五 神社、スターマイン、答え合わせ
目を覚ましたときには、すでに陽が沈んでいた。いつのまにか僕まで眠ってしまっていたらしい。
隣で眠りこける悠乃の肩を叩いて起こすと、彼女は目をこすってふわあと大きなあくびをした。眠る前と周りの様子が違うことに気づき、きょろきょろ辺りを見回す。
「真っ暗……ですね」
「ごめん、僕も寝ちゃってた。せっかくの願い事なのに、何をやってるんだろう」
申し訳ないという気持ちを滲ませて言うと、彼女は焦った声を出した。
「まあ、おかげさまですっかり元気ですし。過ぎた時間は仕方ないですから。夜の町を楽しみましょうよ」
「夜の町を楽しむって言ったって、ここには誰も」
いないだろ、と言いかけて、僕の言葉はドーンという大きな太鼓を打ったような音にかき消された。
振り向くと、空には鮮烈な、大輪の夏が咲いていた。手を伸ばせば届きそうなほどの近さだった。
「神様も、けっこう気を利かせてくれますね」
悠乃は手をかざして、その大きな赤い牡丹を見つめる。その頬も光に照らされて赤く染まっていた。
花火は何かの祝砲を鳴らすみたいに、ドン、ドンとゆっくりと一発ずつ続く。黒い空がそのたびに明るく光り、硝煙の跡がくっきりと見えた。
「行きましょう」
悠乃が僕に手を差し出す。握ることを期待されていると気づくのに、しばらくかかった。
恐る恐る、その手を取る。死者である僕が触れていいものか心配になるほど、彼女の手からは今この時を生きている熱を感じた。
駄菓子屋を飛び出すと、通りにはいつのまにかずらりと赤い提灯が並んでいて、僕たちの行く道を示してくれていた。できすぎた状況、完璧な夢。それでも今だけはいいんだ、と思う。
頭上に広がる、夏の夜のあるべき姿を見上げながら、僕たちは走った。そうしている瞬間はとても楽しくて、やがて来る終わりをどうしたって認めたくなかった。
花火は、菊や牡丹といった派手なものからしだれ柳、型物と移り、今は色とりどりのスターマインが大空を染め上げていた。
提灯が示す道が、ふと途切れる。その先にあるのは、古びた神社のようだった。鳥居の横にある二つの灯籠が、妖しげに光を放っていた。
悠乃に手を引かれて、僕たちは鳥居をくぐった。すると、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
焼きそば、フランクフルト、からあげ。かき氷やわたあめ、じゃがバター。食べ物以外には金魚すくいや射的なんてものもある。
「わあ、屋台ですよ、和哉くん」
嬉しそうな声を上げる悠乃が、ぱたぱたとその一つに駆け寄る。当然のように店員はおらず、それなのに鉄板では麺と具材がじゅうじゅうと音を立てていた。
「焦げてしまわないんでしょうか」
「自分たちでやれってことなのかな」
僕たちの予想はどちらも外れていて、しばらくそのまま見ていると、目を疑うことが起きた。鉄板の横にあった二本のヘラが宙に浮かんで、手際よく焼きそばを混ぜて持ち上げ、プラスチックの容器に入れたのだ。見えない手がそこにあるように、輪ゴムで留められて、二人分の焼きそばが僕たちの前に置かれた。
「何でもありだな、この世界は」
少しの間、絶句して僕は言った。
「せっかくだから、いただきましょう」
悠乃はそう言って、「あ」と割り箸を持つ動きを止めた。
「どうしたの?」
「和哉くん、これは、夏祭りですよね」
問われて、周りを見回す。神社の敷地に延々と並ぶたくさんの屋台。夜空を彩るカラフルな花火。雑踏や話し声のない違和感を除けば、ここはありふれた夏祭りのワンシーンに違いない。
「そうだね。僕ときみしかいないようだけど、確かにこれは夏祭りだ」
「でしたら私、やらなければいけないことがあるのでした」
先に食べていてください、と僕を残して、悠乃は神社の本殿のほうへ走り去る。
「おい、どうしたんだ」
「すぐ戻ります、気にしないで!」
慌てたような声が返り、悠乃の姿は闇に消えた。追いかけていきたい不安を抑えて、僕は容器の輪ゴムを外す。ふんわりとした湯気とソースの匂いが立ち上って、あまりのリアルさに驚く。箸をぱちんと割って、麺をかき込むと、それは可もなく不可もない味だった。屋台の焼きそばなんてこんなものだよな、と思いつつ、それでも悠乃と一緒に食べたほうが美味いのだろうな、などと考えてしまう自分が嫌になる。
けれどささくれ立った気持ちは思ったよりも早く移り変わることになる。
「和哉くん、お待たせしました」
心なしかワントーン高い声がして、僕は振り返る。早かったな、と言おうとして、言葉が宙に消える。彼女の姿はそれくらい、鮮烈に目に焼き付いた。
悠乃は浴衣に着替えていた。薄紫の生地に藤の花をあしらった浴衣で、ミディアムの髪をまとめて白い花の髪飾りをつけていた。
浴衣は女性の魅力を引き立てる衣装だと前から思っていたけれど、ここまでとは予想していなかった。これは、本当にまずい。五年間憧れ続けていた女の子がこんな姿で目の前に立っているなんて、完全に僕の理想を越えている。
頭の中がショートしたみたいに、僕は身動きが取れなくなる。手のひらには汗がにじみ、自分が正しく呼吸できているのかもよくわからないまま、彼女を見つめ続けた。
「見ているだけじゃなくて、何か言ってくださいよ」
落ち着かない様子で悠乃は髪を触りながら、身をよじらせた。その言葉に、僕はようやくハッとする。
「……よく、似合ってる」
やっとの思いで言うと、悠乃は嬉しさが半分、失望が半分といった複雑な顔をした。
「それだけですか?」
「それだけ、とは?」
つかつかと歩み寄り、悠乃は僕を見上げた。
「可愛いか、可愛くないかで言ったら、どちらです?」
唇をきゅっと引き結ぶ彼女の肩は震えていた。その姿を見て、僕は逆に自分が落ち着くのを感じた。ぽろりと、素直な気持ちがこぼれ出す。
「とても、可愛い」
ぱあ、と花が咲くように悠乃の表情が柔らかくなる。悠乃だって緊張していたのだ。ただ服を着替えて、一緒にいるだけなのに。どうして僕らの感情はこれほどまでに揺れ動くのだろう。そのことが、僕はどうしようもなく愛おしく感じる。
「よろしい。合格です」
彼女はわざとらしく澄ましてみせる。それでも上機嫌なのは隠せていなくて、そういう詰めの甘いところが好きなのだ、と思った。
僕たちはそれから、心ゆくまで屋台を巡った。お腹いっぱい食べて、遊べるものは遊び尽くした。ヨーヨー釣りでは僕が完勝して悠乃がむくれたが、射的では二人ともなかなか当たらなかったので、当たるまで撃ち続けた。
その間も花火はずっと上がっていて、僕たちは時折立ち止まってその美しい景色を眺めていた。
「この花火は、もしかしたら一晩中続くんだろうか」
「いえ。残念ですが、もう少しで終わると思います」
悠乃の言葉の端を、炸裂する音の塊がかき消した。ここがクライマックスと言わんばかりに、惜しみなく大玉が連発され、夜の闇が散り散りになる。色鮮やかな光は拡散し、僕らの網膜に刻みつけられ、その残滓は煌めきながら薄れてゆく。間髪入れずに次の花火が夜を照らす役割を引き継いでいく。その様子はなんだか人生みたいだなと僕は思った。着火されてこの世に生まれ、空を駆け上がるように育ち、何かを達成して、あるいは何も達成しなくてもそれなりに幸せに過ごし、老いていく。場合によっては、志を継ぐ仲間がいたり、偲んでくれる友人がいるのかもしれない。
十七歳で死ぬというのは、そうした一切を、未来に残したまま人生を終えるということだ。そんなのはさすがにあんまりじゃないか。
だからこそこの世界が用意されていて、
でも、もうじき、花火が終わる。
きっとそのとき、この夢のような時間も終わりに向かうのだ。
そう僕は直感した。
最後の赤い牡丹が爆音と共に夜に咲いて、後からシャワーのように黄金色の光が降り注いだ。
僕たちはどちらからともなく見つめ合って、それからゆっくりと目を閉じた。悠乃の吐息に触れて、顔が熱くなるのを感じる。お互いにそうであることを祈りながら、さらに顔を近づけて——。
僕は、そこで動きを止めた。
ずっと、迷っていた。このまま何も知らない振りをしていたほうが、彼女のためには良いのだろうということはわかっていた。でも、それでは僕たちの関係はここで終わってしまう。一縷の望みに賭けることを、どうしても諦めきれなかった。
ごめん、と僕は呟いて、目を開ける。
「悠乃。僕に隠していることが、あるだろう」
瞼を開いた彼女の目尻には、涙が溜まっていた。
「そのままキスしてくれれば、完璧だったのに。和哉くんは、昔から無駄に頭が回りましたよね」
涙をごまかすように、悠乃は笑った。
「仕方ありませんね。では、答え合わせといきましょうか」
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