昔の話〜也凪編(1)



 泰剔たいせい二年色取月ながつき下旬。也凪やなぎはまだ瑠璃るりを知らない。


 この島国の夏は短い。山は頂から順に秋の支度をし始め、盛夏を彩った緑の葉をいよいよ散らさんとす。秋晴れを感じさせる突き抜けの青空に薄雲が柔らかにかかり、海は今日という日を言祝ことほぐかのように凪いでいた。

 満月島は、毎年の色取月ながつきに執り行われる祭祀のために、慌ただしくなっていた。早苗月さつきの祭祀とは異なり、色取月ながつきの祭祀では、毎年師従しじゅうの女子が舞を披露する習わしになっており、今年の巫女役には也凪が選ばれていた。


 也凪は紅をさして、艶やかな衣装を身に纏った自分の姿を鏡に写す。淡い水色の薄衣の大きく開いた胸元は少し寂しいものの、意匠の凝らされた刺繍の白地の下襲が美しい。腰の一番細い位置を強調する下衣の帯は金と紅が飾り、幾重に重ねてなおふわりと薄く透ける淡紅の裾の広がりが可憐な花びらのようだ。

「私が昔着た衣装だったけれど、仕立てもちょうどね。良く似合ってる。綺麗よ」

 着付けを手伝った紫暮しくれが藤紫の瞳を細める。その横で、たたらは腕を組んで生意気な顔をしていた。

だね」

「喧嘩売ってるわね。買うわよ」

「お、やるか〜? 久しぶりの、殴り合いの喧嘩ってや、つ……」

「は、やらないでちょうだいね」

 紫暮がぴしゃりとたたらを諌める。たたらが「はあい」膨れる姿に、也凪は内心で、そんな喧嘩やったことないでしょ、と舌を出した。


 紫暮は、也凪を鏡台の前に座らせると、化粧箱を手元に引き寄せた。彼女は櫛を取り出すと、也凪の白銀に波打つ髪を丁寧に梳く。髪は光を浴びるごとに艶めいていた。髪を誰かに梳いてもらう感覚が、ひどく懐かしい。

「也凪の髪、伸びたね〜」

「いつの話してんのよ。当たり前でしょ」

 たたらは可笑しそうにくすくすと笑っていた。きっと、也凪が髪を短く切り落としたときを思い出しているのだろう。それは、遠い昔の話だ——



 ***



 初恋というものがあるとすれば、也凪のそれの相手は、間違いなく風月ふうげつとしてよい。

 当時は島童しまわらべの数がうんと多く、世話係にはその頃はまだ存命だった金伏かなふしを筆頭に、胡蝶こちょう紫苑しおん(彼は、也凪が島を出る前に亡くなった)の他、風月ふうげつ菊乃きくのが担っていた。中でも風月は、面倒見の良い『お兄さん』役で、年恰好も早熟ませた子どもが恋を覚えるにちょうど良かった。程度の差はあれど、島で育った女児はみな、風月のことを一度は好きになったに決まっている。


「ねーー! 髪の毛やって! ねーー、ふうげつーー!!」

「えー! やなぎずるいよ、たたらもやってほしいもん! ふうげつ、たたらが先だよね!?」

「はいはい、順番ね」


 也凪は、毎朝、たたらと一緒に風月に髪を結ってもらうのが日課だった。彼の手が髪を梳く感覚、丁寧に梳かれていゆく感覚、彼の手つきの癖を今でも鮮明で覚えている。涼しくなるうなじのくすぐったさも、鏡越しに目が合った笑顔も、彼の軽口も、仕草も。気づけば、何もかもが好きだった——ずっと、一緒にいたかった。この島を出たくなんかなかった。

 しかし、それは叶わない。共に生活していた島童たちは、ひとりまたひとりと島を去った。島を離れた彼らは、年に数度の祭祀のときにだけ島に帰ってきて、数日すればまた島を発ってしまう。也凪がこのときの感情に『寂しい』と名前をつけた日から、それは容量の小さな幼心に積もっていった。


 ある日、也凪は金伏に突然呼び出されることがあった。金伏は当時から、穏和であり、それでいて一種の近寄り難さがあった。也凪は、好んで彼と会話をすることをしなかったために、彼の面前にひどく緊張していた。

「也凪は、自分の『色』が髪色や瞳の色に表れるというのは知っているね?」

 金伏は金色の瞳をしていた。也凪がこく、と頷くのを見て、彼は耳馴染みの良い音律で言葉を続けた。

「申し訳ないのだけど、少し也凪の色は判別し難い。『緑』を得意としているのには間違いはなさそうだけど、『銀』なのか『白』なのか、という話なんだよ」

「これが難しいんだ」と金伏は苦笑いする。

「少しこちらへお寄りなさい」

 也凪が金伏の側で座り込むと、小さな桐の箱を差し出される。開けてみると、そこには水晶連ねた腕飾りがあった。

「しばらくそれをつけてくれないかな? 色が変わるようなことがあれば、知らせてほしい。ああ、できるだけ他の人には触らせないように。影響を受けてしまうからね」

 也凪は言われるがまま、それを腕に通す。金伏は「わかったかい?」と念を押した。也凪が「わかりました」と頷いて、彼はようやく「もう下がって良いよ」と微笑んだ。


 也凪は同い年のたたらと同室であった。寝ても覚めても一緒で、これからもずっと一緒——きっと。かたみに、一番親しい存在だった。

「今日、金伏さまと何話したの?」

 その晩、「おやすみ」と、蝋燭の灯りを吹き消す前に、たたらが也凪に問いかけた。彼女は也凪と一緒になって伸ばした赤茶色の髪をさらさらと傾けた。

「うん? これ着けててって言われただけよ。よくわかんない」

 たたらは、也凪の右手首を怪訝そうに覗く。彼女は「ふうん」と首を傾げると、

「……私ねー、新月山なんだって。言われたんだ」

「なんで、よりによって新月山なんだろなー」たたらは布団に身を投げ出した。

 ——ほんとは、もう一緒じゃないのかも。

「寂しいな」

 寂しい。也凪が名付けた感情は、たたらの中にも既に存在していた。胸は、空いてしまった穴を、無理に閉じようとする痛み方をするのだ。きゅっと、すぼめるような。まるで、恋をしているみたいな痛み方。

 たたらはころんと転がった。茜色の瞳を也凪に向けて、「ふふふ」と笑う。笑う様子と泣く様子は表裏一体だった。肩の震えも、唇の皺も、溢れる笑みを堪えている訳ではなかった。

「どうした?」

 風月だった。蝋燭の灯りが消えない部屋の様子を見に来たようだ。彼の、こつんと喉仏が出ていて、掠れたがちの声に、也凪はどきりとする。

「何でもないもんっ!」たたらは背を向けた。風月は肩をすくめると、にやにやして、

「なに、どったの。ほら、頼れるお兄さんに言ってみな? あ、也凪に意地悪言われたんだ、……違う? じゃあなに?」

「新月山に行きたくないんだって」也凪は言う。「寂しいから」

 風月は「あー」と、空を仰いだ。困ったような笑い方をして、鼻水をずるずる啜るたたらの背中をさすった。

「なんで新月山なの!? 仲良い子いないもん、半月山ならひな越瑚えつごいるじゃん、私もそっちが良かったのに!」

「これから仲良くなればいいじゃんか。ちょっと歳離れちゃったけどさ、たたらなら朱鷺ときともすぐ仲良くなれるよ、大丈夫だって」

 風月は堰切って泣き始めたたたらを抱き上げた。そのまま、也凪に「おやすみ」を言い残し、二人の声は渡り廊下の先に遠のいていく。ぽつん。也凪は蝋燭を吹き消す。きゅっとなった胸は、すぐに布団で包んだ。

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