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『ねえ、ジーク! あの壁みたいなものは何? 茶色とか緑とか、いろんな色で塗られてる大きいの』
後ろに流れていく木立と岩、そして雲以外は動かない空。すっかりお馴染みになった光景に、不意に見慣れぬ物が混じり、チセは思わず声を上げた。
『もう見えたのか? そいつが俺たちが今から行く街の、入り口だ』
もうすぐ着くぞ、と笑みを含んだ口調で告げられ、つい歓声を漏らすと、ジークは『うるさい……』と小さく呻いた。
『あ、ご、ごめんなさい! でも、何で街の入り口をあんな色で塗ってるの?』
『どうしてだと思う?』
ジークに問い返され、チセはしばし考え込む。
チセもそれほど人間の街を知っているわけではないが、基本的に街というものは、もっと開けた場所にあるはずだ。少なくとも、こんな山奥にある街は、今まで見たことがない。
(こんなに山奥だったら、物を売ったり買ったりするのも大変だよね? でも、何か理由があるから、ここに街を作ったんだ)
それに、入り口は普通なら、もっと目立たせるはずだ。ここから街に入るのだと、訪れる人たちにわかりやすく伝えるために。
(でも、ここは逆だ。……もしかして、目立たないようにしてる?)
鷹の眼を持つチセにとっては一目瞭然だが、人間にとっては、あの入り口は森の木々に紛れるような色彩に思えるだろう。それではなぜ、もっと派手な色合いにしなかったのか?
『街がここにあるって、気付かれないようにしたいから?』
『ご名答。――やるな、チセ』
『ほんと? やったあ!』
考えを伝えると、ジークは褒めてくれた。姉以外に褒められることがなかったので、素直に嬉しくなってしまう。胸の中がくすぐったいような感覚をそのまま声に乗せ、チセは矢継ぎ早に問い掛けた。
『でも、どうして見つからないようにしたいのかな? あれじゃ来る人たちが、迷っちゃう――……』
そこまで言いさして、あ、とチセはようやく思い至る。
『そっか、あの街の中には、気付かれたくない何かがあるんだ。そうでしょ?』
『ああ、その通りだ。あの街には、限られた者しか入れない』
『……え、じゃあ、わたしたちも入れてもらえないんじゃないの?』
正解に辿り着いた喜びを味わう間もなく、不安が胸の中に広がっていく。しかしジークは、あっさりと首を横に振った。
『いや、俺たちは入れるよ。――オルディスの隠れ郷には、似たような連中しかいないからな』
『どういうこと?』
『じきにわかるさ。……もうすぐ着くぞ』
それきり口を噤んだジークの、似たような連中しかいない、という台詞の意味をチセが考えているうちに、いつしか街の門は目前に迫っていた。
* * *
「うわあ! 見て見てジーク、この椅子、背中にも板がついてるよ! それにほら、こっちにもふかふかした大きな椅子がある!」
「そりゃ椅子じゃなくて、寝台だ。夜、眠るときに横になるためのもの。……そうか、チセは宿に泊まるのは初めてだったか」
「うん!」
初めて目にする室内の調度品をあれこれ検分してはしゃいでいると、いつの間にか作業着の上に外套を羽織ったジークが、道具袋を斜め掛けに背負いながらさらりと告げた。
「じゃあ、俺はちょっと出かけてくる。チセはここで、ゆっくり休んでろ」
「えっ、わたしも行きたい!」
木でできた引き出しを開ける手を止めてぱっと顔を上げると、ジークは有無を言わさぬ表情と口調できっぱりと言い渡した。
「仕事だからダメだ。晩飯はここに置いとくから、先に食ってろ」
「……はーい」
これ以上食い下がっても無理だ、と察したチセは、しぶしぶながら頷いた。
(……別に、邪魔になるようなことなんてしないのに)
不満がそのまま顔に出ていたのか、少しだけ表情をやわらげたジークは、「そんな顔すんな」とチセの頭をぐしゃりと掻き混ぜ、そうだ、と呟いた。
「チセ、お前に初仕事だ」
「え、お仕事!?」
思わぬ言葉に期待を込めて見上げると、なぜかジークはぶふっ、と吹き出した。
「お前、顔に出すぎだろ……。ほれ、これだ。俺が出かけてる間にやってみな」
そう言ってジークが手渡してきたのは、チセの片手に乗るほどの、小さな四角い箱だった。
「……これ、なに?」
「からくり箱だ。俺たちが見習いの時によく使う道具。最初は工具がなくても開けられるから、まあ色々試してみるんだな」
にやりと笑みを浮かべたジークの台詞の意味を考えると、つまるところは一つ。
「とにかく、これを開けたらいいの?」
「そういうこと。じゃあ、俺はそろそろ行くぞ。先に飯を食ってから取りかかれよ。あと、俺が帰ってくるまでは、絶対にこの部屋から出るな」
「わかった」
ぽん、とチセの頭にもう一度手を置いたジークは、「行ってくる」と告げて引き出しの中の何かを握り、部屋から出て行った。すぐに扉が閉まり、がちゃがちゃ、という鈍い音が聞こえた後、ジークの足音が次第に遠ざかっていく。やがてその残響も消えると、急に室内がしいんと静かになった。
「……ご飯、食べよう」
全身に重く纏わりつくような静寂を払いのけるかのごとく呟き、チセは夕餉が載った机の前に移動する。茶色の大きな紙包みをゆっくりと開けば、焼いた肉の香ばしい匂いがふわ、と広がったものの、どういうわけか、あまり食欲をそそられなかった。
(……お腹は空いてるはずなのに、何でだろう)
手で肉の塊を大まかに半分に分け、もう一つの包みも開ける。こちらはつやつやした白い生地を蒸した料理のようで、まだほかほかと湯気が立ち昇っていた。
無言で白い生地を引きちぎり、その上に肉を乗せる。美味しいな、とどこか他人事のように感じつつ、もそもそとことさらゆっくり咀嚼する。
「わたしだって、ゆっくり食べられるんだからね……」
沈黙に耐えかねて呟いた言葉は、部屋の壁に当たって跳ね返り、無残に床に散らばった。結果としていっそう静寂が重くのしかかり、今度こそ黙々と頬の中身を呑み込むことに専念する。
「……ごちそうさまでした」
きっちり半分食べ終えて包みを閉じ、よし、とチセは気を取り直すように拳を握った。
「ジークが帰るまでにこの箱を開けて、絶対びっくりさせてやるんだから!」
それからチセが箱を開けようと奮闘すること、二時間。
「もう、何これ! 全然開かないよ~!」
からくり箱を机の上に投げ出すように置いたチセは、椅子に座ったまま両手を挙げてのけぞり、天を仰いだ。文字通り、もはやお手上げの状態である。
「どうやったら開くの、これ?」
手当たり次第に箱をつつき回し、枝のように突き出ている部分を押したり引いたり、果ては「お願い、開いて!」と箱に祈りを捧げたりしたものの、どこを触ってもまるで動く気配がない。これが道具なしで開くとは、到底思えなかった。
「……何か、見逃してるのかなあ」
いい加減手先を動かすのに疲れたチセは、今一度、からくり箱をまじまじと観察してみることにした。
(この枝みたいに出っ張ってる部分は、押しても引いても回しても、全然動かないよね……触ってる時に、他の部分が反応するわけでもないし)
となると他の部分か、と丹念に箱の角度を変えながら、細部まで確かめていく。すると――。
「……ん? あれ?」
もしや気のせいか、と、細い長四角が互い違いに組み合わさったような形状の箱の側面を、ぐるりと見回す。――やはりそうだ、間違いない。
「お願い、開いて……!」
小箱の両端を左右から握り締め、渾身の力で引っ張ると、ずり、とわずかに手の中で箱が動く感触がした。が、どれほど力を籠めても、それ以上は開かない。
「なんでぇ? やっと動いたのに~」
半ばべそをかきながら、再び箱の外周を隈なく見つめる。予想通り、箱の側面を一周するように刻まれたわずかな継ぎ目に沿って、少しだけ開きかけている。だが十中八九、何かが噛んでいるせいで動かない。
と、箱をくるくると回して眺めているうちに、とある変化に気付く。
「……あ、もしかして」
小枝のごとく飛び出た突起の部分が、先程までよりも、ほんの少しだけ下がっているように見える。試しにそのまま押し下げてみると、カチ、と箱の内部で音がした。
「今度こそ、開くかも……」
息を潜めるようにして、もう一度箱を両端から握り締めて引っ張ると――今度こそ、呆気ないほど簡単に、箱が開いた。
「え、うそ、本当に開いた……?」
にわかには眼前の光景を信じられず、両掌に、視線を何度も往復させる。
右手の上に、一つ。左手の上に、もう一つ。
何度見ても、間違いない。
「――――――――やっ、たあ!!!」
あまりに嬉しくて、両手に箱を掴んだまま、ぴょんぴょんと床の上を飛び跳ねる。喜びで身体がはちきれそうで、どうしても、じっとしていられなかった。
「ジーク、早く帰ってこないかな……」
ジークに、一刻も早く伝えたい。
――わたし一人で、ジークが戻るまでの間に、箱を開けられたんだよ、って。
彼は、驚くだろうか。それとも、やっぱりな、って目の脇をくしゃくしゃにして、笑うだろうか。
(……褒めてくれたら、嬉しいな)
そわそわと窓に駆け寄って外を覗くも、一向にジークの姿は見えない。
(もう、暗くなってずいぶん経つのに。まだかなあ)
窓際まで運んだ椅子の上に立ち、鷹の眼で周囲を一望するも、どこにも彼らしき人影は見当たらなかった。
(……ご飯も、冷めちゃうよ)
ちら、と机の上に振り返ったところで、ある考えが、ふとチセの脳裡を過ぎった。
「ジーク、晩ご飯、食べてない、よね……?」
こんな夜更けまで仕事を続けていれば、きっとお腹が空いているはずだ。それに、いくらなんでも帰りが遅すぎる。
(……もしかして、何かあったのかな)
一度浮かんだ悪い想像は、懸命に打ち消そうとしても、黒い霧のようにどんどん胸の中に広がってゆく。
――もし、このまま。ジークが、お姉ちゃんみたいに、帰ってこなかったら。
「やだ……」
頭を振り、嫌な思考を追い払う。しかし不安は身体の中で膨らむ一方で、チセはとうとう、言い訳を探し始めた。
「……様子、見に行っても、いいよね?」
――こんなに遅くまで帰ってこないなんて、おかしいし。
――そうだ、ついでにご飯を届けよう。
――お腹が空いてるだろうし、そうすれば、ジークもきっと喜ぶよね。
自分に言い聞かせるように呟いては、何度も頷いて。
机の上の包みを荷から引っ張り出した布袋の中に入れ、早速扉に手を伸ばすと、外出するチセを咎めるかのごとく、がちゃり、と取っ手が音を立てた。
(……開かない?)
試しに扉を前後左右に動かしてみたが、どうにもすんなりと開きそうにない。
低く唸ったチセは、そういえばジークが出かける時に、引き出しから何かを持って出ていたな、と不意に思い出し、すぐさま同じ場所を探った。
「何も、ないや……」
扉の内側の、閂のようなものも外してはみたが、何かがつかえているらしく、どうにも開きそうにない。
(……さすがに、扉を壊したらダメだよね)
となれば、チセに残された選択肢は一つしかなかった。ちらりと背後を振り返り、ゆっくりと、窓際に置いた椅子の上に立つ。
――俺が帰ってくるまでは、絶対にこの部屋から出るな。
ジークの声が耳元で蘇り、ちり、と胸が痛んだけれど。
(……ジーク、ごめんね)
重い窓を開け放ったチセは、背負った布袋の結び目を確かめてから、一息に窓枠を乗り越えた。
無事に二階から地面に降り立ったチセは、鼻をひくひくと動かして、雑踏の中に漂うジークの匂いを探す。ほどなく、つんとした機械油のかすかな臭気を捕まえて、チセは暗い通りを駆け出した。
鷹の眼を持つチセにとっては、夜も昼とさして変わりがない。夜闇に臆することなく、嗅覚を頼りに右に左に進んで行くと、次第にジークの匂いが濃くなってきた。
(だいぶ、近付いてる。きっともう少しだ)
期待にチセが胸を弾ませていると、不意にある建物の前で、機械油の匂いが途切れた。背伸びをして小さな窓越しに室内を覗いてみると、たくさんの花が筒の中に挿してあるのが見える。
どうやらこの建物の中にジークは入ったらしい、と目星をつけたチセは、思い切って建物の扉を押してみた。が、夜更けのためか、当然開くはずもない。
「……どうしよう」
ここまで来たら諦めきれず、チセはうろうろと建物の周りを歩き回った。どうにかしてジークの無事だけでも確かめられないか、と思案していると、ふと、建物の外周を蔦のごとく這っている
(……いける、かな?)
今一度背中に括りつけた布袋の結び目を確かめてから、物は試し、とばかりに片足を乗せ、
両手でしっかりと
(……意外と大丈夫、かも)
後は同じ要領で、上に登っていくだけだ。おそるおそるながらも足場を見定め、時間をかけて少しずつ移動していく。やがて目標地点だった二階の窓に到達したチセが、うっすらとした光に吸い寄せられるように、窓枠を掴んで室内を覗き込んだ、その時。
「――――――――え?」
紺色の窓布を握り締めた男性と、真正面から目が合った。
驚いたチセは咄嗟に身を退きかけたが、指先に反射で力が入り、かろうじて落下だけは免れた。対する男性はといえば、眼鏡の奥の栗色の瞳を丸く見開き、ぽかんと口を開けていた。が、チセが墜落しかけたことで我に返ったのか、肩をびくりと震わせて、すう、と息を吸う。
「――待って! わたし、ジークの弟子なんです! ジークにご飯を届けに来ました!」
悲鳴を上げようとした男性の機先を制するように声を張ると、窓越しでもどうにか聞こえたのか、男性はゆっくりと口を閉じた。代わりにわずかに窓を開け、夜風に紛れるような小さな声で、静かにチセに呼びかける。
「お嬢さん、こんな夜更けに一人で出歩くのは危ないですよ。――ひとまず、中へどうぞ」
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