第9話 トイレとステッキ
「あっ」
と真名が声を漏らしたときには、すでにステッキは咲たちの後ろへと放られていた。
「うわわわわっ」
「ちょ! バカ危なっ――うわ!?」
反射的に真名がステッキの軌道を追うと、そのまま進行方向にいた女子たちと正面から衝突した。女子たちはすぐにバランスを崩して担いでいた咲ごと倒れる。
「いったぁ……もーなにすんの!?」
「うわ最悪っ、トイレの床で転んだ! 汚いんだけど!」
真名を含めた全員がトイレの床に転がる。各々がそれぞれに悪態をついている最中、咲だけはハッと我に返ると、すぐさま起き上がって周囲を見渡す。
目を向けたのはトイレの出口――ではなく、床に落ちた真名のステッキ。
ステッキは個室の開け放たれたドアの前に落ちている。咲はまだ誰もこちらを見ていないのをいいことにグッと手を伸ばすと、今なお色彩を滲ませているステッキを手に取って身を起こした。
やがて周りの者たちも腰を上げる。真名も顔を上げると、自分のステッキを手に持った咲がこちらに背を向け、個室の前で棒立ちになっている姿を見つけた。
真名はぴょんと立ち上がると、両手をパッと広げて咲に差し出す。
「咲ちゃんこっち! ヘイ! パスパスパ――」
次の瞬間、咲は大きく振り被ると、ステッキを眼前のトイレの便器の中に叩きつけた。
ステッキが折れるか便器が割れてしまうのではないかというくらいガラスが割れるような激しい衝突音が鳴ると、ステッキは水飛沫を上げながら便器に突き刺さる。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
今までに聞いたことのない野太い咆哮を上げると、真名は大袈裟なジェスチャーを交えながら、この世の終わりのように血相を変える。
そんな半狂乱の真名には構わず咲は便器へと一歩踏み出すと、確固たる意志でガッとステッキを掴む。そして怒りを表すように手に力を入れると、そのままラバーカップでトイレの詰まりを解消するように、ガチャガチャと音を立てて乱暴に掻き混ぜた。
「アアァァァ咲ちゃん!? アァ! アアァァ――ッ!」
怪鳥のような悲鳴を上げると真名は大慌てで咲に駆け寄る。
が、咲はすかさずバタンとでかい音を立ててドア閉めると鍵をかけた。真名はドアにしがみつくと、ドンドン叩いてひたすら懇願する。
「私のステッキ返してえぇぇぇ! それトイレの詰まりよくするやつじゃないから! 突っ込まないで! うんついちゃうから、幸運になっちゃう!?」
「おいふざけんなよ南条! ここ開けろよ!」
「あ、私いいこと思いついた! 出てくるまで上からゴミ投げ入れたり汚い水流し込んでやろうよ。私ちょっとゴミ探してくる」
「いやああぁぁぁ待ってえぇぇ! それステッキも一緒にダメージ受けるやつだから! お願い考え直して真名ちゃんのために!」
早速悪巧みを思いついた女子が駆けだすと、逸早く真名が拒絶した。だが悲しいかな、すでに言い出しっぺはゴミ収集に向かいすでにトイレから姿を消す。
いつものように精神操作で動きを封じないのはステッキが手元にないからか、それとも取り乱してそこまで頭が回らないのか。
なんにしても、この状況は咲にとって好都合だった。
「やめてほしいなら今すぐこの状況どうにかして! どうせ今回もあんたが一枚噛んでるんでしょ!? もうなにこの湧いてるやつ、水につけても消えないんだけど!」
交換条件を出すと咲はバシャバシャと水音を立てながら忌々しげに文句を垂れる。
「ああああああ選りにも選ってそっち側ああああああ!?」
相当大切なものなのか、それともお気に入りなのか、真名は個室から響く様々な音に一喜一憂しながら叫びまくる。これは効果絶大だと味を占めた咲は、更にステッキを乱暴に便器の中で掻き混ぜる。
「オラオラどうした! こんなもんなのかオイ⁉ やめてほしけりゃそれ相応の態度ってもんがあんだろ! 私はどうしてほしいっつった⁉」
「元に戻しまずううぅうぅぅ! もう誰も操らないからステッキをうんことおしっこ塗れにしないでくだざいいぃぃいぃいぃぃ! 咲ちゃんのうんことおしっこの臭いが染みついちゃうのやだあああぁぁ!」
「なんで私のなんだ!? んなことするわけないでしょ!」
さらっとこちらを不衛生な加害者として巻き込んでくる真名。だが誤解された甲斐もあってか、すぐにステッキから湧いていた色彩が消える。
「聞いてんの南条!? 早くドア開けろ……って……あれ?」
怒鳴り散らしていた声は徐々に萎むと、やがて勢いがなくなっていき、最後は疑問符で締めくくられる。
それは精神操作が解けた合図。咲は鍵を開けるとドアの隙間から外を見た。そこには自分でもわけがわからないと首を捻る三人の女子がいる。
「……ん? なんかおかしくない? そこまでして南条さん捕まえる必要ある?」
「てかなんで私、南条連れてくことにこんな拘ってたの? 別に授業で用が出まいが関係ないいじゃん」
「あ……ああ……ごめんね南条さん。私、助けてくれたのに酷いこと……っ」
正気に戻ったのが、各々が思い思いの言葉を口にしてそっとドアから離れた。それを見た咲はもう大丈夫だと胸を撫で下ろすと、静かに外に出た。
「はあ、よかった正気になって。一時はどうなるかと――」
「咲ぢゃああああああん!」
一息つくや早速真名が号泣しながらバッと咲に飛びついてきた。
咲はすかさずステッキを遠ざけると、空いた手で真名の顔面をアイアンクロウして力を込める。トラウマレベルの恐ろしい思いをさせられた恨みは大きい。
「お、お前のせいで、この……お前お前お前……っ!」
「ああああ痛い痛い痛いから咲ちゃん! お顔壊れちゃうから! 崩れちゃうよぉ!?」
メリメリとこめかみに指が食い込むほど力を加えられると真名の顔が歪む。そのままリンゴのように握り潰されるような勢いが続くと真名は悲鳴を上げた。
「で、でも南条さんは連れて行かないと……秋津先生にそう言われてるし」
「だよね。やっぱ南条さんには一緒に来てもらわないと」
「早くして南条。でないと授業遅れるんだけど」
「!?」
依然と変わらず咲を連れて行こうとする女子たちに咲は息を呑んだ。
「ちょっとなんでよ!? あんたたち、あいつがおかしいって自分でも言ってたじゃん! なのになんでまだ従おうとするわけ!?」
「でも先生に授業を受けた非行生徒は改心するって噂されてるし……」
「一応凄い人らしいし、そんな相手に私たちがなにか言っても、こっちが間違ってるって言われちゃうよ……」
「逆らったところでいいことなんて一つもないしね」
どうやら秋津の人望を聞いて怖気づいてしまったらしい。その結果、自分たちの思考の方が間違っているのだと勘違いし、現在まで仕方なく従っているのだろう。
咲はそういった裏の事情に気づかぬまま、急いで手に持ったステッキに目をやる。しかし当然ステッキから色合いは滲んでいない。
「え!? なんで? もう色は出てないのに……ちょっと真名これどういうこと!?」
「イイイイィィン! いちいち真名ちゃんに当たらないでえぇっ」
再び咲に締め上げられると真名は泣き言を吐いた。その様子からして真名が原因でないことは一目瞭然。咲はパッと手を放して戦慄する。
「あんたがやってるんじゃないの……? え、嘘……てことは、じゃあなに? 3人がまだ変なのは、あいつに刷り込まれてるからってこと……?」
「ねえそれ喧嘩売ってんの? なんだよ変って」
咲が狼狽えながら呟くと、それを聞いていた乱暴な口調の女子はさり気なく罵られたことに眉を吊り上げ、咲に悪態をついてきた。
元からそういう性格なのだろう。それでも先刻までと比べて幾許か理性的なのを確認すると、やはりさっきまでは真名の影響もあったのだと実感した。
結局のところ状況はそれほど好転していないらしい。であればと咲は真名をグイッと引き寄せると、怒りに青筋の浮かんだ顔で命令する。
「あいつと手を組んでたことは見逃すから、あいつをどうにかして! 警察を呼ぶでも学校から追い出すでもいいから二度と私に近づけないで!」
「わーん今日の咲ちゃんどうしちゃったの!? いつにも増して頭おかしいよぉ!」
「なんだとお前!? いつもそんなこと思ってたのか!」
さり気なく暴露された真名の思考に咲は更に燃え上がった。わざわざ追加しなくてもいい燃料を投下した真名に掴みかかり、完全にキレる。
「ねえちょっと!」
口論していると、先程から無視していた女子から強い口調で呼びかけられる。勢いからしてこれ以上ないがしろにすると、更にややこしくなりそうだ。
咲は面倒になる未来にため息をつくと、観念したように振り向いた。
「はあ、もう……なに? まだ文句あるわけ?」
「どうにかできるの……?」
疑惑に満ちた問いかけに咲はきょとんとした。予想に反する反応に一瞬ぽかんとする。
「え……? どうにかって……」
「この際言っちゃうけどさ。ぶっちゃけ、秋津の授業ちょっとキモいって言うか……変な宗教みたいで気味悪いんだよね」
「やっぱり!? あーよかった私だけじゃなくて。実は私もそう思ってたんだよねぇ」
「へぇ……そう……そうか、そうだよね……」
一人が自分の気持ちを曝露したのを皮切りに、女子たちは口々に今まで胸の中に秘めていた秋津への不平不満を露わにした。
「てわけだからさ、どうにかできるならしてほしいんだけど。実際どうなの? なにか方法でもあんの?」
「真名ならどうにかできるよ。ね?」
「え、こっちに振るのっ?」
急に矛先を向けられると真名は困惑した。しかし咲は意見を貫く。
「だってあんたならどうにかできそうじゃん」
「えぇーそんなっ。こっちもこっちで言うこと聞いてくれたら飴くれるってあっちゃんとの約束でいろいろやってるのに。咲ちゃんそれは勝手すぎだよぉ」
「どっちが一番自分勝手だ! たかだか飴程度で買収されやがって! うまいように利用されてることにも気づいてないの!? ステッキ返さないぞ!」
「でもぉ~」
「――妊婦セット」
「ッ!?」
不穏な字の並びに、誰よりも真名が先に反応する。
振り返った先にいるのは新田でも虐めっ子の女子でもなく、まったく関係のない3人目の女子だった。よく見るとその顔に見覚えがあり、咲はあっと声を漏らす。
(この子、そういえばさっき私と真名が廊下で口論になってたときにいた子だ)
咲は先程真名のいたずらで股の間からクリオネを出されて怒鳴っていたときのことを思い出す。
確か怒った咲が真名に電気あんまをして妊娠出産がどうこうと騒いでいたとき、二人組の女子がこちらを見ており、今声を出した人物がその片方であった。
「そちらの方、今なんと申された……?」
異様な食いつきぶりを見せると、真名はスススッと女子の方へ近づく。対して女子は変わらぬ態度で直立したまま、ボソリと詳細を伝えた。
「もしあの先生をどうにかしてくれたら、妊婦体験ができる妊婦なりきりセットあげるよ」
「おっほ」
女子の言葉に真名は変な歓喜の声を出す。最早するかしないか聞くまでもない。
「咲ちゃん。ステッキをプリーズ」
いつになく真面目なトーンと表情で手を差し出す真名。
理由が妊婦なりきりセットでなければどれだけ躊躇いがなかっただろう。咲はドン引きしながらステッキを返す。
「それじゃあ準備するから待ってて! 一回ステッキ綺麗にしないとぉ~ん」
ステッキを受け取るや真名はハイテンションで踵を返した。なぜか今すぐ実行に移さないことに、咲は当惑して真名を呼び止める。
「ちょ、待って! 洗うのなんてあとでいいから先にあいつをどうにかしてよ!」
「咲ちゃん、これは気持ちの問題なのです。あなたは全身クソ塗れになっても正気を保ちながら事に当たれますか? 私は今そういう精神状態なのです」
「なに言ってんの……?」
汚い例えに咲はウッと顔を歪める。
とは言っても汚れたのは真名地震ではなくステッキだけだ。しかも便器内に突っ込んだだけで、今の例のように目も当てられない惨状なわけでもない。
「そんじゃまたあとで!」
「あ、ちょっと!?」
それでも真名には死活問題だったのだろう。口早に告げると脱兎の如くトイレから出て行き、咲の静止も空しくどこかへ消えてしまった。
もちろんこのまま見過ごすわけにはいかない。もう次の授業まで時間がないのだ。咲は真名を追いかけようと、急いでトイレの外に出る――が。
「お、ここにいたっ。やっと見つけたよもー」
トイレを出たところで不運にも秋津と鉢合わせてしまった。
すぐ後ろにはさっき秋津を呼びに行った女子がおり、気まずそうに突っ立っている。ここに戻ってくる途中で真名の精神操作が解けたのだろう、その表情は先程とは打って変わり、緊張と恐怖で完全に凍りついていた。
対照に秋津は朗らかな笑みを浮かべると、殊更元気に咲に詰め寄った。
「心配したよ、新田さん連れて行ったまま戻って来ないし。あ、さっき机を投げたことなら気にしなくていいから。きっと南条さんなりの理由があったんだよね」
まるでこちらが精神的に不安定で、あたかもそれを理解しているとでも言いたげな口調で諭す秋津。その思考と性格すべてが咲の神経を逆撫でした。
「ほら、次体育の授業だからもう戻らないと。着替え間に合わないよ」
相変わらず歪んだ笑顔を張りつけたまま秋津は促す。すぐ後ろからは一緒に出て来た女子たちが陣取っていた。どうやら逃げ場はないらしい。
(仕方ない……真名を信じるしかないか)
咲は観念すると、いつ戻るかもしれない友人にすべてを託すことに賭けた。
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