第6話 サブリミナル効果

 長い前座が終わり、ようやく授業を開始する準備が整う。

 結局教壇に立たされて発表を強制されたのは、高野を含めた三人だった。しかも一人に対して最低目標を5個言うという条件を提示したため、余計に時間がかかった。突然呼ばれた生徒がすぐに答えられず、モジモジしてしまったのも原因だろう。

 なにはともあれ、これでやっと授業に入れる。

 だが咲はそれを素直に喜ぶことができなかった。なぜならそれは咲にとって、地獄の一日が本格的に始まったことを知らせる合図でしかなかったのだから。


「よーし準備運動はこれくらいにして、早速授業に入ってこうか。それで次は社会なんですが――今日はテレビを見るので教科書は出さなくていいです」


 説明しながら秋津は教室の隙に置いてあったテレビをつけ、DVDを入れる。そのことは先週授業で聞かされていたので違和感なく呑み込めた。

 だが問題はその授業方法だった。

 秋津は教室のカーテンを順に閉めていくと、秋津の独断で勝手につけた廊下側のシャッターも下ろし、最後に電気を消す。この時点で室内は暗闇に呑まれ、青い画面しか移さないテレビから放たれる可視光線だけが、ぼんやりと教室を照らしていた。

 不意に訪れた静寂、暗転したことで狭まった視界、そして今なお香り続ける精油の匂いで、教室は一瞬にして不気味な空間へと変貌した。

 常識とは逸脱した非現実的な世界に突如として放り出されると、咲は思わず冷や汗を掻いた。だがそんな恐怖もテレビから流れる音量で一転する。


『――というデータが出ているんですけども』

「!?」


 永遠のような沈黙の中、突然空気を引き裂く勢いでテレビから大音量が流れた。

 不意に鼓膜を衝かれた生徒たちはい一斉にビクリとすると、ほぼ全員が椅子から転げ落ちそうになり机をガタガタ鳴らす。秋津は手に持ったリモコンで映像を早送りすると、束の間の静寂が再び訪れた。


「でかいなー音。ちょっと下げようか」


 本人は暢気にそう言いながらボリュームを下げてすぐに映像を再生する。が、音量は最初とほぼ変わっておらず、咲たちの鼓膜をけたたましく叩いた。

 古いテープをDVDに焼いたものなのだろうか、再生した画面の上下には砂嵐が走っており、ところどころ映像が乱れている。映っている背景や人の顔も微妙に歪み、声にもノイズが混じっているため、不気味なことこの上ない。なによりもこの肩身が狭くなるような薄暗い空間が恐ろしさを一層引き立てた。 

 極めつけは、眼球が痛くなるほど強烈な可視光線を放つテレビ画面だ。

 古い映像のせいもあるのだろう。ただでさえ光量の強い白みがかったそれは、画面が少し動いただけで大袈裟にチカチカと点滅した。場面が切り替われば一気に明るさの起伏が激しく変化して、こちらの網膜を焼き切らんとばかりに刺激を与えてくる。


(うっ、眩し……音うっさ!?)


 視覚と聴覚に同時にダメージを受けると、咲は無意識にテレビから目を離して耳を塞いだ。頭を内側からガンガン殴られているような錯覚に目を見開く。

 秋津はテレビには目もくれず、自身の机に着いてこちらに視線を投げた。どうやら秋津は教師として生徒たちの授業態度を監視するらしい。ここで真面目に視聴するかどうかで関心・意欲・態度の評価に響くのは必然。

 だが今やそんなことはどうでもよかった。とにかく視覚も聴覚も嗅覚も辛い。

 咲は気持ち背中を曲げると微妙に突っ伏した姿勢になり、テレビから視線を外すと厳しい瞬きから目を逸らす。だが秋津からの叱咤を避けるため完全には逸らさず、たまに目を映像へと向けた。そしてあることに気づく。

 現在流れている映像――なんの変哲もない歴史の動画が、一定の間隔で細かなフラッシュを焚いていることに。


(なにあれ? 同じ感覚で点滅してる……壊れてんの?)


 不自然な点滅に猜疑心を覚える咲。だが最早思考するのすら億劫だった。これ以上画面を見ていると脳を破壊されそうで耐えられない。咲は完全に目を瞑る。

 同じように真名もテレビから視線を逸らしていた。もっとも真名の場合、開始数秒で飽きてしまってすぐに居眠りをしただけなのだが……。

 しかしクラスメイトたちは違った。

 みな熱心にテレビに食らいついて、一瞬たりとも視線を外さない。身動ぎも瞬き一つせず、人間の形をした人形のように、ただただじっと前だけを見る。

 映像の中に隠された画像――数1000分の1秒毎に繰り返し挟まれた秋津の姿と、その下にテロップされた『全校生徒は秋津克之を崇拝しろ』というメッセージを刷り込まれ、サブリミナル効果の餌食になっているとも気づかずに。

 そして真名が密かに机の中にステッキを隠し、色彩を滲ませていたことにも――


       ◇


「僕の趣味は旅行なんですけどね。特に若い頃なんかは、いろんな国に行ってはその国の文化に触れたり、食べ物や生活とかね、普段僕たちの暮らしてる国とは違った価値観に飛び込んで、日本じゃ味わえない沢山の経験をしたものでして」


 いつもより長く感じた社会の授業が終わり、次の時間。

 咲を含めた子どもたちが、暗い部屋での激しいフラッシュのせいで覚えた片頭痛に頭や目頭を押さえてぐったりしていると、秋津は不意に語り出した。


「なぜ僕が今この話をしたかというと、先生がまだ若い頃、とある国に行ったときに体験した面白い文化を、このあと実際にみんなにもやってもらおうと思ってなんですけど……それは授業の後半で話します」


 含みのあることを言うと、秋津は席に着く生徒たちを一望した。

 新聞紙の敷かれた机の上には習字道具が一式揃っており、半紙も用意され、準備万端だった。あとはテーマとなる文字が決まれば書写に入れる。

 すでに書く文字は決めていたようで、秋津はあらかじめ教卓に並べていた三枚の紙を手に取ると、順番に黒板に磁石で貼りつけた。


【自主性】

【生産】

【理念】


 3枚の紙にそれぞれ書かれていたのは、どこかの会社の経営理念に入っていそうな言葉だった。この中から選べということなのだろう。


「文字の方は先生の方で決めておきました。どの言葉もとても魅力的で力のある文字なので、みなさんの直観に従って選んでください。お手本を配りますので、決まった人から先生のところに来てください」

「お前どれ書く?」

「自主性の方が書きやすそうじゃね?」

「難しい文字だけど、やっぱ短いのがいいかなぁ」


 しばし選定時間が設けられると、生徒たちは隣の席や前後に顔を向け、友人同士で話し合った。その間にも決まった者は順番に教卓の方へ行き、秋津からお手本をもらって早速作業に取りかかる。

 咲もその一人だった。特に誰かと相談はせず適当に選び、秋津の下へ行こうと席を立とうとしたときである。一瞬視界がふっと遠退いた。


「……っ!?」


 いきなり訪れた立ち眩みのような症状に咲は咄嗟に椅子に坐り直す。と思いきやすぐに回復し、元の感覚が戻ってきた。代わりに目の奥がジーンと熱を発する。

 ピクピクと痙攣するこめかみに手をやると、それもすぐに引いた。


(っ……なんだろ? なんか凄い目が疲れたみたい)


 変に思いながらも次はきちんと席を立つと、咲はお手本をもらいに行った。

 実際、咲の違和感はおかしくなかった。

 ほぼ暗闇に近い部屋で一コマ分も激しい可視光線を強制的に見せられたのだ。眼球に違和感を覚えるだけならまだいい。最悪の場合、脳に直接ダメージを受けて障害が残った可能性だって十分に高かったのだから。

 加えて、未だに漂い続けるアロマオイルの不快な香りが鼻につく。精油というだけあって効果を齎しているのか、先の気分も落ち込み気味だった。

 それも当然。あの精油は秋津が独自に合成した非合法のものであり、身体的精神的に向上効果を出すどころが、毒として作用していたのだから。

 他の生徒たちはどうだろうと周りを見る咲。途端に自身の目を疑う。

 なぜなら咲以外の同級生のほとんどが機械的に動き、引きずるように体を動かしていたのだから。それこそ命令に従って動くロボットのように。

 厳しい可視光線を放つ画面から目を逸らし、アロマオイルを体に塗るのを拒んだ咲ですらこの状態だというのに、生徒たちは悪影響がないようにせっせと動く。

 だからこそ、より異常さを醸し出していたのだが。


(嘘、みんな平気なのっ? こんな教室臭いし、私はさっきの授業のせいで微妙に頭も痛いのに……それとも私が我慢できてないだけ?)


 あの真っ暗な教室で、チカチカと激しい光輝を放つテレビ画面を直視していた同級生たちが、なんともない様子で作業を続ける姿に、咲は自分の方がおかしいのではないかと一抹の不安を覚える。

 こうして自分自身にも、周囲の人にも、自分を取り囲む環境すべてに疑心暗鬼になりながら、咲が授業に取り組んでいたときであった。

 授業も終盤に差しかかり全員が書写を終えた頃、ついにそれは起こる。

 秋津は誰もが作業を終えたことを確認すると、パンと手を叩いて衆目を集めた。


「さて! そろそろ書き終わったかな? まだの人は書きながら聞いてください」


 暇潰しに雑談をしていた子どもたちはすぐに会話を止める。まだ手のかかる年頃の子どもたちが、たった一声で、調教された動物のように同時に黙り込む。


「さっき授業が始まったときに、とある国で体験した面白い文化のことを言ったのを覚えてますかね? それを今ここで実践したいと思います」


 なにかと思えば、秋津は先刻話していたことの続きを持ち出した。実践という言葉を聞いた時点で、すでに嫌な予感が咲の中で渦巻く。


「その国では出産や結婚式とかおめでたい行事のときには、お祝いの気持ちを込めてメッセージを送る風習があったんですけど、そのやり方が独特でしてね。あらかじめ参加者全員でメッセージを一つ決めて、それを相手に送るんですよ」

(あれ、思ってたより普通……?)


 悪い予感に反し、まともな行事内容に咲は肩透かしを食らう。


「送ると言っても実際に手紙を渡すのではなくて、例えば食事とかに書いたりします。誕生日のケーキで名前とか入れたりするチョコレートプレートを想像してくれるとわかりやすいかな。それで送られた人は、みんなの気持ちが込められたメッセージつきの食事を食べることで、本当に直接的に体に取り入れて受け取るんです。みなさんには自分で書いた習字の半紙でそれをやってもらいます」

(……は?)


 急展開に理解が追いつかず咲は呆然とした。いったい話をどう脱線したらその思考に至るのか、なおも秋津は誇らしげに咲たちに言い聞かせる。


「実は僕ね、当時その国に行ったとき丁度誕生日で、旅先の人にお祝いしてもらったんですよ。そのときにみんなからメッセージ入りの食事を振舞ってもらって、料理に『あなたの望みが叶いますように』って文字を書いてもらったんです。僕も最初は半信半疑だったんですけど、もうそこからは凄かったですね。実際に小さな夢がかなったり、僕が欲しかった本が手に入ったり些細な目標を成し遂げられたりと、いいこと尽くしでした」


 熱烈な勧誘者のように饒舌に自身の体験を語る秋津。話を聞く限りだと、確かに本人にとっては大きな出来事のようだ。

 しかしその『あなたの望みが叶いますように』というふわっとした言葉や、小さな夢や欲しかった本や些細な目標など、努力や運があれば誰でもどうにかなりそうなものばかり上げており、信憑性に欠ける事柄しか提示していない。


(なに言ってんのこいつヤバ)


 どう解釈してもまともでない内容に咲は詐欺の被害者になったような錯覚に陥る。最早疑いの目を隠すことなく、軽蔑の視線で秋津を凝視した。

 だが周囲は違う。熱く語られる内容に生徒たちは熱い視線を秋津に向けると、真剣そのものの表情でじっくりと耳を傾けていた。


「それから僕は悟ったんです。どんな知識でも経験でも言葉でも、自分の中に取り込んで糧にすることが大切なんだって。だから今日はみなさんにも、実際に僕が感じたものと同じことを体験してもらいたいと思います」


 言い終ると秋津は黒板に貼っていた【自主性】と書かれたお手本を一枚外して、全員に見えるように掲げる。


「先生はこのお手本しかないのでこれでやりますが、みなさんは自分たちで書いた半紙でやってください。多分そっちの方が食べやすいと思うんでね、そう苦労はしないと思うんですが……これから行きましょうか。この文字を書いた人、僕と同じようにこんな感じで持ってください」


 ペラリと文字の書かれている面を見て、もう一度前に出す。同じ字を選んだ生徒たちだけが秋津を真似て半紙を手に持ち、同じように掲げる。


「【自主性】。自分から率先して行動すること。この字を選んだ人たちは、自分がそういう人になれるように願いを込めて取り込みましょう」


 その言葉を合図に秋津は紙をくしゃくしゃに丸めると、ぽいと口に放り込んだ。

 秋津がもぐもぐと咀嚼すると、生徒たちもそれに続いて半紙を適当に丸めて、或いは口の中にそのまま突っ込んで、黒々とした墨汁の染みた紙をムシャムシャ頬張る。


「……」


 周りで多発する奇行に咲は二の句が継げなかった。ひたすら呆然としながら、自分を取り囲む狂気に塗れた光景に、身動ぎ一つせず硬直する。

 やがて秋津はゴクンと喉を鳴らすと、あーと口を開けて呑み込んだことを示す。


「じゃあ今食べたみんなも口を開けて。あー」


 入念にも、秋津はちゃんと呑み込んだか確認するため、半紙を食した生徒たちにそう命じた。子どもたちは言われた通りに口を大きく開けると、秋津は一人一人に目を向け、わざわざ指を差し確認をして口の中に残ってないかチェックした。


「はい、もういいですよ。それじゃあ次行きます」


 確認が終わると秋津はすぐに二枚目の紙を取り、次の文字に移る。


「【生産】。勉強や仕事で新しいものを産み出す能力」


 解説すると秋津は丸めた紙を口内に入れて噛熟す。続いて半紙を食べる生徒たち。

咲は自分の選んだ字を思い出すと、ハッとして青くなる。だが気づくのが遅かった。 秋津はすでに最後の一枚を手に持って書かれた文字を読み上げる。


「ラスト【理念】。物事の基本的な考え方」


 告げると秋津はヤギのようにクシャクシャと紙を貪り始める。


(うわマズい! 絶対やりたくない、どうしよ⁉)


 机の上に置かれた半紙に咲は慌てふためく。そこには忌々しい【理念】の文字が、墨汁で染みた自分の直筆でべっとりと綴られていた。

 咄嗟の判断だった。咲は秋津の視線が逸れているのを確認すると、勢いよく半紙を鷲掴み、グシャリと潰れて皺だらけになるのも憚らず急いで机の中に仕舞う。

 半紙を完全に机に押し込むと、咲はチロリと目線を前に向ける。

 こちらを見ていた秋津と目が合った。

 ドクン! と心臓が飛び跳ねる。


「えっ……あれぇ?」


 犯行現場をすべて見ていたにもかかわらず秋津は素っ惚けた表情をすると、思わず笑ってしまったかのように白々しくプッと息を吐き出し、教壇の前に出た。

 あくまでも笑顔で、しかしわざとらしく笑みを作ろうと口角を変な形に上げる。そのせいで目尻に刻まれた皺が通常よりも深まり、より胡散臭さが増した。

 秋津は一切笑っていない玉のように光る黒い瞳を向けたまま、咲に近づいていく。


「ねえ今――」

「オエエエェエェェ!」


 咲に指を差して迫りかけた直後だった。絞められた喉から声を絞り出すような嗚咽が教室の一角から響く。反射的に全員がそちらに目を向けた。

 そこには一人の少女が苦しそうに胸元を抑え、涙目で喘いでいた。

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