とぐさものがたり!

リンダ3月

こひむらさき

 

 しのぶれど こひしかるべき 霧紫

 うるはしき君は 藤波見に来じ


 ——————


 紫暮しくれは恨めしそうに空を見上げた。一面閉ざされた密雲が重く目に写る。


 山で採集し加工した本草くすりの行商に出た道中、「どうかうちの子を」と身なりの貧しい母子に縋りつかれた時分で既に嫌な雲行きであったが、袖にするわけにもゆかない。


 どうせ降られたところで肘笠で凌げるほどであろうとたかを括ったが仇となったようだ。ぽつぽつと降り始めていた雨はすでに地雨となり、さめざめと地面を叩く。紫暮を引き止めた村女はしきりに頭を下げた。

「ああ癒師ゆし様、申し訳ございませぬ。私が声を掛けたばっかりに。どうぞどうぞ、この傘をお使いくださいませ。少々穴などが目立ちますが何もないよりは幾分か宜しいかと思います故……」

「いえ、お構いなく」

 紫暮は胸中の揺らぎを気取られぬように緩やかに笑った。


 頭身低く差し出される使い古された傘。それは和紙を張り替えるはもちろんのこと、補綴もままならないほどに日々の暮らしに窮しているということを物語る。そしてそんな粗末な品でさえ、この家にとっては貴重なものなのだ。次にいつ立ち寄れるかもわからぬ貧しい村家でそのようなものを拝借するはあまりに忍びない。


 彼女は紫暮の言葉に、弾かれたように顔を上げた。

「しかし、本草くすりまでいただいておきながら、なんの礼もできずではあまりに歯痒い思いでございます。何卒どうか……」

 紫暮はせめて軒先でも借りようかと逡巡しかけた自分を責める。満足のゆかない食事、病の気に侵された我が子、痩せこけた顔に見える心労。このまま傘も受け取らずに居座りつづければ彼女の気が休まることはないのは明らかだ。紫暮は薬箱を包んだ風呂敷を結び目を強く握る。意を決して、遮る雨を掻き分ける。

「どうぞ、お大事に」

 どうか今晩は良い夢が見れますようにと、紫暮は振り切る赤切れの手に祈るばかりであった。



 駆け出したところで雨が弱まることはない。無慈悲な冷たさに息が上がったところでまた適当な軒先に身を隠す。紫暮は灰色の雲を見上げては諦めの混じったため息をついた。


 本草くすりはよくよく乾燥させてから使うものが多いために、一度濡れてしまうと良くない。そうはさすまいとしっかりと抱き抱えてはいるもののこの雨、山に戻る頃には到底使い物にはならない状態だろうがもはやいたしかたない。


 ひとまずは人の通らぬ山道へと急ごうとして、足元にふわりと柔らかな生き物の荒い鼻息が紫暮の足の指先をくすぐった。

「あら、ウサちゃん」

 しゃがみ込んでよくよく見ると、見覚えのある赤い前掛けをふんすこと誇るように紫暮に見せつけた。その瞬間で全身がふるりとほころんで、紫暮はそっとその湿った毛並みを撫でる。丸く遮られた雨音が近づくと、慕わしき声が降り注いだ。

「雨が降りそうだったので、迎えに来たのだが。少し遅かったか」

 紫暮が見上げて、陰雨の憂鬱遮り立つ銀色の影が湿り気の帯びた紫暮の髪を見て表情を曇らせた。

「いえ。実はとても困っていたので、助かりました」

 白兎ウサギあるじたる銀麗ぎんれいの足元へ。紫暮はゆっくりと立ち上がると、すぐにに気づく。それはとても可笑しな優しさで、なによりも彼らしいものだった。その温かい優しさに触れて笑わずにはいられない。


「それで」と紫暮は笑みの溢れる口元を押さえながらそっと銀麗を見上げた。

「私の傘はどこでしょう?」

 銀麗の無防備な視線は上、手の平、そして再び上。少しして、紫暮。

「……来るときは降っていなかったんだ」

 銀麗の笑い方は千歳ちとせとよく似ている。歳よりもずっとずっと幼く形を崩すように笑う、そんな笑い方。それは紫暮の知らぬ彼の幼少時代を覗いているようで、どこか懐かしい心地にさせた。

「入れてくださいますか?」

 笑みで柔らかな銀色の眼差しは、紫暮と二人で収まるに窮屈な丸さの中へと招き入れた。


 普段よりもほんの少しゆっくり歩くのは、傘が無くたって彼が歩幅を合わせてくれることを知っているから。彼が水溜りを避けるように導いて、他愛ないあれこれをぽつぽつと言葉で交わす。時折笑って、雨の音だけになって、また笑う。


 紫暮が体の前に薬箱を抱き抱えて何度か持ち替える様子が重たく見えたらしい、銀麗の声が降った。

「持つか?」

 傘の下、触れ合うは右肩、しんねりと濡れるは遠く貴方の左肩。紫暮は「いいえ」と首を振る。

「濡れては良くないのです」

「そうか」

 二人で収まるに窮屈な丸さ、足元の影には奇妙に偏りがあるから。

 ——だから、もう一歩だけ。

「濡れては、良くないですから」

 紫暮は呟いた。そっと盗んで見上げた銀麗の顔は先より一歩近くて、ほんの間も離れたくなくて、真っ直ぐ。ただ、ただ真っ直ぐすぎて、重ねて広げた面積から伝わる肌温さがじわりと苦しく心臓を握り込む。


 このままずっと、貴方は気付いてくださらないんでしょうか? 私は貴方をこんなにも——



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