雨中、南の岩壁にて

  ゴォォォォ――――

    ザァァァァ――――


 低い、地鳴りのような音。

 やや広がった水面に打ち付ける雨の音。

 雨水を蓄えて増水した、夜のセドナ川沿いを歩く。

 普段は薄い碧色に透き通っているセドナ川の水は、いまは茶色に濁って見通せない。


 増水して茶色に濁った、巨大な川の川面も見ていると、なぜだか気分が高揚する。

 怖いような。わくわくするような。

 なにがそんなに愉しいんだろう。

 それは死のスリルだろうか。

 それとも、非日常性だろうか。

 人を惹きつけるなにかが、そこにはある。


 でも、増水した川の傍に近寄るのは……やめようね!

 ちょっと川の様子見てくる、というのは死亡フラグの代表格だ。

 増水した川自体が問題なのではない。

 川が増水するほどの雨によって普段とはちがった表情に変わる、川の周囲の環境すべてが危険なのだ。

 見知った地形が、突然牙を剥く。

 不意打ちのように、川に呑まれる。

 油断大敵だ、警戒心を絶やしてはいけないし、警戒していても死ぬときは死ぬ。

 増水している川には近寄らないのがベストだと言わざるを得ない。


 まぁ、俺はいまそんな増水した川の傍を一人でてこてこと歩いているわけだが。

 いまは潜水技能もつけてないし、不意のトラブルで滑落したら、死に戻りの危機だ。

 それでも死ぬつもりはないが……死ぬつもりがなくても死ぬときは死ぬ。

 前作でのテレポバグ先での死因の中には、川での溺死も滑落死も当然あった。

 大自然の暴威を前に、人間のスペックで抗うのには限界がある。

 火事場の馬鹿力を発揮して、人間に出せる限界のスペックを行使しても、無理なものは無理だ。

 その身に秘めたエネルギーの桁が違いすぎる。


(……ん)


 このあたりは、対岸にモンターナが拠点を構えていたところだな。

 となるとこの少し下流には、モンターナが即席で作った丸太橋があるはずだ。

 あれは今、どうなっているんだろう。


(……あー、なんとか無事、か……)


 モンターナが、川の傍の広葉樹を、川側に向けて切り倒して渡した丸太橋。

 こちら側の土手の半ばに突き刺さるようにして渡されているため、倒木の全体はいまも水面の上にある。

 ……川面の少し上に、ちゃんとした橋を丁寧に掛けていたら、今回の雨で流されていたかもしれない。

 流石のモンターナも、まさかそこまで考えてこのような橋を渡したわけではないとは思うが、結果的に幸運だったと言える。


 さて、橋を通り過ぎて、このまま南下を続けよう。

 向こう岸に渡る理由もないし、渡ったが最後、戻って来れる保証もない。

 よくよく考えてみると、この丸太橋が流されてしまったら、セドナ川の増水中は、向こう岸との行き来ができないのではないだろうか。

 普段は泳いで渡ればいいが、増水中は橋でも掛かっていないと、とてもじゃないが渡れない。

 そう考えると意外と影響が大きいぞ、この地域に降る雨は。


 マキノさんとりんねるの合流も、この分だとやや遠のくかもしれない。

 誰かしらと協力して、この川に橋を掛けるプロジェクトでも起草してみるか。

 セドナ南の断崖絶壁に昇降機を作るプロジェクトよりはよほど現実的だろう。

 こういうところでプレイヤー同士が協力する下地を整えておけば、イベントなどの非常時に結束するのも容易くなりそうだ。

 人望だの良心だのと言った、時と場合によっては消えてしまうようなあやふやなものをアテにして結束するよりは、公共福祉という利益でつなげてしまった方が、のちのちの禍根を生みにくい。

 ……ちょっと世知辛い話だけど。



 *────



 いつかはカノンとともに歩いた、セドナ川沿いを黙々と南下すること30分と少々ほど。

 雨に濡れて滑りやすくなっている道を慎重に歩いていたのもあるが、以前よりも少し長い時間をかけて、ようやく見覚えのある、セドナ南の柱状節理の岩壁まで辿り着いた。

 ……もしかして、旅歩きを外している影響もあるのか。

 あまり意識はしていなかったが、あの技能は徒歩の平均速度も引き上げていたのかもしれない。


 目の前に聳える、柱状玄武岩からなる漆黒の岩壁。

 その幾何学的な文様は夜闇に隠され、今はほとんど見えない。

 まるで闇色のカーテンが広がっているかのようだ。

 そしてこの岩壁の向こう側には、本物の闇が広がっているだろう。

 断崖絶壁の向こう側にある、なにもない夜の空間が。


  ゴォォォォ――――


 セドナ川を流れる多量の水が、岩壁の裂け目の亀裂のなかへと吸い込まれていく。

 多少の増水など意にも介さず、そのすべてを断崖絶壁の先へと放出するだろう。

 きっと地面に辿りつくことすらない。

 標高1,000mから流れ落ちる、滝壺のない滝。

 それがセドナ川の果ての正体なのだ。


 その様子は、きっと絶景なのだろうけれど。

 今回は、それを見に来たわけではない。

 今回ここに来た目的は、あくまで石材の採取だ。

 今度はここから西へ向かって、かつて玄武岩を採取したポイントまで進もう。


 と、いうか。

 流石に雨が降る中、いつか登った天然の階段を登る気はないし。

 この岩壁の上を行き、あの岩壁の果てに近づく気もない。

 増水している川に近づくのより、そちらの方がよほど危険行為だろう。

 それはもはや死亡フラグですらない、ただの自殺志願だ。


(……。)


 でも、ちょっとやりたいと思ってる自分がいる。

 テレポバグできなくて疼いている、ワンダラーの自分だ。

 やめなさい。今回はそういう目的で来たんじゃないだろう。

 死に戻りしたら、石材採取ができないじゃないか。

 せめてそれが終わってから、もう一度ここに来い。

 はい。


 さ、西へ向かいますか。



 *────



  コンッ コンッ ――パキッ


 かつて玄武岩を採取したガレ場まで進み、以前と同じ場所で岩塩交じりの玄武岩を採取している。

 もともとの予定では通常の玄武岩と、この岩塩交じりの玄武岩をそれぞれ採取するつもりだったのだが……そういえば、こちらの岩塩交じりの方については、道具として加工したことがなかった。

 塩が欲しくてすべて破砕してしまったからだ。

 そこで今回は、この岩塩入りの方の岩塊だけを10kgほど採取することにした。

 それに通常の玄武岩の岩塊は、まだ拠点に残っている。

 塩にする選択肢がある分、こちらを多く採取しておいた方が、応用性が高いだろう。


 というわけで、以前にも楔で割った雪華入り玄武岩の柱を、再び楔で割っているところだ。

 以前採取したのと同じ高さのまま残っているあたり、どうやら他にこの柱から岩石を採取しているプレイヤーはいないらしい。

 そんなことをしなくとも、岩壁沿いには岩の塊がごろごろと落ちている。

 わざわざ岩の柱を割る必要があるのか、と言えばほとんどない。

 俺たちがこの岩の柱に目を付けたのも、なんか綺麗な岩があったから、という程度の偶然だ。

 まさかそれが岩塩交じりだとは、採取したときには夢にも思わなかったが……。


  コンッ コンッ ――パキャッ


「なるほど。……なるほど?」


 今回は、【石工】技能をつけてきている。

 石工をつけた状態でこうして岩を割るのは、なにげにはじめてだが――

 感覚としては、伐採と似ているような、そうでないような。


 楔の底部を叩くとき、衝撃が楔を伝って岩を割打する。

 このとき、叩く角度によって割ろうとしている岩石への衝撃の伝わり方がちがう。

 斜めに叩けば衝撃がうまく伝わらないし、岩の中にある目に従って割れにくくもなる。

 つまり石工術は、楔を当てる角度と楔を叩く角度、その2つがもっとも大事なのだが――


  コンッ コンッ ――パキ


 ふむ、衝撃が岩石の中にスッと伝わるような感覚がある。

 もともとこの作業には大して力は必要ない。

 岩の中にある目を剥離させる程度の衝撃を伝えればいい。

 ただ、逆に言えば、目を剥離させる程度の衝撃は必要だということだ。

 そのため、大きな岩を割ろうと思ったなら、正確かつ精密に楔を打つ必要がある。


  ッカン!! ――パカッ


 伐採の時と同じだ。

 技能のアクションアシストにより、ある程度勢いよく楔の柄尻を打っても、衝撃がぶれない。

 ちゃんと岩の目に沿って衝撃を伝えることができる。

 作業の精密さが上がる。結果として、軽い力で、より大きな岩を割ることができる。


  ッコン!! ッコン!! ――パキッ


 花崗岩の楔もいい感じだ。

 今回の楔の形状は、どう見ても石工術には向いていないが……。

 岩の割れ目に突っ込んで、亀裂を広げる方向の力を与えるだけなら問題ない。

 尖らせてある楔の先端が割れないようにだけ、注意して。

 岩石を剥離させられる程度に強く、楔の先端が割れ潰れてしまわない程度に弱く。

 コンコンと叩く。

 ……もうすぐ二つ目が割れそうだ。


  コンッ… コンッ… ――パキッ


 ミッションコンプリート。

 柱状節理の節2つ分。おおよそ10kgの岩塊を岩の柱から割り取ることができた。

 これで、この場所での目標は達成だ。


 ここまでに掛かった時間は1時間と少々。

 概ね予定通りだ。

 あとはこのままさらに西に向かって、花崗岩層の岩場で適当な花崗岩を拾う。

 そして、そこでもう一つの目的を果たせば、あとは帰るだけだ。

 拠点に戻るまで、あと1時間くらいを見ておけばいいだろう。


 ……このゲーム、相変わらずもの凄い勢いで時間を溶かしてくる……。

 アウトドア体験をしているようなものだから、当たり前だけど。

 ゲームは一日一時間、なんて言われた日には、移動だけで終わってしまうぞ。


 ま、それは多くのオンラインゲームにも同じことが言える。

 オンラインゲームというものは、どいつこいつも時間泥棒なのだ。



 *────



 雨の中、セドナ南の岩壁に沿って、西へ20分ほど。

 採取した10kgほどの岩塊が、足に負担を掛ける。

 ブーツの中はとっくにずぶ濡れだ。

 傘もさしていないし、レインコートを着ているわけでもない。

 雨に打たれるまま打たれているのだから当然だ。

 これがアウトドアキャンプの最中なんかだと、ものすごい憂鬱になる。

 なにせ無事にテントに帰っても、身体は濡れたままなのだ。

 濡れた衣服はどうしようとか、靴を乾かすために丸めた新聞紙を突っ込むだとか。

 翌日になっても乾いていない、湿った衣服の問題とか。

 ずぶ濡れになるというのは、そういう尾を引くのが厄介な問題だ。


 だがこの世界なら、洗浄室に入れば一発解決だ。

 身体も乾くし服も乾く。脱出ポッドの内部は温度も湿度も快適。

 雨の中で辛い思いをすればするほど、帰ったときの至福を味わうことができる。

 真夏にエアコン全開で毛布を掛けて寝るがごとき贅沢だ。

 真冬にこたつでアイスでもいいぞ。

 とにかく、このゲームにおける雨中の探索はそう憂鬱なことばかりでもない。

 なにより、死んでも死に戻ることができる。

 その保険があるおかげで多少の無茶もできる。

 ……俺は死ぬつもりはないけれど。



(……っと、この辺だったよな)


 右手を見れば、見覚えのある木の配置。

 左手の岩場は、暗くてよく見えないが……。

 仮想端末のマップを開けば、やっぱりここは拠点の真南。

 以前にもカノンと散策し、トンボモドキに出逢ったり、花崗岩を拾ったりした場所。

 あとは、ここで花崗岩を採取すればいい。


 そして、ここに来た目的は――それだけでは、ない。



 *────



 ずっと気になっていた。

 一度調べるべきだと思っていた。

 調べなければならないと思っていた。

 だがカノンがいるときには、あまり来たくなかったのだ。

 カノンはあの時、それを言わないことを選択したから。

 その理由がわからなかったから。


 だが、以前にも言ったと思うのだが。

 なにか気になることがあったとき、「まぁ、いいか」で済ませてしまうのは、よくない。

 それは絶対に、一度は調べるべきなのだ。

 それがのちのちの致命傷に、つながって欲しくないならば。


 ……たしか、このあたりだったよな。

 暗い色に染まる岩壁の、俺の目線より少し高いところにある段差の上。



 そこに、黒より黒い穴が、開いている。


 そこに、亀裂が空いている。


 岩壁を縦に裂くようにして開く、大きな亀裂が。



 かつてカノンと一緒に覗き込み。

 俺は【夜目】がなかったがゆえに、なにも見えず。

 だけど、この亀裂を覗き込んだ、カノンは。

 なにかに、気づいたようだった。


 カノンは、そこで立ち止まった。なにかに気づいたかのように。

 そうして、少し俯いた。なにかを考えるように。

 そうして、肩に掛かったケープに触れた。なにかを確かめるように。

 そうして、首をふるふると横に振った。なにかを振り払うように。

 そうして――こちらを振り返り、言ったのだ。


 『……んん。暗すぎて、あんまり見えなかった』


 あのときの、カノンの所作の意味を、俺はいまでも測りかねている。

 そして、それは、きっと――


 正しく、測られなければならない、ものなのだ。



 測ると言っても【測量】は持って来なかった。

 この雨夜では、【夜目】も頼りない。

 代わりに持ってきたのは【危機感知】と【聴力強化】。


 玄武岩と花崗岩の楔が入った革袋を、岩壁近くの木の傍らに降ろす。

 ここからは、衣擦れの音、滴る水滴の音すら邪魔になる。

 グローブもブーツも、ベストもズボンも脱いで、革袋と一緒にまとめて置く。

 そして、夜闇に溶け込むインナースーツのみを纏う。

 舐めプレイなどではない。これがかつての俺の本気のスタイルだ。


 外した装備の代わって、革袋の中から、一本の細い石楔を取り出す。

 これが必要だ。そして――これだけでいい。


 そうして俺は、岩場をよじ登り、亀裂の中へと足を踏み入れる。

 気分が高揚する。聴覚が、研ぎ澄まされていくのを感じる。

 仮想端末で時刻を確認すれば、現実の時刻は21:56。

 ……場合によっては、帰るのがちょっと遅くなるかもしれない。




 では――行こうか。


 一切の光のない、夜目も利かない、完全なる暗闇の中へ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る