第二章 花と毒
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ラーニア山麓東部、ユスティア樹海。
朝晩は霧が立ち込め、日中も樹冠に阻まれてほとんど陽が射さないことから付いた別名は、〝黒い森〟。
ギャッ、ギャッ、とどこからともなく不気味な野鳥の声が響き、木々の捩じくれた枝を異形の姿と見紛うような、おどろおどろしい雰囲気の夜の森の只中で。
「……ねえジーク、本当によかったの?」
小さいながらも明々と輝く焚火をじっと見つめていたチセが、遠慮がちに口を開いた。
「ん? ――ああ、隠れ家を爆破したことか? いいんだって、大事なもんは普段から持ち歩いてるしな。身一つありゃ何とでもなる」
あっけらかんとした答えを返したジークは、炎を囲うように置かれた五徳の上の小鍋に、切った具材を放り込んだ。軽く炒めながら塩と香辛料を加え、煙に混ざって香ばしい匂いが漂ってきた頃合いで、鍋に水を注ぎ入れていると。
「えっと……それもだけど、わたしといたら、ジークまで捕まっちゃうかもしれないから」
思い詰めたようなチセの声音に、手を止めて顔を上げる。俯いたチセの琥珀の瞳の中で、橙色の炎が、ちらちらと揺れていた。
鍋に蓋をして、立ち昇る白い煙越しに、彼女を見つめる。どう声をかければいいのか、何を告げればいいのか、少しだけ思考を巡らせて。
「なあ、チセ。もともと俺は、あいつらに追われる身なんだ。だから、お前が気に病まなくてもいい」
零れ落ちたのは、苦笑混じりの言葉だった。チセがこちらに視線を向け、どういう意味か、とその瞳で問い掛けてくる。
「チセは、聞いたことがあるか? ――この国では、技術が厳しく制限されているって」
「……少し、だけ。前にお姉ちゃんが言ってた。一部の人間しか、技術について知っちゃいけないんだって」
「そうだ、よく知ってるな。ちなみに、その『一部の人間』――技術取締官が、武器や、兵器の製造に繋がりかねない技術や知識を隠し持ってる人間を取り締まってるんだ。……で、俺たち修繕師の仕事は、ごく簡単に言えば壊れた物を治すことだ。だいたいは時計やら自動計算機なんかの、武器にはなり得ない物の修繕がほとんどなんだが、まあ当然法には触れる」
「確か、限られた人しか、壊れた物の修理をしちゃだめなんだよね?」
「ああ。一般人が知識や技術を持つこと自体、固く禁じられてるからな。おまけに修理担当の専門技官からすれば、自分たちしか作業ができないんだから、いくらでも金をふんだくれるだろ。そこに俺たちみたいな、割安で修繕を請け負う存在が出てくれば、奴らは当然激怒する。なんせ法に反してる上に、売り上げをかっさらわれるわけだからな。そりゃあ、〝鼠〟だのなんだの好き放題言われるわけだ」
俺たちからすれば、あっちの方がよっぽど阿漕な商売をしてると思うがな、と両掌を上に向けて肩を竦めると、チセはジークが告げた内容を咀嚼するようにしばし沈黙した後、おもむろに口を開いた。
「……じゃあ、もっと修理代を安くするか、ジークみたいな人たちに、『せんもんぎかん』になってもらえばいいんじゃないの?」
鋭く核心を突いてきたチセの顔を、思わずじっと凝視する。まだわずかな時間しか行動を共にしていないが、どうやら彼女はなかなかの慧眼の持ち主であるようだった。
「目の付け所がいいな。チセの言う通り、修理代を安くすれば、そもそも俺たちに仕事を横取りされることも少なくなる。だけど、いざ値下げしたらどうなる?」
「……あ、わかった! どうして今まで修理代が高かったの、って思われちゃう!」
「正解。そりゃ、ずっとぼったくっていたのがバレたらまずいわな。で、もう一つの方の答えは簡単だ。俺たちが専門技官になることは、絶対にない」
「どうして?」
チセの純粋な疑問に答えんとした刹那、胸の底で蠢いた、どろりとした記憶と感情を、どうにか押し殺して。
「……色々あって、溝が深すぎるからな」
できるだけ平生通りの声音を心掛けたつもりだったが、チセは口を噤み、それ以上質問を重ねることはしなかった。
垂れ込めた重い沈黙を破るように、ジークは鍋の蓋を開け、仕上げに少量の油を注ぎ入れて掻き混ぜる。白い湯気と香ばしい匂いが周囲にほわりと立ち昇り、チセが感嘆の声を上げた。
「……すっごく、おいしそう! 本当に、わたしも食べていいの?」
「もちろん。ただ、味の保証はしないぞ」
チセの喜びように苦笑しつつ、携帯用の器にこんもりと具材と汁をよそう。熱いから気をつけて食えよ、と注意して器と匙を渡した後に、はたとジークは気付いた。
「今更だけど、食べて大丈――……」
ジークと同じ物を食べても身体に支障はないのか、という問い掛けは、半ばで途切れた。
チセは、熱い汁物であるにもかかわらず、一心不乱に、匙で具材を口の中に掻き込んでいた。まるで少しでも油断すれば、器の中身が消えてしまうのではないか、と恐れているかのようなすさまじい勢いで、ぱんぱんに膨らんだ頬の中身を、わずか数回の咀嚼で呑み込んでいく。まだ湯気を立ち昇らせている汁も一息にごくりごくりと飲み干し、あっという間に器の中身を平らげた。
呆気に取られたジークの視線にようやく気付いたのか、チセは不思議そうな表情でぺろりと口の周りを舐め、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「――ジーク、何か言った?」
「ええと……もう一杯、食べるか?」
「食べる!」
間髪入れず返答したチセは、満面の笑みで器を差し出してきた。この調子なら、おそらくジークと同じ食事を摂っても問題はないのだろう。
――が、しかし。
「口と喉は大丈夫か? 熱かっただろ、火傷してないか?」
「ん、平気だよ。すぐ治るし」
けろっとした様子で、早く早くと訴えるチセの視線を受けて、ジークは急いでお代わりを器に盛った。
「それでも痛いだろ。ちょっとくらい冷ましてから食えよ、逃げやしないんだから」
口にした後に、どこかで聞き覚えがある台詞だな、と少し遅れて記憶が蘇った。
――そうだ、自分も。
師からかつて、全く同じことを、言われたのだった。
「お前、いつから食べてなかったんだ?」
今なお鮮やかな記憶をなぞるように、静かに問い掛ける。爛々とした目で器に手を伸ばしたチセは、半ば上の空ながらも律儀に答えた。
「えっと……五日前くらいかな」
「――それなら、もう少しゆっくり食え。あんまり急ぐと、胃が驚いて吐いちまうぞ」
ちなみに俺も経験者だから気をつけろ、と付け加えると、「……ほへは、ほっひゃん、はひ、ほへ。ひほふへふ」と頬を膨らませたチセは、真顔で告げてきた。推測だが、「それはもったいないよね。気をつける」とでも言ったのだろう。……多分。
消化のよさそうな献立にして正解だったな、と安堵しつつ、ジークは袋から取り出した干し肉とビスケットにかじりついた。
結局チセはその後二回お代わりを繰り返し、ほぼ一人で鍋を空にした。さすがに腹がくちくなったらしく、満足気に胃の辺りを撫でているチセを眺めながら、何とはなしに問いを投げ掛ける。
「なあ、チセ。何か好きな物とか、苦手な物はあるか?」
「好きなもの? うーん、お姉ちゃんと、鹿と、ねずみかなあ」
食事の好みを訊いたつもりだったので、まさかその三つが同列で挙げられるとは思ってもみなかった。やはり姉が真っ先に出てくるんだな、と妙に納得しつつも、ジークはどうしても、年長者として、チセに一点だけ忠告をせずにはいられなかった。
「チセ、いいか。……鹿と野鼠はまだいい。だけど、街にいる溝鼠は絶対に生で食うなよ」
「どうして?」
「街にいる鼠は、俺たちの身体にとって毒になるものを溜め込んでることが多いからだ。腹を壊すくらいで済めばいいが、最悪死ぬぞ」
目を丸くしたチセは、大きくて美味しそうだったのに、と物悲しげに呟いた。その反応に、忠告が間に合ってよかった、と戦慄を覚えつつ、さらに質問を重ねる。
「今まで、食事はどうしてたんだ?」
「……お姉ちゃんが用意してくれてた。だいたいは狩りをしてたけど、こんな風なご飯も、何回か食べたことがあるよ」
チセが腹をさする手を止め、ゆらゆらと揺れる炎を見つめる。そこに映る何かを、あるいは誰かの面影を、思い出しているかのようなまなざしだった。
「そうか。じゃあ、俺と同じ物を食べても、身体に支障はないんだな?」
「うん。……ジークって、変な人だね」
「はぁ!?」
怪訝な表情をしたチセが、言うに事欠いて変人などと宣うものだから、思わず遺憾の意を表明すると。
「――混成種のことを心配する人間なんて、一人もいなかったから」
あまりにも乾いたチセの声音と瞳に、今まで彼女が置かれていた境遇の一端を、うっすらと垣間見た気がした。
「だから、正直に言うと、人間は苦手。……でも、ジークは優しいね」
ありがとう、とひどく大人びた笑みを浮かべたチセに、ジークはそろそろ寝るか、と呟くことしかできなかった。
草木も虫も微睡み、風すらも息を潜めているかのような静寂が満ちる夜半。
携帯用の寝具に包まっていたジークは、夜闇を切り裂かんばかりの絶叫で目を覚ました。
「――お姉ちゃん! 行かないで、待って、お願い!」
左から聞こえてくる金切り声で、瞬時に意識が覚醒する。跳ねるように身を起こすと、もがくように宙に手を伸ばしたチセが、姉を求めて、悲痛なまでに叫び続けていた。
「いや、だめ、行かないで! 待って、わたしが、代わりに――」
「チセ! 落ち着け、夢だ!」
寝具を蹴飛ばす勢いで駆け寄り、悪夢に
「お姉ちゃん! やだ、行かないで、死んじゃうよ! 待って! 待って! いやぁああ!!」
「チセ、起きろ! 姉貴を探し出すんだろ!」
姉を引き留めるように宙に伸ばされた手を強く握ると、不意にチセが身動ぎを止めた。ここぞとばかりにもう片方の手で頬を掴み、顔を覗き込むようにして声をかけ続ける。
「チセ、俺だ! ジークだ、わかるか?」
「……ジー、ク?」
やがてチセが弱々しい声を漏らし、うっすらと目を開ける。おぼろげなまなざしを周囲に巡らせ、ようやく自分が今どこにいるのかを悟ったかのように、浅く息を吐いた。
「そうだ、お前は今、俺と一緒に姉貴を探す旅に出てる。俺も、ちゃんとチセの隣にいる」
「……うん」
肩を上下させながらも、チセは小さく頷いた。痛いほどにジークの手を握り締めていた指先からふっと力が抜け、琥珀の双眸が瞬きを繰り返す。チセは意識して、呼吸を整えようとしているようだった。
怪我をしていない方の肩をそっとさすりながら、ジークはチセの浅い呼吸音に耳を澄ませる。やがて呼吸の間隔が一定になった頃合いで、ジークは躊躇いがちに声をかけた。
「――水でも飲むか?」
「うん」
涙と汗に濡れた顔を、ぐい、と衣で乱暴に拭った後、チセはゆっくりと身を起こした。
ジークが差し出した器を受け取り、無言で一口だけ水を飲んだチセは、器の中の水面を見つめたまま呟いた。
「起こしてくれて、ありがとう。……ごめんね、寝てたのに」
「俺たちの仕事は大抵暗くなってから始めるから、夜中に起きるのは慣れてる。気にすんな。――よく、魘されるのか?」
「……うん」
「ほぼ毎日か」
ジークの問い掛けに、チセは項垂れるように首肯した。憔悴したその様子に、しばし言葉をかけあぐねて。
「……俺も、チセと同じように、夢に魘されて、眠れなかった頃がある」
ようやくぽつりと零せば、チセの視線がちらりとこちらに向いたのがわかった。その弱々しいまなざしを受け止めるように見つめ返しながらも、ジークはどう続けるかを懸命に考えていた。
(俺は、どうやってあの悪夢から解き放たれた? じじいに、何て声をかけてもらったんだった?)
いくら記憶を辿っても、肝心の台詞だけ思い出せない。だけど自分が、あの時どんな感情を抱いていたかは、鮮明に覚えている。
……ずっと、眠るのが怖かった。待ち受ける悪夢に、怯えていた。
けれど、本当に怖かったのは、魘されることではなくて。
目覚めた時に慰めてくれる大切な人は、もういないのだ、と思い知らされる、あの瞬間が。
――何よりも、恐ろしかった。
もう自分は独りなのだ、と黒い空洞に突き落とされるような哀しみに、毎晩、泣いてばかりいた。いっそ朝も夜も、永遠に来なければいいのに、と願っていた。
けれど。明けない暗闇の中に蹲っていた自分に、手を差し伸べてくれた、人がいたから。
目の前で膝を抱える少女の琥珀の瞳を見つめ、躊躇いつつも、口を開いた。
「俺には、お前の嫌な記憶を消すことも、夢の中に入ることもできない。――だけど、お前が魘されるたびに、手を握って、夢から目覚めさせることくらいなら、いつだってできる」
だからもう、一人で悪夢に怯えることはないんだ、と不器用に告げれば。
かつての自分のように、チセはぽかんと口を開けて。
それから顔をくしゃくしゃにして、ありがとう、と呟いた。
(……俺は、なんだよそれ、なんて可愛げのない返事を、したんだっけ)
チセの背をそっと撫でながら、師に対するかつての自分の言動を、ほんの少しだけ省みる。
俺も、あの時――こいつみたいに、素直に礼の一つくらい言っておけばよかったのかもしれないな、と。
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