっていて、セキュリティも安心だ。「まあマッチョに悪いやつはいないけどな!」と叔父は笑った。

 

二階のジムエリアで皆の目を引いたものがあった。

「わあ、何あのダンベル!」

とビューティー真衣。

「ほう、梶谷さんもいい趣味してるじゃないか」

 とビッグ・シゲ。

 彼らの視線の先にあったのは、持ち手は普通なのに、重り部分が馬鹿みたいに大きなダンベルであった。

 アイアン梶谷こと叔父は、よくぞ気付いてくれたといわんばかりに嬉しそうに解説を始めた。

「いやね、前々から自分のジムに欲しいとは思っていたんだよ。そう、お察しの通りあれは100KGダンベルだ!」

 筋肉館のダンベル事情は、1~10KGまでは1KG刻み、10~50KGまでは2KG刻み、そして55KGと60KGで、それぞれ二個ずつ置かれている。60KGまで揃えているジムは日本ではなかなか見ないので、少なくともダンベルに関しては筋肉館の設備は優れていると言えよう。しかし60KGの次は、飛んで100KGだ。60KGまでのダンベルは全てダンベルラックに置かれているが、100KGは大きすぎて収まらないのだろう、ある種無造作に床にそのまま置かれている。が、しかし存在感はとてつもない。他のダンベルと違い、100KGダンベルは一つしか無かった。おそらく実用よりネタを取ったのだろう。

 ビューティー真衣が100KGダンベルに近づき、取っ手部分を両手で握るがびくともしない。壁に手をついて脚で蹴ると、ようやく100KGダンベルがゆっくり転がり始める。転がすのにも一苦労のようだ。

「100KGのダンベルを扱える人なんてそうそういないが、そこにあるだけで挑戦しようという気になると思うんよ。いずれはあの100KGダンベルで軽々ワンハンドロウができるぐらい、背中を強くするぞ!って感じにな……というのは建前で、ほとんどは俺の道楽だ」

がっはっは、と豪快に笑う叔父。どう考えても65KGや70KGダンベルを用意した方が実用的だが、オブジェとして欲しがる気持ちはわからなくもない。

「まあしかし、シゲ君や岡村君なんかはほんとに使えちゃうんだろうがな」

 何気なく叔父が言うと、マッスル岡村は自信ありげに息を鳴らす。

そこから文字通りの力比べが始まった。

「ダンベル100キロ持てる?」

 脳裏に某キャラクターが浮かぶ。


 まず、地面から浮かすという事に関しては、デッドリフト(バーベルを両手で握り、脚や背中の力で地面から膝上まで引き上げる種目)の要領で、私を含めた男性陣は皆成功した。ビューティー真衣はつまらなさそうに100KGダンベルを脚で蹴って転がしたりした。片手で扱うという事に関しては私と叔父そしてビューティー真衣は歯が立たなかった。ベンチに片手をつき、もう片方の手で地面からダンベルを引き上げる(いわゆるワンハンドロウの動き)では、ビッグ・シゲとマッスル岡村は顔を真っ赤にさせながらも成功した。ジュラシック井沢は「10年前なら分からんが、今腰を少し怪我していてね、これ以上の無理は遠慮しておく」と、少し力を入れただけで諦めた。

 マッスル岡村はそれだけでなく、ウェイトリフティングの要領で、100KGダンベルを自分の胸まで、そして頭上まで持ちあげて見せた。私と叔父は感嘆し、ビューティー真衣は半分引いていたが、ビッグ・シゲとジュラシック井沢のベテラン二人は「若いなあ」といった風な視線を送っていた。

ビッグ・シゲは「俺も年だし、そんな無茶はもうできないかな」とそれ以上のチャレンジを辞退した。マッスル岡村は、自分はこと筋力においてビッグ・シゲを凌駕していると認識したようで、上機嫌になったようだった。

「シゲ君は多分、若手に花を譲ったんだと思うぜ」

と叔父は私に耳打ちしてきた。流石はビッグ・シゲ。漢の中の漢だ。


 15時から夢のような合同トレーニングが始まった。基本的にはベテランであるビック・シゲとジュラシック井沢がコーチの立場で、マッスル岡村とビューティー真衣と私が教えを乞う形となった。叔父は第三者視点でそれを眺めながら、自分のトレーニングをしていた。マッスル岡村はSNSで叩かれがちなイメージを裏切って、明るい男であった。ステージ裏の話や、現在活躍している他選手の話など、興味深かった。ビューティー真衣は、私がそれなりに熱心なトレーニーであることを認めると、多少心を開いてくれたようで、女性のボディメイクの需要に如何にして答えるか、や、メディアでの裏話などをしてくれた。トレーニングは小休憩を挟みつつ、約3時間にも及んだが、これほど楽しかった時間はない。


 各々プロテイン等の補給をして、浴室で一旦シャワーだけ浴びてから夕飯の流れとなったのだが、マッスル岡村だけは延々とトレーニングを続けていた。18時半にマッスル岡村以外の全員が一階の食堂に集まったが、二階からゴン、ゴン、という鈍い音が立て続けに鳴り、叔父はしかめっ面をした。

「あれは……ダンベルの音かしら?」

 とビューティー真衣が誰にでもなく問う。

「あー、筋肉館は安心安全の造りではあるんだが、どうしてか二階のジムエリアの音が結構響くんだよな。まあ普通に筋トレしてるだけじゃ寝室でも食堂でも気にならないと思うんだが」

「岡村さん、ダンベル結構乱暴に扱ってましたもんね」

 とビューティー真衣は呆れるように言った。

「50KGとか60KGとかを雑に放り投げられると、流石に音がするもんでな……いやすまねえ」


 その件に関しては特に誰も気に留めず、そのまま夕飯が始まった。栄養管理を徹底しているプロボディビルダーでも食べられるように、すべての料理にグラム当たりの栄養価が記載され、また料理の量も調整できるようになっていた。無論、メニューはすべて高たんぱく低脂質である。ジュラシック井沢は減量(ダイエット)中であったが、問題なく食事ができ、感激していた。途中でマッスル岡村がやってきて、叔父が「さっきダンベルを放り投げはしなかったかい?」と聞くと「ああ、インクラインダンベルプレスやってましたね、60KGで。すみません」とあまり悪びれた感じはなく謝った。

 そこからしばらく歓談が始まったのだが、私がトイレの為に一度席を外してから戻ってみると、何やら揉めているようだった。議題はどうやらフィットネスの促進とステロイドについてのようで、四人の中で最も「広い」支持を得ているだろうビューティー真衣は堂々とステロイドの根絶を主張した。あえて誰も口にしないその話題を、よもや両団体の代表選手の前で行うとは……ビューティー真衣、怖いもの知らずというか芯が強いというか。単に無配慮なだけな気もするが……

 議論は私の出る幕もなく、特にビューティー真衣とマッスル岡村の間で白熱した。ジュラシック井沢はさりげなくビューティー真衣に、ビック・シゲはマッスル岡村に味方していたが、やがてイラつき始めたマッスル岡村がビューティー真衣を罵倒し始めると、ベテラン二人は彼を諭し始めた。マッスル岡村の罵倒ははっきり言って汚い言葉も多かったが、それに応戦したビューティー真衣のセリフは中々面白いものだった。「あんたみたいな脳筋はね、デッドリフト高重量にイキって手出して失神してパワーラックの角に頭ぶつけて死ねばいいわ」


 事務作業で席を離れていた叔父が戻ってきたことによりこの議論、というか喧嘩は収まり、各自の自由時間となった。このとき20時30分。

 叔父が呼んでいた調理スタッフや清掃員も21時には全員が帰宅した。


20時半、ビッグ・シゲとマッスル岡村は一旦自室に戻った。私と叔父とジュラシック井沢とビューティー真衣は食堂で努めて明るい話をして時間を潰した。21時半になるとジュラシック井沢は減量のための有酸素運動を行うと言って、一階のジムエリアに言った。一階ジムエリアにはランニングマシンやエアロバイクなどのカーディオマシンも揃っていた。それから少しして「お風呂、さっきはシャワーだけだったから、ゆっくり浸かってくるわ」とビューティー真衣が食堂を後にした。私と叔父はそのまま雑談を続けていた。


 ドン!!!

 22時丁度の事だった。二階から大きな音が響く。いかに音が伝わりやすいとはいえ普通に筋トレをしているだけでは鳴らないだろうというような、並々ならぬ音だった。

「まあた岡村のやつか」と叔父がぼやいた。筋肉館のジムは今回に限っては24時間いつでも使っていいと叔父が宣言していて、ならば夜も使わせてもらおうとマッスル岡村が夕食時に言っていた。一日に二回に分けてトレーニングを行う「ダブルスプリット」という手法を彼は取り入れているらしく、夕飯前のトレーニングボリュームも相当だったが、まだやるのかと私は呆然としてしまった(ジュラシック井沢も夜に有酸素運動はしているが、ダブルスプリットは基本的に両方が筋トレの場合を言う)。

「にしてもやけにデカい音だったな。まさか100KGダンベルでも振り回して落っことしたのか?」

まったく最近の若者はねえ、と叔父がぼやく。もっと若いのが目の前にいるのだが。

「凄い音でしたね」と食堂の扉が開き、ジュラシック井沢が入ってきた。

「ランニングが終わったので、水をもらいに来ました。いや自分のドリンクを飲み干してしまってね」

 ジュラシック井沢は息を切らしながら言った。彼は尋常じゃないほどの汗をかいていて、タオルは首に巻かれていたものの、額から腕から、果ては短パンから覗く足からもだらだらと大粒の汗を流していた。あれほどの筋肉量だと代謝も相当なのだろう。

「おう、もちろん構わねえよ。井沢くん、一階のジムにいたんなら、真下でさっきの音も凄かっただろう」

「そうですね、流石に岡村君のマナーは目に余ります。器具を壊しかねない」

「はあ……筋肉がでかいと態度もでかくなるんかねえ。あいや、井沢君やシゲ君は別格だがね。さて若造に注意しに行くか」

 私も叔父の後に続いて二階に行くことにした。ジュラシック井沢は食堂で水を飲んで一息つくようだった。


 階段を登ると、ジムへの扉は開いていて、中の様子がすぐ目に入った。ジムでは、マッスル岡村が後頭部を血まみれにして倒れていた。傍らには鮮血に染まった100KGダンベル。そう、マッスル北村は100KGダンベルで殴られたかのような状態だったのである。


***


叔父はすぐに警察を呼び、取り調べが始まった。

「まったく、オープン前だってのによう……」

 筋肉館には防犯カメラが設置されていたが、まだ商業としてオープンしていないこともあり、玄関の防犯カメラしか作動していなかった。防犯カメラには調理スタッフと清掃員が筋肉館を出てから、つまり21時以降に人の出入りは無かった。外部の人間が侵入できそうな扉は全て施錠されていたため、外部犯の線は薄いということだった。各自の部屋はオートロックで施錠されており、特に荒らされた形跡もない。

 故に、容疑者はビッグ・シゲとジュラシック井沢とビューティー真衣と叔父、そして私の5人である。私の視点から言えば叔父は常に私と一緒にいたため、容疑者は3人に絞られる。

 マッスル岡村はダンベルラックに足を向けるようにして、うつぶせに倒れていた。私と叔父が発見したとき、死体の周辺に100KGダンベルの他には特に何もなかった。マッスル岡村の後頭部の傷は100KGダンベルの角の形と一致しており、確かに凶器はこの100KGダンベルであるとの事だった。死亡推定時刻は22時前後で、我々が音を聞いた時刻と一致する。血痕からするに死体を大きく動かした形跡は無く、また現場には被害者の血以外に不信な点(床の汚れや、窓が使われた形跡、器具を不自然に動かした跡など)は存在しなかった。

 警察はマッチョたちの集う異様な空間を訝しんだ。一般人が100KGのダンベルなんて扱えるわけもないので、そういう意味でも犯人はこの中にいると考えるのが自然だろう。

「あんな口論の後だったから疑われるでしょうけど、私じゃないわよ」

 毅然と言い放つのはビューティー真衣だ。

「22時丁度、音のした時間ね、その時は脱衣所にいたわ。ええ、音も聞こえたわよ。それから二階の方が段々騒がしくなったから降りてきたってわけ。え、なんで風呂に入ってなかったかって? 脱衣所でポージングしていたのよ、貴方たちなら分かるでしょ、この感覚」

 たしかに、風呂に入る前に鏡でポージングに時間を費やしてしまうのはマッチョあるあるだ。

「何より、私が100KGダンベルなんか扱えるわけがないでしょ。それは皆確認しているはずよ。それともなに、みんなの前では力を抜いていたけど、本当は超絶怪力だったと思う?」

 如何に有名トレーニーと言えど、ビューティー真衣の体格では100KGダンベルを振り上げるのは絶対に不可能だ。両手で地面から浮かせられるか否か、といったところだろう。

「まあアリバイが無いことは認めるけどね」

 と、ビューティー真衣はバツが悪そうに言った。

「例えばの話だが、岡村君が事前に100KGダンベルを何かの上に置いておいて、犯人がそれを転がして岡村君の頭に落とした、という可能性はどうだ。これなら犯人の力に関わらず犯行が可能だ」  

 淡々と述べたのはジュラシック井沢だ。

「何かの上って、どこよ」

「そうだな、ダンベルラックの上とか」

「死体の頭はダンベルラックの逆側にあったわ。ダンベルラックから落下させて頭部に落とすのは無理よ」

 ダンベルラックの他に、死体の周りに100KGダンベルを置けそうなものは無かった。2階ジムエリアのその他の器具は、移動させるにはかなり労力を要するものばかりで、音がしてから私と叔父が現場に訪れるまでのせいぜい2分間の間に痕跡もなく移動を完了させるのは不可能だろう。

 

「私はずっとランニングマシンを使っていて、ランニングを終えた丁度にあの音を聞いた。22時だな。そのあとすぐに食堂に水を飲みにいって、馬辺太郎君と梶谷さんと会った」

 私と叔父はうなずく。

「食堂から一階のジムエリアは見えないのだから、貴方がランニングを中断して岡村さんを殺し、何食わぬ顔で食堂に行った可能性は否定できないわよね?」

 ビューティー真衣の追及に、ジュラシック井沢は苦虫を嚙み潰したような顔になった。


「俺は夕飯を終えてからずっと部屋にいたけど、犯行時刻にはアリバイがあるよ。家族とビデオ通話していたんだ。例の音がする五分前くらいかな、始めたのは。俺が“すごい音がしたな”と言っているのを家族も聞いているはずだ──妻と7歳の娘と4歳の息子の三人だ。警察に確認を取ってもらっても構わない。どうだい、アリバイとしては十分じゃないかい?」

 ビッグ・シゲも淡々と述べた。マッスル岡村の死は、彼をそれなりに可愛がっていたらしいビッグ・シゲにとっては、重いものなのであろう。スマホのログを見せてもらうと、確かに21時55分から22時3分まで通話の記録がある。22時3分というのは私と叔父が死体を発見して騒ぎ始めた頃だ。

「一応言っておくが、俺と太郎はずっと一緒にいたから、アリバイは完璧だぜ」

 という叔父の言葉に、ビューティー真衣がいやらしく噛みつく。

「あら、二人で口裏を合わせている可能性はないの? 随分中の良さそうな親戚同士よねあなたたち」

「ふざけるな、オープン前の宣伝企画であんたたちを呼んでるんだ、殺人なんて起きたら逆効果にも程があるだろう。俺が殺すにしても筋肉館でやるわけがねえ」

 叔父の言う事はもっともで、ビューティー真衣がバツが悪そうに口をつぐんだ。

「ったく犯人の野郎、ジムで人なんか殺しやがって……てめえでベントオーバーローイングしてやろうか!!!」

 叔父の悲痛な叫びに、皆の広背筋が反応した。



 日が開けて、警察から新しい情報が入った。被害者の後頭部には100KGダンベル以外でできた傷があり、何か他のもので殴られて一度昏倒していたようだ。捜査の結果二階ジムの5KGダンベルがそれに該当することが判明した。

「100KGダンベルを振り上げてマッスル岡村の後頭部に振り下ろす」超人犯人である必要はなくなったが、いずれにせよ100KGダンベルが被害者の後頭部を砕いた事実は消えない。


 ***



 それから警察の立ち合いの元、二階のジムを中心に私と叔父は何か不信な点は無いか見て回った。

 一つ私が注目したのは、ダンベルラックにずらりと並ぶダンベルの一つ、20KGダンベルだ。ほとんど新品のはずなのに、対になって二つあるうちの片方だけが、メーカーのロゴの部分に傷がついている。

 ここで一つ、私の頭に浮かんだ疑問は、犯行時刻とあの音を聞いた時刻は同じなのか、ということだ。例えば、100KGダンベルでマッスル岡村を(静かに)撲殺した五分後に、この20KGダンベルを床に落として犯行時刻を誤魔化す、といったような事だ。しかし、犯人が犯行現場でその行為を行う意味はない。犯行時刻を誤魔化しても、誤魔化した後の犯行時刻に犯人はそこにいるのだから。しかし、例えば時限式にダンベルを落下させる仕組みなどがあれば有効ではある。この場合、ビッグ・シゲのアリバイは否定されるだろう。

 だが、私と叔父が犯行現場を訪れた時、地面には100KGダンベル以外に床に落ちたダンベルは無かった。もちろん、大層な音を鳴らす装置なども、である。

「だがよ、シゲさんの部屋は二階ジムの入り口に一番近いぜ。事件当時ジムの扉は開いていたから障害物もあまり無い。こんな推理はどうだ。“100KGダンベルでなるべく静かにマッスル岡村を撲殺し、100KGダンベルをダンベルラックの上に置く。ロープのようなものを用意して100KGダンベルに引っ掛け、そのままロープの先をもって自室に戻る。家族とビデオ通話をしている最中、カメラに映らないようにロープを引っ張ってジムのダンベルを落とす。ダンベルが落ちるとロープは外れ、そのまま引っ張ればシゲさんの手に戻る”」

 流石ビジネスで一財を成した男、アイアン梶谷。脳筋(脳まで筋肉並に発達している)と巷で言われているだけある。妥当な推理であるように思えた。

 そこで改めて皆の荷物を点検することになったが、おあつらえ向きの長いロープなんてものは誰一人持っていなかった。唯一ビッグ・シゲは2mほどのチューブを2本所持していて、その事をビューティー真衣は攻め立てたが、単純に2m×2の4mでは、叔父の言うトリックが成立するためには最低でも15mのロープ的なものが必要だとすると、全く足りない。汗を拭く用のタオルもビッグ・シゲは1mのものを3枚しか持ってきておらず、合計しても7mだ。

 筋肉館の備品が使われた可能性に関してだが、22時4分に全員が一同に会してからはお互いの行動が見張られており、犯行後に使った備品を元の場所に戻すのは不可能なようだ。ゴミに関しても同様で、犯行の為に何かを加工して犯行後に捨てる、なんて行為をしようものならすぐに明るみに出てマッチョからの高レップスクワットより厳しい追及に会うことだろう。


***


 一階のジムエリアで、私は気になるものを見つけた。

 ランニングマシンのベルトコンベアや脇の金属部分に白い斑点のようなものがまだらにあるのである。昨日ジュラシック井沢が使用した、汗の跡だろうか。

 私が思案しているところに、ジュラシック井沢と叔父が話をしながらやってきた。叔父は相変わらず筋肉館を着ている。叔父は身長180㎝の胸囲130センチで、の片方の裾から裾までは2m以上はあると思われた。

「背中、特に上背部の発達には懸垂が絶対に欠かせないと思いますね」

 真面目に語るのはジュラシック井沢だ。こんな時にも筋肥大の話をしている。

「普通、筋トレにおける筋肉の動きというのは、筋肉の停止が起始に近づくものなんです。ダンベルカールでは上腕二頭筋の肘側が肩側に近づく、というようにね

。懸垂とよく似た動きのラットプルダウンは、上腕を動かして重りを引く運動、つまり広背筋の停止である上腕部が起始である臀部に向かって動いているわけですが、懸垂の場合逆動作です。腕が重りを引くのでなく、身体が上昇する、つまり臀部が上腕部に近づいている。このような起始が停止に近づく動作は珍しく、それが懸垂に特異の効果を発揮させているのだと思います」

 ふむふむなるほど。懸垂は重要だとよく言われているが、そういう理由もあったのか。

 いや待て、何か、何かが引っかかるぞ……

 100KGダンベル、5KGダンベル、そして妙な傷のある20KGダンベル。

 22時丁度に発生した、二階ジムでの物凄い音。

 …………

 

 ぴきーーーーん!

 脊柱起立筋が起立するかの如く脳裏にびしっと立つ完璧なロジック。


 犯人が分かった。

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