ワンダリング・ワンダラーズ!!

ツキセ

ワンダラー、再び

「――っ、はっ、はぁっ……!」


 陽光さえも遮りとざした、鬱蒼した森の中。

 耳朶じだに這い寄る、梢の不規則なざわめき。

 鼻腔に入り込んでくる、淀んだ土の匂い。

 渇いた口内には、かすかに鉄の味がする。

 薄手のレザーグローブの、内布の湿り気。

 足裏に感じる、熱を持った不快なぬめり。


 一つ一つの知覚を、拾い上げている余裕などない。

 いまは、ただひたすら、がむしゃらに――走るッ!


「――っはぁっ、はぁ―― ……ッ!」


  ヒュルンッ


 ふいに右耳に入り込む、細く高い風切りの音。

 なにか細いものが、右後方の宙を走っ――


「――ぅぉぉぉおおおっ!?」


 咄嗟、首を左へぐいんっと倒した直後。


  ヒュボッッッッ


 恐ろしい速さで宙を走る、なにか―― 細長いもの。

 それは、暗緑色の、一条のつた

 右耳の真横を通り過ぎたその蔦は、前方に立つ朽ちた大木を、


  バゴォォォォンッ!!


 その身に似合わぬ剛性を発揮して破砕し、なお勢いを失わず。

 まるでこちらを追尾ホーミングしているかのように湾曲し、再び宙を走ってくる。


  ヒュンッ


(――ッ)


 およそこの世のものとは思えないその挙動に、悪態を吐く暇もない。

 大きく左に崩れた体勢から左足を突き出して、強引に立て直す。

 その動きのまま膝を折り上半身を屈めて。

 正面から突きこんでくる緑の槍を回避し。

 左手を、湿った地面に向けて突き出して。

 地を跳ねるように、前方へと駆け抜ける。

 大気を切り裂く蔦の音が――遠ざかる。


(――躱したッ!)


 だが、喜んでばかりもいられない。

 俺を紙一重で殺し損ねたその蔦だけを気にしているわけにはいかない。

 なぜなら。


  ゾゾゾゾザザゾザッ――


 俺が、自身のに入ったと感知するや否や。

 頭上を厚く覆う、鬱蒼と茂った枝葉の中から。

 森の地表に積もった、幾層もの腐葉の中から。

 行く手を遮る、大小無数の樹々の幹の影から。

 ――ええい、ようするに全方位から。

 その身に大木を破砕するほどの剛性を備えた幾条無数の蔦が、明らかな殺意を伴って、どこかのロボットアニメの中で見たことがあるような、へにょるレーザーのような軌道で、俺の方に突き刺さってくるのだ。


 ――殺意?

 こいつらにそんなものがあるのか?

 こいつらは、まるでオジギソウのように。

 俺が、ただそこにいるから蔦を突き刺す。

 ただそれだけなんじゃないか?

 こいつらに、この森に。

 俺に対する殺意があるのか。意志はあるのか。

 そんな疑問はこの際どうでもいい。

 どちらにせよ捕らえられたら死ぬ。

 刺し殺される、絞め殺される、破壊される。

 あるいは、それよりひどいことになる。

 それだけで、俺がやるべきことは定まる。


 なんとかして、なんとしても、


(――この森から脱出するッ!!)


 時には頭を抱えてしゃがみ込み、時には前方へ身体を投げ出し。

 時には湿気った地面に這いつくばり、時には切っ先を回避した蔦の側面に敢えて弾かれ。

 致命の一撃を躱す。躱し続け、走り続ける。

 無様であってもいい。どうせ見ている者などいない。

 視覚・聴覚に加え、触覚・嗅覚をも最大限尖らせる。

 攻撃されてからでは間に合わない。

 攻撃未然の気配を察知して、立ち回りで捌き続けるしかない。


 状況は、一向に好転する兆しを見せない。

 どれだけ躱しても、どれだけ走っても。

 どちらに動いても、新たな蔦のに入ってしまう。

 だが、もはや一瞬たりとも動かないではいられない。

 立ち止まったその時、この森のすべては、その無数の蔦で俺を絞め殺すか、鉄線のような蔦で串刺し刑を執行するか――いずれにせよ、ロクでもない結末を俺にもたらすだろう。

 ぶちまけられて、森の養分おやつになるってのが結末オチの第一候補だ。


 無茶な動きを続けたことで履き潰してしまった靴の底から、森の水気が染み込んでくる。

 それだけではない。左足の小指のあたりから、無視できない鈍痛も伝わってくる。

 思わず舌打ちが出そうになる。この紙一重の逃避行は長くは持たない。

 どうにか。どうにかしなければ――


  フッ――


 ふと、左の頬を掠めた、空気の揺らめき。

 それはどこからか吹き付ける、風の気配。

 釣られるように、左手を見る。

 その先にも、鬱蒼とした森は続いているが――


「――ッ!! 南無三ッ!」


 かすかな風の通り道に向かって、駆ける。



 *────



 どこからか吹く風の気配を頼りに、必死の逃避行を続けること数分。

 果たして――次第にまばらになる樹々の先にみえる、やわらかな光。

 その先に大きく開けた空間がある。

 風はそちらから森へと吹き込んでくる。

 森が、途切れる。


(で、出口っ――)


 ――その時だ。


  ボゴッ ボゴゴッ――


 前方の地面から響く、土くれがめくれ上がる音。

 俺の脚を絡め捕るように、地中の根が持ち上が――


「だぁらっしゃぁあぃ!!」


 ここらで絶対なにか仕掛けてくると思ったよ!

 逃がさん……お前だけは……ってな気配が隠せてねぇからなァ!


 前方に向かって蹴り足を振り上げ、ハードル走の要領で根を飛び越え――


(――ぐぅっ……ッ!!)


 ――たいのに、足が上がり切らない。

 太股に溜まった重い熱が、鈍く痛む足裏が、脚の動きを鈍らせる。

 加えて根っこが持ち上がるスピードも、思った以上に速い。


 ――


(――きっついなッ、もうッ!)


 だが、立ち止まるわけにはいかない。判断は一瞬、方針転換だ。

 両腕を振り上げ、上半身を、根の上の空間に向かって投げ出す。

 そのまま両腕で頭を抱え首を引き、敢えて痛む方の左足で地を蹴る。


ッ! ……だがッ!)


 持ち上がってきた根の、手前側。

 太くしなるそれを、強引に跳ね上げた右足裏で踏みつけて、

 足裏に返ってくる弾力さえもばねにして、腰から下を跳ね上げ、

 そのまま両足を腰の上までに引きつけ、重心が移った上体を前方に倒し――


  ぎゅるんッ


 ――身体が、中空で前方に縦回転をはじめる。

 これは断じて前転などという高尚な動作ではない。

 誰かが見ていたなら「なにその、空中……でんぐり返り?」と嗤われるかもしれん。


「ぅぐッふッ」


 空中でくるりと回り、背中から落ちた身体が、空気を絞り出す。

 呼吸が詰まる。チカリ、と一瞬視覚が明滅する。

 だが、姿勢はそのままだ。

 そのまま回転を続け、両手を地面に叩きつけるようにして、タイミングよく身体を跳ねれば――


(――ぃぃよぃしょぉッ!)


 跳ね起きた身体は、再び、前方へと走り出す。

 うまいこと根を蹴ることができたおかげで、なんとか身体が回りきった。

 綺麗に背中から落ちることができたのは、本当によくやったと自分を褒めたい。

 勢い足りずに首から落ちたら頸椎がイカれてたかもしれん。

 受け身の経験だけなら誰にも負けないと自負しているが、それでもこの状況で成功するかどうかは五分五分だった。

 つまり――運がよかった。

 そもそもここまでの傷だらけの逃避行のなかで、骨の一本も折れていないのが奇跡なのだ。

 これも俺の日頃の行いの賜物と言えるだろう。

 だから先ほどから左足小指の根元が鈍痛を発しているのは気のせいだ。

 折れてない、まだ折れてないぞ。


 そうして決死の思いで、遂に森を抜けた俺の前に、姿を見せたのは――


「は、はは――」



 *────



 そこにあったのは、森をどこまでも引き裂くように、左右に口を大きく広げる巨大な峡谷。

 ここからでは谷底は見えないが……渓谷の幅から見て浅いということはあるまい。

 墜ちれば助からないだろう。

 そして、対岸までの距離は――目測で、10メートル強。


 火照った頬を撫でる、冷ややかな風。

 俺を森の外へと導いてくれたその風。

 それは、この峡谷の下方から吹きあがる風だったのだ。



 *────



 徐々に強くなる背後のざわめき。

 視界の端で不規則に揺れはじめる枝葉。

 もはや振り向くまでもない。

 どうやらこの森は、森を少し抜けた程度では逃がしてくれそうもない。


 現状の再確認だ。

 許された時間は5秒もない。


 考えろ、考えろ――

 背後から襲い来るは森そのもの。

 前方に広がるは左右に巨大な口を開ける峡谷。

 峡谷に分断された森は、峡谷に沿って左右に延々と続いている。

 峡谷に沿って逃げる、といったことはできそうもない。


 つまり、選択は二つに一つだ。

 前に進むか、後ろに退くか。

 果たしてどちらが、生き残る可能性が高い。


 後方の森の中に戻り、生き延びる方策を探す。

 言うまでもなく却下だ。

 それらができそうもないと判断したからここまで逃れてきたのだ。

 そもそもこの森は、現状ではなにもかもが

 四半刻ほど前に見た、あのうごめく塊が、この森のだという確証はない。

 あれすら、なにかこの森を支配する存在の支配下にある一個の生命かもしれない。

 その支配は、森の中にいること自体をトリガーとし、俺にまで及ぶ可能性もある。

 背後の森は、一個の人間がどうすることもできない、人類に仇なす世界そのものだ。

 現状でこの森を攻略するには、調査のための計器類も、検証のための人柱も。

 襲い来る樹々に立ち向かうための武器も、身を護るための防具も。

 もうなにもかもが足りてない。


 一方。前方の峡谷、手前側の岩壁を降りる。

 これも却下。

 後ろの森に追尾される可能性を抜きにしても、そこにあるのはほぼ垂直の岩壁。

 見れば峡谷は下方に向けて広がっているようで、その傾斜は垂直ですらない。

 そんな断崖を、まともな装備もしていない今の俺がまともに降りられるわけがない。

 1秒すらもたない自信がある。

 登攀とは言わない。せめて握力強化でもあれば、現実的なアプローチの一つになったかもしれないが――


(――詰んだ)


 訂正。

 これは流石に詰んだかもしれん。


(――だけど)


 それでも俺は、生きるのを諦めるわけにはいかない。

 足掻くのを、やめるわけにはいかない。

 早鐘を打つ心臓を。疲労と恐怖で震える脚を。

 酸素不足でガンガンと鳴る耳を。ブレる視界を。

 五感が叫び伝える身体の悲鳴バイタルサインを。

 気合で押さえつけて、それでも足掻くんだ。


 そうして俺は、この状況を生き延びられる可能性が最も高いと考えられる、それをする。

 前方に口を開ける、幅10メートル強の峡谷に向かって、全力で走り出す。


 走り幅跳びの世界記録、今はなんメートルだったか。

 9メートルとか10メートルだったはずだ。だったら、さ!


「今から行くぜ――待ってろ世界記録ッ!!」


 降り頻る絶望のヴィジョンを打ち払い、峡谷に向かって垂直にひた走る。

 ここに来るまでに精根を使い果たしている。

 脚は重く、息は切れて、その助走に力強さはない。

 それでも俺は、前を、前だけを見る。

 眼前に口を広げる峡谷が、俺を喰らう絶望ではなく――活路への希望だと信じて。


 カチカチと鳴る歯は、絶望からか、疲労からか。

 走れているか。走れるだろう。お前は。

 何度も。ずっと、そうやって。

 足掻いてきただろう。

 その足掻きが、

 幾百幾千と失敗しても。

 その先に、幾百幾千の死が降り積もっても。

 それでも俺は、それをやめなかっただろう。

 だって、それが、それこそが。

 俺の、俺たちの。

 としての矜持だったんだ。


 背後に膨れ上がる気配。押し寄せる森。

 触腕のように振るわれる幾条もの蔦が、

 鉄線のように俺の四肢を貫かんとソラを走る。


「うおおぉぉ――ッッ!!」


 そして俺は、峡谷の端から。

 これまで経験してきた走り幅跳びの中でも。

 きっとこれ以上はなかっただろうというタイミングで、踏み切った。

 重力に抗い、重たい身体を峡谷の空へと打ち出す。

 角度は45度に足りないが、それでも。


(行け――いけッ!)


 そうして、

 1秒か、2秒か、

 空を駆け、


 ふっ、と。

 近づく対岸の岩壁、全身を包む浮遊感。

 打ち出された身体が放物線の、最高点に達したのだ。


 やがて――視界いっぱいに、険しい岩壁が映り。

 ゆっくりと加速しながら、上方へと流れていく。


 身体の下方から吹き付ける、風。

 前方へと空転をはじめる、身体。


(ああ、墜ち――)


 眼下を見遣れば、それはちょうど峡谷の中央あたりの宙。


 スローになる意識。

 冴える知覚の片端が、それを捉える。



 *────



 それは暗い渓谷の岩壁に突き出る柱状の岩々。


 それは岩壁の隙間から咲き誇る白い花。


 それは光に煌めく紺碧の鉱物。


 それは谷底を流れる深い蒼。


 それは空を切り裂く音。


 それは身を引く重力。


 それは暗い水面。


 それは耳鳴り。


 それは風。


 それは、


 この世界で、


 いまのところはまだ、


 俺だけしか見たことのない景色セカイ


 いまの俺は、目の前を過ぎ去っていく、


 それらの景色を織りなしている、


 一つ一つのいろの名を知らないけれど、



  なんて きれいな



 そう形容する前に、心が揺れていた。



 *────



 そして再び、意識は加速する。

 渓谷を渡る風に煽られ、峡谷の半ばで水平方向への力を失った俺の身体は。

 峡谷の暗い宙を割り、谷底を流れる渓流に、どうしようもなく引かれ行く。

 向こう側の岩壁に、ぶつかることすら――ない。


 嗚呼、


(半分くらいは、行けたっぽいんだがなぁ――)


 眼窩から、なにか熱いものが滲み出す。

 視界を僅かに滲ませたそれは、すぐに目元を離れ、下方の空へと吸い込まれていく。

 思わず零れた心の汗よりも早く、この身体は谷底へと墜ちていく。

 目を開けていられないほど強くなる大気の圧力を、顔いっぱいに感じながら。

 俺はぎゅっと、こぶしを握る。


 そのこぶしに込められているのは。

 勝機のない状況に追い込まれたことへの怒りでも、

 逃れえぬ死を直前にした嘆きでも、

 これから死ぬことに対する絶望でもない。


 抑えきれない熱を宿した――途方もない悦び。


 帰ってきた。

 帰ってきたんだ。

 あの時よりも怖く、あの時よりも熱い。

 あの時よりも鮮明で、あの時よりも鮮烈な。

 圧倒的な現実感リアリティを引っ提げて帰ってきたソイツのところに、

 俺はとうとう帰ってきたんだ。


 嗚呼――


「――サイッコウだぜッ、ワンダリング・ワン――




  ――ゴボッ




 最期に聞こえた音は。

 なにかが渓流の水面を突き破り。

 光届かぬ蒼い水底に、濁った赤い花を咲かせた音だった。






 そして――意識は、暗転する。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る