第9話 主たる神であるということ

 フレイアはゆっくりと、生れ落ちるように降りてくる。その姿は愛と美そのものを体現し、周囲の空気をも浄化するかのようだ。黄金色の髪は風もないのにゆらゆらと揺らめき、彼女の周りには微かな花の香りが漂う。そして。


「ああ、リーヴさん。ありがとうございます。あなたなら私を救ってくれると、信じていました」


 フレイアは目を開くと、静かに床に足をつける。その声は優しく、まるで母親が子供に語りかけるようだった。


「本当に、フレイアだ!」

「は、母上……」

「バルドル。優しく、逞しく育ちましたね。それでこそ正義を司る者、私の息子です」


 バルドルとリーヴは、驚きと喜びの表情でフレイアを見つめる。フレイアは二人を見て、慈愛に満ちた笑みを浮かべると、ゆっくりとオーディンの方へ歩み寄った。同時に、バルドルの負った傷が見る見るうちに塞がってゆく。


「オーディンよ。思い出すのです。フラヴナル・トヴェイル……」


 フレイアが唱え始めると、祭壇の裏、虹色の光の向こう側から、二つの羽音が近づいてくる。この光は間違いなくゲートとして機能している。


「この音、もしかして……カラス?」

「そうか! フギンとムニンだな!」


 ばさっ。二羽のカラスがどこか別の世界から、ゲートを通じて飛び込んできた。オーディンの眷属、フギンとムニンだ。このカラスたちはオーディンの知能と記憶から産まれ、彼にあらゆる情報を与えるために世界中を飛び回っていた。つまり、彼の知能と記憶、そのものである。


「オディン・エル・エイン! さあ、あるべき姿に戻るのです!」


 フギンとムニンはしばらく部屋の中を飛び回ると、異形と化したオーディンの後頭部に向かい、消えた。それはまるで彼の体内に吸収されたかのようだった。


「う、うう……」


 異形のものは暴れまわるように激しく形を変える。大きく丸くなったかと思えば、小さく細長くなり、どうすべきか試行錯誤しているように見える。それがしばらく繰り返され、最終的に、ある姿で落ち着いた。


「ううん」


 ここに居る誰よりも背が高く、白く長い髭を生やしている、隻眼せきがんの男。この男こそが――


「おお……時が、来たのか」

「目を覚ましましたね、オーディン。ラグナロクは終わりました。共に帰りましょう」

「父上!」


 フレイアは喜びをあらわにし、バルドルはオーディンに駆け寄る。しかし、オーディンはそんな一同の姿を見て、怪訝けげんそうな顔をした。


「なぜだ? なぜお前たちがここに居る?」

「父上、あなたは正気を失って――」


 これまでの経緯を説明しようとしたバルドルだが、途中でオーディンの異変に気付き、言葉を失った。


「回答が違う――なぜ、お前たちは死んでいないのだ」


 場の空気が凍り付く。オーディンの声は冷たく、感情が込められていなかった。オーディンは貫くような鋭い目つきで一同を睨みつけている。


「ど、どういうこと?」

「父上、一体何を……」


 困惑する一同と、それを関心のない様子で見ているオーディン。オーディンは小さくため息をつき、語り始めた。


「儂の目的は、全てが死んだ後の世界がどうなるのか、それを見ることだった」

「バルドル、リーヴさん、こちらへ」


 フレイアが二人を下がらせる。


「バルドル、お前が死んで、ラグナロクの予兆が見えた時、儂は高ぶりを感じたのだ。光が失われ、愛が消え、世界の繋がりが絶たれたら、そうしたらこの世界はどうなる? 秩序とは何か、混沌とは何か? 儂が生きていては世界が死なない。だが儂が死んでは、死んだ世界が見られない」


 一歩、オーディンが足を踏み出す。その瞬間、空気が震え上がり、心臓を握り潰すかのような威圧感が一同を襲った。オーディンは明らかに、フレイアたちを仲間だと認識していない。


「では、ラグナロクを阻止する『大いなるセイズ』というのは?」


 フレイアが無表情で言った。しかしその眼の色は、いつになく揺らいでいるようだった。


「ああ、嘘だ。儂は初めから、死ぬ予定でセイズを準備していた。あとはどうやって死ぬか、が問題だったが……それはすぐに解決した。あとはラグナロクの残りカスどもが死んでくれるのを待つだけだった。だがフレイア。お前は想定以上に儂を愛していたようだな」


 オーディンはラグナロクを止めようなどとは思っていなかった。むしろ、自身の知的好奇心のために、全てを殺したかった。彼の声は、まるで混沌を呼び寄せるかのように、甘く、危険な響きを伴っていた。


「オーディン。あなたの歪んだ欲のせいで、神々が、世界が死んだのですよ!」

「それがどうした。儂は世界の終わりの、その先が見たい。世界は主神のためにある。そして主神はこの世界の全てを知り尽くしていなければならない。それが主神、森羅万象の支配者であるということだ。その役割を果たすためには、お前たちは全員、死んでくれなければ困るのだ」


 フレイアは声を荒らげるが、オーディンは意に介さない。


「バルドル。儂の槍はお前を傷つけただろう。儂はお前が死んでから、ユグドラシルの生命力を使い、神なる槍を創り替えたのだ。万が一お前が蘇っても、即座に殺せるようにな。威力も使いやすいように調節した。これで他の生き残りも楽に殺処分できる」

「ち、父上、どうして……」


 バルドルは絶望に染められ、今にも崩れ落ちそうだった。オーディンは、そんなバルドルを見下すような目で一瞥いちべつした。


「お前はロキの器、リーヴだな。ロキがお前を作るように仕向けたのは儂だ。ロキは儂を殺した後、人間として生まれ変わり、その正体を忘れたまま死んでくれれば良かった。入れる中身のない容器が、なぜ残っている? 邪魔だぞ、その命」

「うっ」


 リーヴはあまりの威圧感に胸を押さえ、息を荒らげた。


「フレイア。全てはお前のせいだ。お前が余計なことをしなければ、世界は予定通りに滅び、儂は目的を達成できた。儂を救おうとでも思ったのか? お前のような、半端な知能で生きている者など、害悪以外の何者でもない。儂にセイズの秘密を教えたなら、さっさと死ねば良かったのだ」


 最後に、オーディンはフレイアを侮辱し、彼女の存在を否定した。


「オーディン――私は、あなたを殺します。私はそう『決定』した」

「母上……」


 フレイアは静かに、しかし力強く言った。


「バルドル、もし辛いなら――」

「いいえ、俺は平気です、母上。ただ残念でならないのです。まさか――自分の父を裁くことになろうとは」


 バルドルに語り掛けるフレイアの声には、変わらず慈愛が込められていた。バルドルはそれを感じると、安心したように、眼の色を変えた。


「父上、俺はあなたを殺さなければならない。それが俺の『判決』だ」

「オーディン、世界は皆を幸せにするためにあるべきだよ。私は、そう信じてる」


 三人の態度に、オーディンは殺意を剥き出しにする。まるで巨大な獣が牙を剥いたかのような、本能的な恐怖が、この空間を支配する。


「お前たちは一体、何の才能があって儂に指図している? 何の価値があって生きている? 今すぐに死ね! そして儂の知的好奇心を満たせ! それがお前たちの、命の価値だ!」


 ラグナロクを越え、世界の『始まり』をかけた、最後の裁きが始まる――

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