セドナの中央部(1)
セドナ川を北に向かって遡上し、遂にカオリマツの樹林帯を抜けた俺たちが目にしたもの。
このセドナの中央に位置する平野部の景色。それは――
*────
――視界を満たす、一面の緑。
黄緑や、若緑、緑褐色といった色味を示す、大地に繁茂するさまざまな植物たち。
大地を覆いその土壌の色を隠す、細く薄いやわらかな草葉。
その草葉にちらほら混じる、野花のような黄色い花弁。
まわりの草花よりも少しだけ背の高い、薄荷の金平糖のように星型に花開く、薄く透き通った小さな白い花。
窪地のような低地部分にひときわ繁茂する、広く笠を広げる若草の低木。
樹林帯に生えていたのとは別種の、どれもまったく見覚えのないそれらの植物は、せいぜいが膝の高さまでといったところで、視界を遮ることはない。
その一つ一つに、無数の未知が潜んでいるだろう。
その一つ一つが、この星の生命を支えていく糧となるだろう。
この先に広がる平野はまさに、このセドナにおける植物の豊穣地と呼ぶに相応しい。
だがこの平野は、決して平らな草原ではなかった。
あるいは平野と呼ぶことさえ、不適当なのかもしれない。
この生命に満ちた平野には、段差上の起伏が多数存在する。
起伏を作り出しているのは、まるで地面が上下にずれたかのような、歪な起伏。
小さく切り立った――断層の岩肌。
衛星写真では、まったく起伏のない草原のように見えたこの平野は、その実、まったく平たくはなかった。
隆起したのか、沈降したのか。
かつてこの地で、大きな地殻変動でもあったのか、それともまた別の成因によるものか。
大きなものでは高さ3mにもおよびそうな荒々しい岩肌からなる断層が、平野のあちこちに切り立ち、高低差を作り出し、この草原を見通そうとする者の視界を遮っている。
その崖の岩肌は白い。白い岩石層。
なだらかな起伏からなる丘陵地帯というよりは、いくつもの小さな崖が作り出す断崖丘陵地帯と呼ぶべき地形。
それが、セドナ中央部に広がる平野部の正体だった。
「……。」
今日の天気は曇天。あいにくの空模様。
視界を満たす一面の緑も、天から降り注ぐ光を受けて輝いてはいない。
草原を渡る風も、どこか湿り気を帯びている。
晴れ渡る快晴の日であれば、この光景は、もっと美しい輝きを見せてくれたのかもしれないが――
「……フーガくん、あれ」
カノンが指さすのは、この丘陵の、上空。
この丘陵地帯の空を覆う、厚く重たげな輪郭のぼやけた雲塊の海。
朝と昼のあわいに滲む曇天の空。
そこから。
天の気まぐれか、それともこのあたりでは珍しくもないのか。
厚い雲の切れ間から差し込む光条が、まるで柱のように、雲の向こう側への梯子を降ろす。
灰色の空へと掛かるその色は、なぜか、淡い薄緑色で。
「――……。」
そんな微かな薄緑の光の柱の下にあるのは、
仄暗い丘陵にひと際高く突き出された、白い断崖。
地上へと降ろされた、光のはしご。
それは、まるで宗教画の一場面のようで。
神聖で、神秘的で、近寄りがたくて。
どこか、ものがなしい。
そのはしごを昇るものも、
昇ることができるものも、
――誰も、居はしない。
*────
思わず、ぽつりとつぶやく。
「思ってた景色と、ちがったんだけど」
「うん。……てっきり、草原かと思ってた」
「俺もだ。でも、誰がどう見ても、この地形は草原、平野ではないよな……」
まずはそこからだ。
平たくないし。視界もそんなに通ってないし。
風に揺れるような背の高い植物も、そんなに生えてないし。
想像していたのより何倍も、立体的で複雑な地形だ。
視界の中にいくつも見える、低い岩壁――というか、段差上の岩肌。
それは、大地が上下にずれることで生じた小さな断層だろうか。
なるほど、垂直方向に生じた断層は衛星写真には映らない。
だからこの場所は、マップで見ると平野に見える。
しかしその実、ここは幾つもの段差状の断層によって立体的に区切られている断崖丘陵地帯だ。
周囲の樹林帯と比べて、このセドナ中央部にプレイヤーの拠点の示す光点が妙に少なかったのも納得だ。
この段差状の断崖からなる丘陵地帯には、脱出ポッドが着陸できるような、地表面が平たく、ある程度の広がりがある空間がそれほど多くないのだろう。
この丘陵地帯に着陸したプレイヤーは、たまたま断層が生じなかった場所に、断層に囲まれるようにして着陸しているのではないだろうか。
続いてカノンが、空に見える光の柱について触れる。
「あの空にある光の柱って、現実にもあった、よね?
たしか……『てんしの、はしご』?」
「よく知ってるな、カノン。いろいろ呼び名はあるらしいが……」
薄明光線とか。
レンブラント光線とか。
光のパイプオルガンとか。
天使のはしごとか。
ヤコブズラダー、とか。
『人は、一日に一歩ずつ「ジェイコブの階段」を登っている。』
この世界に、かの聖人はいないだろうが。
だからこそ、この世界ではより一層らしい名称だと言わざるを得ない。
それは誰もがその信仰とは関係なく登ることになる、きざはしの名なのだから。
……カノンにはこのネタは言わない方がいいな。
今後見る機会があるかもしれんし。
できるならば、なにも調べずに見て欲しい映画だ。
「でも、なんか、色がついてる、よね?」
「淡い……緑色、だよな、あれ」
太陽光が雲の薄いところから地上に差し込むことで生じる薄明光線というものは、だいたいが白色、ときおり橙色や黄色に見えるが、……淡い緑?
惑星カレドにおいて俺たちの頭上から降り注ぐ恒星の光が、太陽光線とはちがうことに関係があるのか。
この星に降り注ぐ恒星の光は、太陽と同じ白色光だ。
一応そのスペクトルに含まれている可能性はあるが……。
「そういうことも、ある?」
「……現実では見たことはないな。あるいはこの星の、大気中の成分に……?」
この星の大気成分は、人間が呼吸によって酸素を取り込むことができ、かつ人体に害をもたらさない程度のものであるということは確かだが、それ以上のことはまだわからない。
未知の物質が大気中に漂っており、その物質があのような光を反射するのかもしれない。
だが……さすがにこの場では大したことはわからないな。
あの光の柱が、薄明光線と同じ理屈で生じているのかどうかさえわからない。
そもそも、現実の自然現象だって、科学的に解明されていないものが幾つもあるんだ。
火山雷とか。セントエルモの火とか。
そのメカニズムが科学的に解き明かされたと思ったら、後年まったく別のメカニズムであったことが判明するなんて、よくあることだ。
未知の惑星の未知の自然現象を、初見で理解することは難しいだろう。
科学的な見地に基づいた検証と究明が必要だ。
「……どうせなら平野部には晴れの日に来たかったとか、ちょっとだけ思ってたんだけど。
これまた珍しいもんを見られたな。」
「あの光って、……危なくはない、よね?」
「……わからん。けど、あの現象が俺たちの身体を直接害することはさすがにないんじゃないかな」
そのときはこの星に一つの伝承が生まれることになるだろう。
「空に輝く緑の梯子が現れるとき、災厄が訪れる」みたいな。
それもけっこう面白いな。そのときの語り部はたぶん俺たちだろう。
カノンと共に、その神秘的な光の柱をしばしの間見学していると、
「あっ、消えちゃう……」
「雲の切れ間がなくなっちゃったからだな」
その神秘的な光景を目撃することができた時間は、1分あるかないか。
光の柱はすぐに空へと引っ込み、厚い雲に覆われてしまう。
そうして淡い光すらも奪われたこの丘陵地帯は、午前10時前にもなろうというセドナの時刻から考えれば、やはり仄暗い。
うす暗い、というほどではないのだが……。
もう少し雲の色が濃くなれば、いますぐにでも雨が降りそうだ。
あの現象が見られたあたり、上空の湿度はかなり高いのかもしれない。
どこまで持ってくれるかはわからんが、本格的に降り始める前には方々の目的を達成したいところだ。
雨宿りをしようにも、この丘陵地帯にはひさしの一つもないからな。
ちなみに。
この地に降る雨が、果たして「大丈夫なのか」という点について、俺は既に諦めている。
セドナ川に流れる水は、ちゃんと水だった。H2O分子からなる液体だった。
この地域の気温も、そこまで異常を喫しているわけではない。
たとえば雨雲を構成するであろう海水の成分などは、まだわからないが……。
恐らくこのあたりに降る雨は、水を主成分とする液体であるだろうと考えている。
なにかが混じってて酸性や塩基性に極端に偏ってたりする可能性はあるから、そこだけは確かめたいとは思うが。
舐めてピリピリしたら強酸性で、皮膚がぬるぬるしたら強アルカリ性。
酸性については、そちらに偏ってることよりも、混じってる化学物質がなんなのかの方が問題だ。
*────
ちょっとした余談。
俺がこれまで降られた雨の中でもっとも致命的だったものは、前作『犬』で「ワスプ荒原」と名付けられた灼熱の荒野に降る、重金属の雨だ。
その荒原は、ある時期には日中の気温が八十度を超えるという地獄の大地。
近くに巨大な活火山があり、吹き上げられた金属物質が定期的に大地に降り注ぐ。
水銀混じりのその金属は融点が極めて低く、たかだか七十数度。
ゆえに雨のように降り注ぐことができるし、地表を流れることもできる。
だがその環境に比して温度が低すぎる、たとえば人間のような物体がその雨に触れると、たちまちその物体の表面で固体化してしまう。
そうなったら終わりだ。
火傷で死んでもいいし、金属毒で死んでもいいし、固着した重量で圧死してもいい。
全身を覆う耐熱スーツを用いての探索が行われた時の結果は悲惨なものだった。
液体化していても重量が変わるわけでもなし。
空から銃弾の雨に降られているようなものだ。
遥か上空から打ち付ける液状金属の衝撃に、たとえ耐熱スーツが耐えられても、その中に入っている人間の身体が耐えられないのだ。
たとえ耐えられても、スーツの表面で固着した金属がその身を灼熱の大地に縛り付ける。
……あの場所はサービス終了まで未開拓のままだった。
あの地獄の鍋底が、人類によって攻略されないまま電子の海に消えたことは残念でならない。
ところで、……なぜあの場所は「ワスプ」という名が与えられたんだろうな。
俺は見なかったが、あの地獄に棲むような蜂でも見つかっていたのだろうか……?
*────
「とりあえず、カノン。あの断崖の高台に昇ってみないか?」
「光のはしごが掛かってた、ところ?」
「うむ。見た感じ、このあたりだと一番高そうだから」
樹林帯を抜けたばかりのここからは、この断崖丘陵地帯の全景を見渡すことができない。
高いところでは3m近くにもなる断層が、幾つも切り立ち、視界を遮っているのだ。
だが逆に言えばそうした断層の上側の、ある程度高いところにいけば、この丘陵地帯の遠くまで見渡せるのではないかという目論見だ。
あるいはこの丘陵の北の果てまで見通せるかもしれない。
「んっ。わかった。じゃあ、行こっか」
「……カノン。ここからはグローブつけていこう。
毒草とか混じってるかもしれないし、素肌は晒さないほうが良い」
刺してくる虫とか要るかもしれないしな。
川沿いに生えていたのは藻や水草のような地を這う植物ばかりだったからあまり警戒しなかったが、膝下まで生えているとなるとそこそこ警戒したいところ。
「それにこれだけ断層があるとなると、草花の下に見えない段差や穴ぼこが隠れている可能性もある。
両手も開けておいたほうが良い」
「……んっ、わかった……」
名残惜し気に、俺の手を離すカノン。
カノンが
片手が塞がったままこの手の地形に足を踏み入れるのはさすがに悠長が過ぎる。
ここはTPOを弁えていこう。
「……よし、じゃあ、とりあえずはあの高台まで行こう。
左側から回り込めば、歩いて行けそうだ。そうすれば、わざわざ断崖を攀じ登る必要もない」
「んっ、行こっか」
そうしてようやく、俺たちはセドナ中央部の丘陵地帯に、足を踏み入れた。
まずは、この丘陵地帯の全景を把握するとしよう。
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