「失礼します」

「では、貴方は幸せ処を守りたくここにいらしたという事ですね」


 明人は秋穂の言葉を全て聞き、確認する。


「はい。あの、噂で聞いたのですが……。ここは本当に願いを叶えてくれるのでしょうか?」

「残念ながら。私達が行っているのは匣を開けるという事なので、願いを叶える事は出来ません」


 残念そうに眉を下げて説明する明人に、秋穂はやっぱりかとでも言うように薄く笑みを浮かべる。諦めたような表情を見て、明人は不思議に思い目を丸くした。


「おや、落ち着いていますね」

「はい。元々ダメ元でもありましたし、そう簡単に願いが叶えられるとは思っていませんでしたから。ですが、噂が本当だったという事は分かりました。今回はそれがわかっただけで嬉しいです」


 秋穂は少し悲しげな笑顔を明人達に向け、静かに立ち上がり、小屋を出て行ってしまう。


「ありがとうございました」


 礼儀正しく一礼をし、躊躇うことなく外へと出た行った。




「いいのか明人。帰らせてしまって」

「あいつの匣を開けるのは時間の無駄だ。それに、追いかけるのもめんどくせぇ。自己完結させたんならいいだろう」


 明人は立ち上がり、面白くなさそうに小屋の奥へと向かった。


「あんな綺麗な匣には興味ねぇわ」


 ☆


 今日もまた、正司が幸せ処に向かい由紀子へ紙とペンを渡す。


「もうそろそろ諦めたらどうですか」

「何度言われましてもサインはしません」

「周りの方々の迷惑になっております。よろしいのですか?」

「本当に迷惑だと思っているのでしたら、直接私に言えばいいだけです」


 こんな会話が今日はもう十分以上続いている。

 いつもは五分くらいで帰っていたのだが、今日はすごく長い。

 秋穂と皐月は心配そうに由紀子を見ていた。


「今日が本当に最後の忠告です。ここにサインをして頂かなければ、貴方達には無理やり出て行って頂く事になります」


 今の言葉に三人は顔を青くした。

 秋穂はバイトの身なので、ただバイト先が無くなるだけで終わる。だが、由紀子と皐月は違う。

 幸せ処が無くなれば、二人は仕事を失う事になる。


 皐月は大学を通いながらな為お金がどうしても必要。

 由紀子も独り身な為、働かなければ生きてはいけない。しかし、歳が歳なだけにまた新しい仕事を見つけるのは大変だ。

 サインをすれば少しはマシにはなる。だが、ここでサインをしてしまえばもう後戻りが出来ない。

 どうすれば良いか三人は寄り添い、頭を抱えてしまった。


「考えるまでもないかと思います。ここにサインをして頂ければ良いのです。さぁ、サインをお願いします」


 急かすように正司は紙とペンを由紀子へと渡す。

 渡された紙に目線を向け、由紀子はペンを添えるがそのまま固まってしまった。


「もう、やめてください……」


 秋穂のか細く震えた声に、冷ややかな声が被さる。


「なんと言われようとここは取り壊させていただきます。どれだけの人に迷惑をかけていると思っているのですか。ここはただの古い小屋でしょう。早く売りに出した方がいいですよ」


 冷たく言い放たれた言葉に、皐月と秋穂は顔を赤くして正司を睨んだ。




 パン屋さんに皐月と秋穂が入る前は、由紀子と旦那さんの二人でひっそりと経営していた。

 高校生から付き合っていた由紀子と旦那さんの将来の夢は『みんなに幸せを届けられるような、素敵なパン屋さんを作る事』。


 お店を建てるため、高校からバイトを初め少しずつだがお金を貯める事ができ、やっと作れたのがこの”幸せ処”だ。

 パンは旦那さんが作り、由紀子は接客を主にやっていた。しかし、パン屋さんを開いて六年ぐらいだった頃。旦那さんが病で倒れてしまった。

 病院に長い事入院していたが、病には勝つ事はとうとうできず、旦那さんは若いうちに亡くなってしまった。


 由紀子は最後までパン屋の事を心配していた旦那さんの気持ちを受け取り、一人でも経営をしてやると意気込んででいたが、そんなに上手くいく訳もなく、経営が傾いていく。

 このままではこのお店を売りに出さなければならない。旦那さんの想いをここで切らせてしまう。そう思い、由紀子は頭を抱えていた。


 そんなある日、パン屋に一人の高校生がやってきた。

 その人はこのパン屋さんで働きたいと申しでる。その人の名前がだった。そこから三年後に秋穂がバイトと言う形で一緒に働く事になった。


 幸せ処はお客さんに幸せを届けるだけでなく、三人の思い出の場所でもある。そう簡単に渡せる訳がなかった。




「ここにサインをしないのですね。でしたら、ここから出て行っていただきます。そして、来週から取り壊し作業に入らせていただきます」

「ま、待ってください!!」


 由紀子が叫んだ瞬間、小屋のドアが開いた。


「失礼します。貴方は詩月正司さんで合っていますか?」


 ドアを開けて入ってきたのは、柔和な笑みを浮かべた明人だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る